第2話
「あーーーー!やっと解放されたわ……!」
「お嬢様!いけません、まだ王城の敷地内なのですから」
「いいじゃない、周りに誰もいないわ」
「そうかもしれませんけれど……」
「ああもう、ほんっとうに毎回毎回、馬鹿馬鹿しいったらないわ……」
うんざりするような、茶番めいたお茶会が終わった後。私は侍女のマーサを連れて、王宮の庭園内を散歩していた。
お茶会参加者の他の令嬢たちとはタイミングをずらして、帰りの馬車に乗り込むためだ。
本心では、一秒でも早く、さっさと屋敷へ帰ってしまいたいところだが……なんやかんやと理由をつけて、馬車の乗り合い場所で文句をつけられたくない。既に何度か経験したことだが、あれは唯々、面倒くさい状況だった。
広い王城南の庭園をぐるり、とゆっくりお散歩すれば、他の令嬢たちはすっかりいなくなっている……はず。
おまけに綺麗な花々まで愛でられるのだから、馬鹿の集まりで不愉快になった心も、少しは癒やされるというものだ。
――本当に、心からそう、思っていたというのに。
「……今日という日に限って、一体どういうことですの?」
そろそろ帰ろうかと、そう思っていたタイミングで。
進行方向の生け垣の傍に、艶やかな黒髪が見えた。
非常に残念だが……間違いない、先ほど分かれたばかりの、聖女アリサだ。
彼女はドレスが汚れるのも構わずに、しゃがみ込んで生け垣に頭を突っ込んでいるようだった。
「えっ、あれは……」
後ろを歩いていたマーサも、彼女の存在に気がついたらしい。足を止めると、困惑したような表情で声を潜めた。
「お嬢様、どうなさいますか? 今からでも、別の道へ……」
「それはさすがに、面倒くさいかな……」
いい加減、お茶会の疲れもあるし、早く帰りたい気持ちが勝る。
それに、彼女の横を突っ切ってしまえば、馬車の待っている場所まで本当にすぐだ。
わざわざ彼女を避けて、庭園をもう一周する――なんていうのは、彼女に振り回されているようで嫌だし。
「構わないわ。行きましょう、マーサ」
「……かしこまりました」
すれ違う時に、ちょっと挨拶だけすればいい。
そう心に決めて、気持ち足早に、彼女の横を通り過ぎた。
「あら、ご機嫌よう、アリサ様」
それだけ声を掛け、足を止めることすらせずに通り過ぎる。
――はずだったのに。
「あーっ!ちょうどよかった!」
背後でそんな声が上がると、ぱたぱたと駆け寄ってくる足音がして、アリサが進行方向へと飛び込んできた。
そればかりか、唐突に「はいっ!」と、抱えていた何かをこちらへ押しつけてくる。
「え?……っきゃあ!」
勢いに負けて思わず受け取ってしまってから、悲鳴を上げた。
彼女が押しつけてきたのが、真っ黒な獣だったからだ。
しかも、抱える私の手を、ぬるりとしたものが汚している。
強く鼻につく、鉄のような臭い――生暖かいそれは、間違いようもなく、血だった。
(もしかしてこの子、死んで――?!)
さあああ、と血の気が引いて、一瞬くらりと目眩がした。
「お嬢様っ!」
よろめいた私を、マーサが支えてくれる。そんな私たちを心配すらしないのが、目の前の聖女だ。
「ジュリエッタさんが通りかかってくれて、本当によかったですー!その子、あっちの草むらで、怪我して丸くなってたんですよう。あっ!まだ死んでませんからね!」
にこにこと笑顔でとんでもないことを言いながら、アリサは自身の汚れた手を、ドレスの裾でごしごしと拭いていた。
「私ぃ、聖女じゃないですか? やっぱり、そういう、怪我してるのってー、見なかったことにする?とか、だめじゃないかなーって思って!……あーんやだあ、獣くさーい」
彼女はくんくん、と自身の腕のにおいを嗅いで、本当に嫌そうにしている。
驚きに固まっていた私は、彼女の脳天気なしゃべり方を聞いているうちに、徐々に我に返ってきた。
……つまりアリサは、この怪我をした黒い獣を見つけて、通りすがりの私に押しつけてきた――というのが、今の状況ということね。
恐る恐る、腕の中の獣を観察してみれば、腹の辺りが微かに上下しているようだった。
小さな子猫のように見えるこの子は、身体中にひっかき傷や、かみ傷のようなものがあり、痛々しい様だ。
それでもまだ、温かい――この子は必死に、生きようとしている。
だというのに、今。
目の前のこの聖女は、なんて言った?この小さな命を、嫌そうに扱って――。
