十   由ある任

 しんとした広い部屋の中、ほかにすべきこともなく、なかなか現れないひとを待つ。これはきっと身体にわるい。

 早瀬はやせは、板敷きの床に置かれた円座に座っていた。距離を置いて正面には、厚い畳が敷かれている。お屋形さまがお座りになる場所らしい。そのお屋形さまは、まだ、おいでにならない様子である。

 さきほどから早瀬は、何度も座り直してみたり、頭を触ってみたりしている。落ち着かない。緋高ひだかに借りた水干の、袖についた紐を引っ張る。

 お屋形さまに、小袖の着流しでご対面というわけにはいかず、きちんとした格好をしなければならなかった。早瀬の黒い筒袖と袴は、洗ってくれておりまだ乾いていなかったので、緋高が洗い替えに持っているものを借りたのだ。色は二着ともおなじ浅緋で、早瀬はこんな明るい色を着たのははじめてだった。水干も着たことがなかった。このあたりの傀廻くぐつまわしは、たいてい水干を着るらしい。古式にのっとっているようだ。

「袖をいじるな千切れる」

 急に、横から尽平じんぺいが言った。尽平は、ここに入ってきたばかりのときはどこかへ行ってしまっていたが、戻ってきていた。そばで一緒にお屋形さまに会ってくれるらしい。早瀬は、いじくり回していた袖の紐から手を離した。

「すみません」

 早瀬が言うと、尽平は少しあきれたように笑う。

「そんなにかりかりすんな。お屋形さまはひとを取って食ったりしねぇよ。なあ千世ちせさん?」

 尽平にのぞき込まれたが、千世は、こたえない。気を張っている様子でもない。尽平と早瀬のあいだに、ちんまりと座っている。

 出かけようとすると、ついてきたのだ。尽平が、べつにいたってかまわないと言って一緒に連れてきてくれた。

 千世からの返事を受け取れなかった尽平は、気にするふうでもなく、なぜか早瀬に向かってにやりとした。早瀬は笑い返そうとしたが、おそらく頬が引きつっただけだった。

 千世にもなにも声をかけられず、早瀬はなんとなく斜め前に目をやった。早瀬に横顔が見える向きで座っているひとがいる。黙しているだけだが、おだやかさが伝わってくる。いまも、尽平と早瀬のやりとりを聞いてか、ほんのり口もとがゆるんでいるようだった。

 昨日、物守村ものもりむらにも来ていた刀祢とね武昌たけまさだ。豊手村とよてむらほか近辺一帯を治める領主だと、緋高が教えてくれたひと。本人からも、その旨聞いた。いまから会うお屋形さまの臣であるこのひとも、この場に立ち会うことになっていたらしい。

 ふと、刀祢武昌が早瀬のほうを見る。目が合い、早瀬は慌てて頭を下げた。なんとなくなごむ気がして、眺めてしまっていたのだ。それでも刀祢武昌は、気をわるくしてはいないようだった。笑みを含んだ声で言った。

「尽平の言うとおりです。お屋形さまはひとをとって食わない。野菜、とくに大根がおすきです」

 尽平がふきだし、刀祢武昌も笑いだす。早瀬は少しだけ力を抜き、そっと顔を上げた。

 良庫国らくらのくにを治める鞘野さやの家の当主、鞘野さやの尚孝なおたかとの面会のため、尽平に連れられてやってきたここは、執廻署しっかいしょだ。各国に置かれ、国内の傀廻しを統括し、また養成する役所だった。


 執廻署は千年ほど昔の帝が置いたと、早瀬は師匠に習った。

 かつて、帝のあまねくしろしめす地であったこの島国だが、いまは多くの領国が並び立ち相争っており、朝廷の威光は弱まっている。そんな戦の時代になってから、もう五百年ほどが経っている。力を持ち全国を統べる者が現れては、その体制が崩され戦になるということを、幾度も繰り返してきた。

 執廻署が置かれた千年ほど昔というのは、朝廷の力が強く、帝のもとに全国がまとまっていたころだ。そのころも島は国に分かれていたが、国の主は都から任期つきで遣わされており、戦もなかった。

 その時代、かの帝は、海の向こうにある大陸の制度を参考に全国に執廻署を設置し、くぐつの対応に当たらせることにした。執廻署の支所として町村に吊頭所ちょうとうしょを作り、傀廻しを常駐させた。

 それまでは、傀は「もの」と呼ばれており、傀廻しのような仕事もなかった。おのれの身はおのれが守ることになっており、傀の血を身体に入れ力を手にするということも行われていなかった。そこに大陸のやり方が伝わり、「もの」に関する仕組みも、呼び名も新しくなったのだ。

 取り入れても死んでしまったり傀になったりしない血の量というのは、千年よりも前に大陸のひとが見つけたらしい。それは大昔からひとが、傀と渡り合うすべを探してきた成果でもある。大陸のひとはそれを広めていった。この島国にも伝わった。

