八 疼く刻印
赤い、炎が暗闇を、殺そうとしている。できないのに。黒はすべてをとろりと受け入れてしまうから、できないのに。それでも炎はあざやかに逆巻き、なめ尽くしていく。闇ではない、ところだけを。乾ききった音を立て、風を吹かせ。焼いていく。村を焼いていく。けれど熱くなど、ない。遠すぎるのだ。遠くへ、行くのだ。
そばに、泣いているひとがいる。ずっとなにかつぶやいているひとも、膝に顔をうずめて動かないひともいる。でも、できない。だれにもなにもできない。ただ、がたがたと揺らされて、燃える村から遠ざかっていく。
できない。骨も拾うこともできない。ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、なんて、こんなの。おのれのために、言っているだけで。
ふわ、となにかが手首にふれる。まぶたが上がる。
薄暗かった。見慣れない簀の子天井に見下ろされていた。ここは。
ここ。
だれも責めてなどくれない。また夢を見た。目を閉じるともう一度、吸い込まれそうだ。あれから夢など見ることはなくなっていたのに。
借りものの小袖が背中に張りついている。筵のささくれが肌を刺す。心臓が騒ぎ回っている。
早瀬は深く息をしようと努めた。何度も試みているとようやく、少し落ち着いてくる。身を起こそうとして、ぎょっとした。
「
途中で咳き込んでしまった。這いつくばっておさめたのち、顔を上げると、やはり千世がそこにいた。足を投げ出して床に座っている。表情を動かさず、その深く澄む瞳で、早瀬を見ている。
「あの……、千世さまは、なにをなさっていますか……?」
早瀬は筵に伏したまま、千世にたずねた。なんともまぬけな問いだという気がした。
千世は、かるく首を傾け、ただ早瀬を眺めている。膝の上に紙と矢立がのっているが、使おうとする様子はない。早瀬は目をしばたきながら、頭のうしろをさわってみる。
部屋は、ぼんやりと暗かった。すっかり日は沈んでしまっているようだ。そして板戸の向こうにも、ひとが動く気配はしない。もう夜も深いのだろう。
「あの、千世さま」
早瀬は、千世の前にかしこまった。頭が重たいが座るのには困らなかった。
「寝てしまっておりました、なにかおっしゃりたいことがおありですか。お聞きしたいです」
千世はこたえようとしない。早瀬は、薄闇にほんのり浮かび上がる白い袖と、指先を見る。
「夜、ですし、千世さまもお休みにならないと……あれ」
早瀬はそばに筵がもう一枚敷いてあることに気づいた。千世と早瀬は、早瀬が寝ていた筵と、そのもう一枚とのあいだに座っているのだった。尽平か、
「こちらで、お休みになっていましたか、なにかお邪魔をしてしまいましたでしょうか」
申し訳なく思いながら問うと、千世はゆっくり目をまたたかせ、かすかに首を横に振った。早瀬ははっとして、膝の上の手を握りしめた。
気を遣わせた。あるいは、眠ることができないのだ。両方かもしれない。眠れないのも、無理ないことだ。だれも助けられなかったのに、このひとの前で熟睡するなど、あさましい。けれどだからといってなにができるだろうか。込み上げる重いかたまりを飲み下し、早瀬は千世に微笑みかけた。
「千世さま、少しお話がしたいのですが、よろしいでしょうか?」
すると千世は、こくりとうなずいた。それを見るとなんだかほっとして、目の奥が熱くなった。思いがけないことに驚き、慌てて笑みを作って声を出す。
「千世さまは」
早瀬は口をつぐんだ。耳を澄ませる。
聞こえる。板戸を隔て、かすかな衣擦れと寝息。窓の外では風が鳴る。草木を揺らす。戸を叩く。その中に、紛れている。紛れ込んでいる。
つぎの瞬間、心臓が凍りつく。聞こえた。縊り殺される雉が、さいごに叫ぶような音。だがこれは雉ではない。ばけもの。
早瀬は立ち上がった。刀二振りを掴み窓に詰め寄り、小さな木戸を押し上げる。冷えた闇がなだれ込む、足首に絡む。誘うなすぐにいってやる。早瀬は窓から、その中へ飛び込んだ。
駆けだす。畑を横切り、垣を乗り越え、走っていく。踏みしめられた土と枯れた草の上、稲株の残る田と小さな家々のあいだ、その細い道を、まっすぐに走っていく。
月影はない。明かりもない。それでも道は見失わない。夜目がきく。戦える。傀と渡り合える。
