第16話
――その日は結局、講義はせずに、子供たちと戯れて1日が終わった。
あの盲目の少女は、ナナリーというらしい。『聖女物語』を読み終えた後も、聖女について話が盛り上がり、帰宅する頃にはすっかり、仲良くなっていた。
また来るね、と約束して別れた、その夜。就寝前に用意されたハーブティーを飲みながら、私はぼんやりと窓の外の星を眺めていた。
「……心ここにあらず、だな」
「ロロ……」
すっと音も立てずに向かいに腰掛け、長い足を優雅に組む神獣殿は、青い宝石のような瞳でじっと私を見つめてきた。
「あの子供たちのことを考えていたのか?」
「……うん」
そっとソーサーに戻したティーカップ。その澄んだ水面に、自分の顔が映っていた。
「私、知らなかったんだなって。神殿が預かっている孤児たちのこと……。そういう子供たちがいるって、そんな薄い認識しかなかった」
ぽつりぽつりと零す私の言葉を、ロロは唯静かに聞いてくれていた。
「勿論、我が家も公爵家だし、神殿の孤児たちにって寄付をしてはいるけれど……。その先に、あんなに無邪気な笑顔があったのを、私は知らなかったわ」
「そうか」
ロロの低い声が、静かに相づちを打つ。そして私たちの間には、沈黙が流れた。
夜の静かになった屋敷の中、たまに遠く、使用人たちの微かな足音が聞こえる。
見上げた窓越しの空は、雲もなく、瞬く星たちが静かに、地上を照らしていた。
「……ロロ。明日ね、本屋へ行こうと思うの」
視線を夜空から逸らさないままに言うと、向かいでロロが、微笑む気配がした。
「明日は、ドレスの試着があるんじゃなかったか?」
「確か午前中でしょう?それ。終わり次第、街へ出るわ」
「わかった。その心づもりでいよう」
――翌日。
私は予定通りに、夜会用のドレスの試着を終え、昼食もそこそこに馬車へと乗り込んだ。
「お嬢様?何か欲しいものがおありでしたら、私がお使いしますのに……」
付き添ってくれるマーサが、ほんの少し不満そうに言った。ロロはといえば、馬車の中が狭くなるから、と、今は黒猫姿で私の膝を占領している。
「いいのよ、マーサ。私が自分で、本を選びたかったの」
「そうですか……。それなら、仕方ありませんが……。あ!着いたみたいですよ」
馬車が停まったのは、首都にある老舗の書店だ。ユロメア公爵家が良くお世話になっている場所だが、自身の足で訪れるのは今日が初めてだった。
古い佇まいの、落ち着く扉をマーサが押すと、チリリン、と涼しげなベルの音がした。
「はいはい、ただいま……。おや!これはこれは」
「久方ぶりね、ロジャー」
奥から出てきた初老の男性は、私の姿を見て、小さな丸眼鏡を押し上げる。
この書店の店主である、ロジャー・バートンだ。
彼はにっこりと満面の笑みを浮かべると、私の前で一礼して、私の手の甲へ口づけるフリを――挨拶を、してくれた。
ロジャーは、私が小さい時からずっと、屋敷へ本を売りに来てくれていて、親戚のおじさんのような存在なのだ。
「ご機嫌麗しゅう、ジュリエッタ様。貴女様がこんなボロ屋へいらしてくださるなんて、初めてですな。お呼び出し頂ければ、すぐにでも参りましたのに」
「ええ。突然ごめんなさいね。どうしても自分で見て、選びたくて」
「左様でございますか。埃っぽい場所で申し訳ありませんが、どうぞ好きなだけ、ご覧になっていってください。さて、どんなものがご入り用で?」
「ええとね。絵本が欲しいの。子供向けのものを何冊か」
「……お嬢様?絵本……が、欲しかったのですか?」
マーサが困惑顔でおろおろしている。対して私の腕に抱かれたままのロロは、訳知り顔でフッと笑っていた。
「ふむ。絵本、でございますか」
ロジャーは少し考え込むと、私を本棚の迷路の一角へと連れて行ってくれた。
「こちらの棚から……あちらの。あの大きな本がある辺りまでが、絵本の陳列棚でございます」
「ありがとう。見させてもらうわね」
「ええ。ごゆっくりご覧くださいませ」
ロジャーがまた店の奥へと去って行って、私は絵本を選び始めた。