ぎゅ、と、傷に障らないよう注意しながら、私は腕の中の命を抱きしめた。
「……アリサ様。貴女は聖女なのでしょう? どうしてこの子を、私に?」
聖女だけが使うことの出来る魔術――神聖力ならば、怪我を治すのだって一瞬のはず。
こんな小さな、こどものような獣ならば、聖女ではない私にだって、聖属性魔術で回復させることができそうだけれど……。彼女がわざわざ私に、というのが、理解できない。
ところが彼女は、私の問いにきょとんと首を傾げると、見下すような目で私の腕の中を見た。
「えええ? どうして、って……助けてあげてもらおうと、思って?」
「はい……?」
思わぬ返答に、ぽかんと聞き返す。私の目の前には、お茶会の時には絶対に見せないような、嫌そうな顔でべっと舌を出す彼女がいた。
「あー、ジュリエッタさんが言いたいこと、わかるんで言わなくていいですぅ。聖女なんだから助けるのが当たり前! って、あなたもそう思ってるんですよね?」
「……ええ、と」
「ほんっと嫌ですそういうのー。私だって、聖女だけどー、神聖力使ったら疲れるんですよ? 毎日のお祈りとか、社交とか、勉強とか……色んなコトで疲れてるのに、そんな、くさくて汚くてどろっどろの野良猫1匹まで助けなきゃいけないんですかぁ? 絶対嫌ですー」
「…………」
まさに絶句、だった。
(――これが、聖女の言うことなの?)
慈愛に溢れ、清らかな心を持つはずの乙女が、こんなに小さな命を助けるのを、嫌だと?
私はもう、何をどう言ったら良いのか、さっぱりわからないでいた。
(こんなひとが聖女だなんて。ほんっとうに、信じられない)
私の沈黙をどう受け取ったのかは知らないが、アリサはぷい、とそっぽを向いて、私たちに背を向けた。
「とにかくー。私、その子のことあなたにちゃんと、渡したんで。その子が死んでも、ジュリエッタさんのせいですからー」
「えええ……ちょ、ちょっと……」
「それだけですー。もー、ドレスもぐちゃぐちゃー! お風呂入らなきゃ! じゃ、よろしくお願いしまぁす!」
「な……」
そう言い残すと、彼女は本当に、こちらを見向きもせずに走り去ってしまった。
呆然とその背を見送るばかりだった私を正気に戻したのは、腕の中で微かに身じろぎをした、消えかかっている命だった。
「あ……!」
ぴくり、と、前足がまた動く。
ほっそりと目が開いて、隙間から、美しい青の光が覗いた。
「お嬢様……!こちらをお使いください!」
「あなた! ねぇ、大丈夫?」
あわあわと駆け寄ってきたマーサが、ハンカチを差し出してくれる。
そのハンカチで小さな身体を包みながら声を掛けるけれど、小さな獣は、ふるりと身体を震わせただけで、またその瞼を下ろしてしまった。
「お、お嬢様……! どうしましょう!」
「落ち着いて、マーサ。この子は私が治療するわ。早く屋敷へ!」
「はい!」
懐に、大切に抱いた子猫を揺らさないよう、気をつけながら馬車へと走った。
御者に急いで帰るよう伝えると、座席に座って、膝の上に子猫を横たえる。
「私が助けるから。……お願い、頑張って」
子猫の身体に両手を翳し、意識を集中する。
私の体内の魔力が動いて、両手のひらに集まり、優しい白い光が溢れ始める。
私が使うことの出来る聖属性魔法には、癒やしの力がある。神聖力には劣るが、この子猫が死なないで済むくらいまでなら、なんとか癒やしてあげられるはずだ。
「死んではだめよ。……あんな聖女に、負けてはだめ」
光は、ふわりと子猫の身体に降り注ぐ。
きらきらとした光が触れる度に、子猫の身体の傷が、ゆっくりと治っていった。
子猫の傷の具合に比例して、私の中の魔力がぐんぐん減っていくのがわかる。
「……ぐ」
「! お嬢様! 無理をしては……っ」
「――大丈夫。止めないで、マーサ」
「でも、それ以上はお嬢様の身体が……!」
「お願い、もう、少しだから……!」
隣ではらはらと見守るマーサを制して、私は治癒の魔術をかけ続ける。
こんなに小さな命が、あんな身勝手な聖女のせいで死んでしまうなんて、そんなの耐えられない。
(絶対に、私が助けてあげる――!)
馬車に揺られながら、私は屋敷に着くまでずっと、子猫に治癒をかけ続けていた。
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