見えてくる。この、豊手村のお守りとなっている墓地。傀が棲みつく山のそばの集落は、たいてい墓に守られている。この村もそうだ。盛り上げた土に、名前入りの板を差した墓たちが、傀のいる山と向かい合っている。
傀は、死んだものがきらい。骸や墓が、気持ちわるい。殺すくせに。死ぬくせに。生きているのに。
石の敷かれた小道を駆け抜け、墓の土塁の外へ飛び出す。すると傀が、そこにいた。向かい合った。それは、うつくしいほうだった。だからといって、よいとかわるいとかはない。
大きさは、顎を突き上げ見上げるほど。その気になれば、きっと墓を踏み荒らすこともできる。そのすがたは熊に似ている。熊にしてはやや長い、二本の足で立っている。消し炭じみた色の毛のあいだから、ところどころ牙のようなものをのぞかせている。上を向き、首を縦に揺らしており、くしゃみが出そうで出ないというふうだ。これが、あの甲高い、死にかけの雉声を出したのか。
早瀬は帯に大小の刀を突っ込み、大きいほうを抜いた。そのときだった。ちょうど下を向いた傀の目が、早瀬をとらえた。
ぎょろりと動き、据わる。やるのか。去るのか。早瀬は、目の前にそびえる傀の体をざっと眺める。
図体はでかいが、獣のかたちの月並みなすがた。おそらく心臓は胸の中心。足を切り地面に倒すか、いや上ったほうが早い。体から生えた牙は足場、毛は滑り止め、背へ回り込んで駆け上がる、まず目を潰す、そのあと、えぐり出す。やれ。帰さない。刻んで吊るす。ああ。
殺す。
かるく地を蹴ったときだった。前へ出るはずの身体がうしろへ、引かれた。咄嗟の抵抗も抑え込まれ、気づく。だれかに羽交い締めにされている。力が強い。背を反らした姿勢では、動けない。相手の足を踏もうとしたとき、踵が蹴り飛ばされた。一瞬力が抜けた隙に、刀を叩き落される。指先まで痺れる。
「おい貴様」
耳に鋭い声が刺さる。首に腕が回される。締め上げられる。容赦ない力。
「貴様、おのれがなにをしているか、わかっているのか」
どこかで、聞いたことのある声だ。早瀬は脱力した。なにか急に、ひどく疲れた。
「この傀は、さめている。やるつもりがない」
早瀬ももう、動くつもりがない。でも相手はまだ締めている。縊る気なのかと、ぼんやり思う。
「わからないのか。その目は節穴だ」
目は節穴かもしれないが、わかっていた。これに、もうやる気がないことはわかっていた。やる気のない傀にわざわざちょっかいを出すなど、尋常の考えでやることではないとも知っている。そんなことをしたがるのは
いや、おれだけかもしれない。
「貴様。この近辺で、六体えぐったらしいな。まだ、やりたいのか。どれほど釣り合いを崩せば気が済む。つぎにどのようなものが来るか、わからないのだぞ。おのれはかかわりないと言いたいか。旅の者は気楽でよい」
その声は、鋭利だが冷えてはいない。煮えたぎっている。早瀬はそれを、ただしくひとだと思う、このましいと思う。目の前の、傀の毛の灰色が、ぼやけて散っていく。
「──おい。この程度で、落ちるのか」
「
どこからか、べつの声が聞こえた。駆け寄ってくる足音がする。
「なにしてるんだ、もう抵抗してないだろ?」
その声にも、覚えがあった。
「だから放せって、えっ、待って早瀬? おい斎丸おまえ、早瀬のこと絞めちゃったのか?」
「阿呆が」
首に回っていた腕がゆるめられ、早瀬はずるりと座り込んだ。横にだれかがひざまずく気配がする。薄く目を開けると、浅緋の袖が見えた。
「あのな、阿呆はどっちだよ。いまこのひと弱ってるんだぞ?」
「そのようには見えなかった。
「うぅん、そうだけどこんなに締めることないだろ? でもああ、まあ……ここに出てきてる時点でかなり、思ったよりかなりのひとなのかもしれないけど……?」
「知らん」
背後の気配が、荒っぽい足音とともに遠ざかっていく。正面の傀は、ゆっくりと腰をかがめて四つ這いになった。うしろ足が長いため、疲れそうな体勢に見える。そして傀は向きを変え、ほとんど音も立てずに去っていく。
「ちょっと、なあ、なあ早瀬」
肩をゆすられ、早瀬は頭を持ち上げた。にっこりと目を細めた顔がそこにあった。
「あ、よかった、生きてたよ。斎丸がやっちゃったかと思った、わりとほんとに」
言いながら緋高は、顔にかかった布を顎まで下ろした。右目に白い眼帯をしたおもてがのぞく。なんだか困ったように笑っていた。
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