 しかし、大陸の影響だけが、変化の理由ではないとも言われる。かの帝が「もの」に関わる仕組みを一新するほど「もの」に関心を持っていたのは、弟宮に「『もの』を操る」力があったから。そんな言い伝えがある。

 ともあれ、当初。帝が作らせた執廻署の長官は、国の主とはべつに都から各地へ派遣されていた。傀廻しも、帝の置いた役所の官人として敬われていた。

 しかしやがて、朝廷の力は弱まっていく。国主は派遣されなくなり、地方はその地の豪族が支配することが多くなっていった。都からやってきた一族が居着き、そこを治め続ける場合もあったようだが、どちらにしろ地方の国がそれぞれに力をつけていった。そして朝廷への反乱が起き、全国に波及する。戦の時代になった。

 執廻署の長官も遣わされなくなった。執廻署は領主の私物となり、かたちばかりとなる。かつての執廻署は、中央の命を各吊頭所に伝えて傀廻しを統括し、傀廻しの養成も行っていた。しかしいまは、朝廷から命が下るようなことはなく、傀廻しを育てるのはそれぞれの吊頭所の役目となっている。

 傀廻しも朝廷の官人ではなくなり、領主や町村に雇われるようになった。執廻署により確保されていた衣食住については、雇い主から与えられることがほとんどとなった。そうして傀廻しは地位が下がり、煙たがられることが多くなった。れびととなり放浪する者も現れ始めた。

 傀廻しへの尊敬を支えていたのは、中央の権威だったらしい。それがなくなれば、尊敬は畏怖に、恐怖に、変わっていく。傀の血など入っているのでしかたないのだろうと、早瀬は思っている。夜に、傀には及ばないが傀のような力を、発揮できるようになるのだ。身体が強くなり感覚が鋭くなり、それでいて苦痛は感じにくく、傷の塞がるのが早くなる。ひとを恐れさせるにはじゅうぶんだろう。

 ただ、国や地域、ひとによって、傀廻しの扱いが異なることもたしかではある。雇い主もいろいろであるし、近所のひとから感謝をされたりおすそ分けをされたりすることもある。離れびとでも、親切にしてもらうことが、ないわけではない。

 尽平によると、この良庫国は、土豪の古弓ふるゆみ家が都から来た国主を退けたのち、長く治めてきたらしい。執廻署は名前と建物ばかり残し、傀廻しは家でまとめて雇うことにしていたという。そして鞘野家が、その後を継いだようだ。この国の傀廻しは、鞘野家に雇われている。


「だから袖をいじるな。無駄に力が強いんだよ緋高が泣くぜ」

 尽平が言って、千世ごしに手を出してくる。早瀬は袖から手を離し、背のうしろに組んだ。すると尽平はよろしい、とうなずいて早瀬の肩をたたいた。

「そんなに心配すんなって。お屋形さまはなかなかおもしろいおひとだぞ。傀廻しになりたがってたこともあるし、こうやってわざわざ執廻署まで出向いてくださるしな。こっちのほうが、お屋形さまのお屋敷よりうちの吊頭所と近いからだ、お屋敷までこっちが行ったっていいのに」

 そう語る尽平は、なんだか少し自慢げに見える。きっと鞘野尚孝というひとは、慕わしい主なのだろう。

 鞘野尚孝がわざわざ執廻署まで出向いてくるのは、自邸に傀廻しを上げたくないからだと、早瀬は考えるともなく考えていた。しかしそうではないようだ。屋敷に傀廻しを入れたくないなら、傀廻しになりたがることもないだろう。関係ないが、大根がすきなようだし。そんなお屋形さまの前で、ぶっ倒れたりなどはしたくない。

 ここに来るまでの道すがら、小兎こと沙那さなが持たせてくれた握り飯を分けてもらった。早瀬はそれを、味もわからないまま詰め込んだ。昨夜の粥もおなじだ。罰当たりなことだが、食べる前も食べたあとも、気持ちがわるかった。いまもそうだ。ひどく緊張しているのはそのせいだった。話の途中で、なにか粗相をしないかと思って。

「お屋形さまのおなりです」

 先ぶれがあった。早瀬は、慌てて頭を下げた。尽平が横でまたふきだす。刀祢武昌も、小さく笑ったようだった。千世の気配は動かない。背後から足音が近づいてくる。

「待たせた。すまぬ」

 やや高めの声が聞こえた。もったいつけない歩き方と座り方が、平伏していても音でわかる。すぐに、さきほどよりも少し改まった声がした。

「おもてを上げられよ」

 おのれが言われたのだとわかり、早瀬は恐る恐る、顔を上げる。正面の畳の上に、茜色の直垂すがたのひとが座っていた。やや前のめりになり、早瀬をのぞき込むようにしている。三十手前ほど、尽平よりも年下に見えた。思っていたよりも、若いひとが現れた。早瀬はつい、その顔をまじまじ見てしまった。

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