第3話

 三


 岩場や、林の中を走らされる。

 次に重い砂袋を上げ、最後は剣術。

 宇文平に特訓を頼み、もう二ヶ月が過ぎたが、これがひたすらに厳しい。雷梧は、毎日のように嘔吐した。

 しかし、もう限界ですと根を上げる直前で、いつも訓練は終わりになる。宇文平がうまく教えるという理由は、そういうことだった。

「立て。敵に背を向けるな、死ぬぞ」

 面長な顔の、宇文平が言う。四つん這いで吐いている雷梧には、答える気力もない。

 雷梧は将軍になってから、すでに何度か実戦にも出た。いくらか強くなったはずだが、まだ慣れたとはいえない。

「王金鹿と、方翔じゃないか。何の用だ」

 宇文平が、誰かに声をかけた。大柄と小柄の男が歩いて来る。昔の部隊仲間らしい。

 彼らと話をした宇文平は、頷きながら雷梧に告げた。

「今日は上がれ。安禄山殿が、お前を呼んでいるそうだ」

 また何か、話があるのだろうか。

 雷梧は、貧血も忘れて起き上がる。宇文平に挨拶をすると、王金鹿らに同行した。


「雷梧、都を見てみたくはないか?」

 司令室に入ると、安禄山はいきなり言った。

 玄宗皇帝のよき遊び相手でもある安禄山は、たびたび唐の都・長安に赴いている。

 彼は、少年将軍として頑張っている雷梧への褒美として、長安を見せてやりたくなったという。

「仮とはいえ、親子の関係だからな。少しは父親らしいこともしてやりたい」

 安禄山は優しく笑った。

 確かに、雷梧も一度は都に行ってみたいと思っていた。仮父の配慮が、暖かく染みる。

「わしは行けぬが、この王金鹿と方翔を付かせる」

「はい。ありがとうございます」

 雷梧は喜んで部屋に帰ると、行李に服を詰め、厩に行った。

 黒い馬が、嬉しそうに前脚を上げる。

 時仁夏から譲られた、例の黒馬である。闇鵬あんほうと名付けていた。

 その闇鵬の、額だけにある白い毛を撫でる。

「都に行けるぞ。いろんな物があって、何日いても飽きないんだそうだ。お前にもきれいな鞍を買ってやるからな」

 辺境の軍人は、軍営の近くで屯田をしながら生活する。だから雷梧は、田畑と草原しか見たことがなかった。

 彼の想像する都は、広野の中に城がひとつあるくらいのものだったが、それでもとにかく嬉しい。

 眠る時ふと、時仁夏の顔を思い出した。養子の話の時に見せた、奥歯に物の挟まったような顔。

 しかし、安禄山の配慮は、本心からだろう。そう思うと、疑問も消えていった。


 三日後、雷梧は長安へ向けて出発した。

 のんびりした旅を予想していたのだが、王金鹿たちはなぜか道を急ぎ、昼夜を構わず馬を駆けさせる。雷梧はろくに寝食もとれぬまま、延々と六日間も走り続けた。


 しかし、いよいよ長安に入ると、長旅の疲れなど消しとんでしまった。

 柱や屋根にまで緻密な彫刻を施した建物。

 極彩色の旗指物で人目を引いている商店。

 行き交う人々も、活気に溢れて見える。

 雷梧は、目に映るものを全て追った。

 唐の国は、今が一番ともいわれる太平の世を送っている。しかし彼の住むような辺境地は、国境を守るための戦いは絶えておらず、決して平和とはいえないのである。

(まさに栄華の都だ。僕らの戦いは、これを支えるためにあったんだな)

 道行く人の笑顔が、雷梧は自分の働きの結果のように思えてきた。

「雷将軍。私たちはちょっと所用がありますので、ここで失礼します」

 大柄な体の王金鹿が、突然言った。

「え、ここで、ですか」

 戸惑った雷梧に、小柄の方翔が紙片を渡す。

「旅籠の場所は、この地図に。夜になったら私たちも行きますので」

 そう告げると、二人は馬首の向きを変え、街の奥へと消えていってしまった。

 一人になった雷梧は、少し心細くなりはしたが、菓子の店や馬具の店などを見ていると、そのうち気楽になってきた。


 雷梧は続いて、長安の西の市場へ出かけた。

 ここには、西域人とも呼ばれる胡人(ペルシア、トルコ等の民族)が多く、シルクロードを経て来た織物や香料などが売られ、大いに賑わっている。

 景教(キリスト教)や拝火教(ゾロアスター教)の寺院もあり、異国の風情が漂っていた。雷梧の部隊にも西域人はいたので、案外に見慣れたものもある。

 時刻は夕方に近くなっていた。

 腹も減ったので、酒場を探す。

 見つけた店に入ると、客は漢胡入り交じりで男ばかり。皆何かを待っているようで、やたら下品な笑い声が響く。

 雰囲気に戸惑いながら、雷梧は串刺し焼き肉のケバブ料理を食べた。ついでに葡萄酒も飲んでみる。

「何だ、子供のくせに酒なんか」

 突然声をかけられて振り向くと、店主の男がばつの悪そうな顔をして立っていた。

「帰りな。今から舞台なんだ。ガキが見るようなもんじゃない」

 確かに、店員が忙しげに店の中を片付け、中央に台のようなものをしつらえている。

 雷梧は咄嗟に、こういう場所に慣れているような表情を作った。

「これでも軍人だよ。童顔で悪かったな」

 子供に見せられない出し物なら、尚更見てみたい。周りの連中を真似て、荒っぽく酒をあおった。店主は訝しげな顔で離れていく。

 舞台は完成し、たくさんの蝋燭を鏡で反射させ、白昼のように照らしている。

 店主の声が響いた。

「お待たせしました。当店が誇る胡姫の姉妹、沙維謝サイシャ沙維羅サイラでございます。遙か遠い康国こうこく(現ウズベキスタンのサマルカンド)よりやって参りました。十六歳と十二歳が織りなす、艶媚な胡旋舞を、どうぞお楽しみください」

 西域人の踊りを胡旋舞、その舞姫を胡姫と呼ぶ。雷梧も話には聞いていたが、見るのは初めてだった。

 舞台の脇にいる数人の楽団が、絡みつくような気だるい音楽を奏で始めた。それに伴って、金の髪、緑の瞳に白い肌の踊り子が二人、ゆっくりと舞台に上がる。

 蛇と葡萄を描いた紫色の衣装は、薄い上に、身体を最小限にしか覆っていない。二人は細身の身体を柔らかくうねらせ、二匹の蛇が絡むように踊り続けた。

 店内は喝采と野次が入り交じり、大騒ぎになった。常連らしい客は、踊り子の名を呼びながら拍手を送っている。

 雷梧は軍隊生活ばかりで、あまり女というものを見た事がない。年上の兵士たちはしばしば妓館に通っているが、何が楽しいのかよく分からないでいた。

 だが、今は違う。

 彼女たちのしなやかな身体に、雷梧の目は釘付けになった。酒の力も手伝って、自分の奥で育って来ていた何かが、強烈に叩き起こされてくる。

 そんなとき、胡姫の妹が、雷梧の方を見た。

 どうして、こんな若い人が。

 そんな視線である。

 雷梧は緊張して、顔面に汗が噴き出た。

 観客もそれに気付き、「小僧、気に入られたみたいだな」と囃す。

 雷梧は真っ赤になってうつむき、固まってしまった。しかし周りは、更に囃す。

 とうとう雷梧は居たたまれなくなり、適当な額の銀子を置いて、駆け足で店を出てしまった。

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