第3話


 ユロメア公爵家は、アーヴェルト王国の中でも突出して、歴史と権威のある家門だ。

 長い王国史の中で、多くの宰相や神官、王妃たちを輩出してきたユロメア家は、貴族たちの間でも一目置かれる存在である。

 そんなユロメア公爵家には現在、ふたりの公子とひとりの公女がいた。

 末娘のジュリエッタ・ユロメアは、ハニーブロンドの美しい髪と、新緑色の大きな瞳を持つ美人として知られている。

 珍しい聖属性魔法を使うことができ、幼い頃から第二王子の婚約者として教育されてきたジュリエッタは、社交界でも高嶺の花――だったというのに。


「ああ……本当に、神はどうしてお嬢様に、このような試練をお与えになったのでしょう! あんな馬鹿げたお茶会に、あんな聖女まで……私、信じられません!」


「私も同意見よ、マーサ」


 温かい紅茶を用意してくれながら、マーサはさめざめと嘆いていた。


「私のお嬢様は、こんなにもお優しい、王国いち素敵な方ですのに!」


「ふふ、ありがとう」


 渡されたカップには、たっぷりのミルクティーが用意されていた。

 ひとくち飲めば、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐる。私の大好きな、蜂蜜入りのミルクティーだ。

 ほっと溜め息を吐くと、マーサが心配そうに毛布をかけ直してくれた。


「お嬢様……本当に、お身体は大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫よ」


 彼女を安心させたくて、笑顔を返したけれど、マーサは表情を曇らせたまま、「そうですか……」と、呟いた。

 手の中で柔らかな温かさを伝えてくるカップを覗き込みながら、もう一度溜め息を吐く。


「本当に、大丈夫よ。……私のことより、あの子が助かって、本当によかったわ」


「お嬢様が頑張られたお陰ですね」


 そんな会話をしながら、そっと、窓際に置かれたバスケットへ視線をやった。

 ふわふわの毛布に包まれて、小さな黒猫が安定した寝息を立てている。

 ――私は、あの子猫を治療することができたのだ。

 屋敷に着く寸前、私は魔力の使いすぎで気を失ってしまったのだが、ぎりぎり、それまでの治療によって、子猫は命に関わらない程度まで、回復することができていた。

 気を失っていたのはあまり長い時間ではなかったが、気がついたときには、私は自分の部屋のベッドで眠っていたのだ。

 子猫の怪我も、私が気を失っているうちに、公爵家お抱えの医者が治療に当たってくれたのだという。


(私も、ちょっとした魔力の使いすぎなだけだったし、子猫も助けることができたし、本当によかった……)


 その日は、話を聞きつけたお母様やお兄様たちが大袈裟なくらい心配しながら見舞いにやってきたり、城で忙しくしているはずのお父様まで、わざわざ顔を出しにきたりと、非常に賑やかな1日になった。

 大事をとって休みたい、という私の意思で、夕食も部屋へと運んで貰い、無理をしないよう、早めに就寝してほしいとマーサに拝み倒され……。

 眠気もまだまだ遠い時間に、私は薄暗い部屋の中、ベッドで横になっていた。

 ベッドサイドには、就寝用の小さなランプを置いているが、ゆらゆら灯るその光を見ていても、一向に眠気が訪れる気配はない。


(眠れないのに、無理に寝ようとしても良くないわよね)


 諦めて、少し夜風にでも当たろうかと、ベッドから降りた時だった。

 視界の隅で、夜の闇がもぞり、と動いた気がして、びくりと小さく飛び上がる。

 でもすぐに、その正体に気がついた。

 再びもぞり、と小さく動く闇――それは、窓際に置いたバスケットの中身だ。

 もしかして、目が覚めたのだろうか。

 そう思った私は、ベッドサイドのランプを手に、そっと窓際へ歩み寄る。恐る恐るバスケットの中を覗けば、毛布がもぞもぞと動いて、黒い頭がぴょこんと出てくるところだった。