「あら、これ、絵が綺麗ね。……こっちは、図鑑かしら?勉強にもなって良さそうね」
「リーエ。ほら、そこの。緑の本」
「え?これ?……あら、ロロ、貴方良い物を選ぶわね。これも買いましょう」
ロロと一緒に本を吟味しながら、あれも、これもとマーサに渡し続けて――気がつけば、あっという間に1時間ほどが経過していた。
「あの……お嬢様?そろそろ、帰りませんか……?」
マーサに声を掛けられ、ようやくハッとする。本を選ぶのに夢中になってしまって、つい、時間を忘れてしまっていた。
見れば、マーサの横にはどん、と、本の山が出来てしまっている。
「ごめんなさい。夢中になっていたわ。もうこれくらいで大丈夫そうね。購入して帰りましょう」
マーサに支払いを済ませてもらい、私たちはロジャーの丁寧な見送りを受けて店を後にした。
大切な絵本たちは、馬車の座席に積み上がっている。
「あの……お嬢様?この絵本は、一体どうなさるんですか?お嬢様がお読みに……?」
「ああ、違うの。これはね、子供たちへの贈り物にするの」
「子供たち……ですか?」
「ええ、昨日ローエングリン神殿に行ったとき、神殿で暮らしている子供たちに会ってね……。私、今までああいう子たちのことを、何も考えたことがなかったなって思って」
「ではこちらは、神殿の孤児たちへの寄付として?」
「うーん……。そんな大したものじゃないんだけど。昨日、あの子たちが沢山遊んでくれて、楽しかったから。そのお礼をと思ったの」
ほんの少し照れくさくて、マーサから視線を逸らす。
けれど次の瞬間、マーサが突然、私の両手をぎゅっと握りしめて、驚いた。
「お嬢様……!」
マーサは目を潤ませながら、頬を染めてずい、と身を乗り出してきた。
「なんという……なんという、美しいお心遣いなのでしょう!マーサ、感動いたしました!」
「えっと、マーサ?」
「お嬢様……!私のお嬢様は、やはり王国一のお嬢様です!なんて素敵なのでしょう!さすが、神獣様に選ばれる乙女です!」
「ちょっとやめてよ!どうしたの、急に……恥ずかしいわ」
「申し訳ありません。感動のあまり、気持ちが高ぶってしまって……」
マーサはハンカチで涙を拭うと、座席に座り直し、本当に嬉しそうに笑った。
「お嬢様、ご存知でしたか?私マーサも、元は神殿の孤児出身なのですよ」
「え……!そうだったの?それは知らなかったわ」
「公爵閣下は、慈善事業の一環として、私たちのような孤児出身者も快く使用人として雇ってくださるのです。……それはそうと、お嬢様のその贈り物ですが。本当に、喜ばれると思いますよ」
「そうかしら?実はちょっと、不安なのだけど……」
「不安になる必要なんてございません!……貴族の皆様は、神殿に沢山の寄付をしてくださいますが、実のところ、その寄付金の使い道を決めるのは、神官様たちなのです。ですから、絵本のような娯楽品に関しては、滅多に買ってもらえるものではないのです」
マーサは話しながら、優しい動作で隣に積まれた絵本の山を撫でた。まるで自分が贈り物でも貰ったかのように、幸せそうな表情で。
「お嬢様がこうして、『寄付金』ではなく、『お礼』として絵本そのものをお送りになれば、子供たちはどんなに喜ぶでしょう……。大丈夫です、お嬢様。きっと、子供たちは喜んでくれますわ」
「そうだといいな」
本当に、ちょっとしたお礼のつもりで、それ以外の意味なんてなかった。
ただ、ナナリーが大切そうに絵本を抱えていたのが印象的で……。自分も、何か、彼らのためになるような贈り物をしてみたいと、そう思っただけだった。
沢山の絵本を読んで、沢山のことに興味を持って、すくすく育ってほしい。
公爵令嬢という自分の立場から、できることを探した結果だったのだが……。
「……あの子たちに喜んでもらえたら、私も嬉しいわ」
渡す前から、子供たちの笑顔を想像できるような気がして、私もそっと、本の山へと手を触れた。
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