「……おはよう、目が覚めた?」


 驚かさないよう、小さな声で呼びかける。すると、黒猫はぴくりと耳を動かして、こちらに顔を向けた。

 大きな、澄んだ青い瞳が、まるで宝石のようにランプの光を反射して、煌めく。

 その美しさに、目が合って数秒、息が止まった。

 黒猫はすぐに、するりと滑らかな身のこなしで居住まいを正すと、バスケットの中で綺麗な姿勢を取り、私へと向き直った。


「……俺を助けてくれたのは、お前だな?」


 そうして可愛らしい子猫の口が開いて、聞こえてきた低く落ち着いた声に、心底驚いた。


「……え、今、話し……えっ?」


「驚かせてすまない。だが、話しているのは、お前の目の前にいる、俺だと理解してほしい」


 声に合わせて、子猫の口元が動いている。

 また、青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてきて……私はとにかく落ち着こうと、深呼吸をした。


「……ええと。私のほうこそ、ごめんなさい。驚いてしまって。……失礼、だったかしら?」


「いや。驚かせたこちらが悪いから、気にしないでほしい。俺は、ローエンマイン・ロジェルティア・アルファレアという。お前たちが言うところの、神獣というやつだ」


「神獣……」


 丁寧にぺこりと頭を下げて、そう自己紹介した子猫に、私はようやく納得がいった。

 ――神獣。アーヴェルト王国を守護してくださっている神が、人のために使わしたという獣。

 聖女の他に、神聖力を持ち、その力を振るうことを許された唯一の存在。

 教養の中では、そのように習った。

 人語を解し、人と獣のふたつの姿を自在に行き来する。強大な神聖力を使って、王国の歴史に名を残すこともしばしばある、神の遣いなのだという。


「貴方が、神獣?……その、神の遣いだという、あの?」


「そうだ。神より加護を授かり、人のため、聖女のために力を貸すよう命を頂き、この地に降り立った」


 聖女のため、と言う言葉に、更に納得した。

 王国に聖女が現れる時、揃って神獣が現れていることが多いのは、誰でも学ぶことだ。

 神獣たちは、聖女たちに寄り添い、彼女らを守り支え、この国の為に尽くしてきたと言われている。

 ならばこの黒い子猫――もとい、黒き神獣も、きっと聖女アリサのためにと遣わされたのだろう。

 私は少し考えてから、ランプを近くの棚の上に置き、神獣に向かって寝間着の裾をつまんで深く、礼をした。


「そのようなお方とは知らず、無礼を致しましたことを、お許しください。私は、ユロメア公爵家子女、ジュリエッタ・ユロメアと申します」


「どうか頭を上げて欲しい、ジュリエッタ。お前は、私の命の恩人だ」


 静かで優しい声に、ゆっくりと姿勢を戻した。

 変わらず、バスケットの中で美しい姿勢を保ちこちらを見つめる子猫が神獣だなんて。

 信じられないような気持ちが半分、しかし実際、子猫と会話をしている自分がいることを、受け入れようという気持ちが半分……くらいだろうか。

 この子猫が本当に神獣だとして、私の部屋にいる、というのは……無礼にあたらないのだろうか?とか。

 アリサのための神獣なのだとして、どうしてあんな傷だらけになっていたのか、とか。

 わからないこと、聞きたいことが沢山ある。

 そんな中で、これだけは先に確認しなくては、と、口をついて出たのは、こんな言葉だった。


「あの……ろ、ローエンマイン様、でよろしいでしょうか? その、お身体の具合はいかがですか? 何処かまだ、痛んだりされませんか?」


 私の問いに、神獣の美しい瞳が丸くなり、ぱちくり、と瞬いた。

 私の脳裏には、未だに、昼間に見た痛々しい子猫の姿が焼き付いている。

 今にも消えそうな命を、必死に繋いでいるあの様子が、抱きしめたときの手の感触が……未だに胸を締め付けて仕方がなかったのだ。

 ふ、と青い瞳が柔らかく解けたのは、その時だった。


「……お前は、本当に心優しい娘だな」


 感心したような神獣の声は、温かく優しい響きを持っていた。


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