【短編ホラー】音漏れ

どく・にく

『音漏れ』

 ぷしゅぅ。

 炭酸の抜けたような音が、今の心情を現しているようだった。

 車両からホームへ飛び出る。

 屋根と車両のあいまに降る雨が、水のカーテンを作っていた。

 激流はほんの少し通っただけでも私の肩を酷く濡らした。

 同じく何人かが、私のように飛び出し、同じように濡れていた。

 後ろでドアが閉まると、電車はそのまま何処かへ走り去っていく。

 残されたのは無人駅の、濡れそぼったレール。

 ザア、ザア、ザア──と。

 土砂降りの雨を確かめて、私の気分は益々下がる。

 服の内部はムワッと湿っぽく、生地が肌に纏わりついて蒸し暑いのに、外気は冬の訪れを予感させるほど冷えていて、指先がかじかみ始めている。はーっ、と両手に息を吹き掛けると、白いモヤが手首から先をヌルくした。

 ただの雨なら、こんなに気が萎えることはない。

 現在私が置かれた状況との相乗効果で、とんと嫌気が差していたに過ぎない。

 何に? 私に。自分自身に嫌気が差す。

 なんていうことはない、電車を寝過ごしてしまっただけだ。

 向かい側のホームに立つと、元々居た背広姿のおっさんが、不思議そうにこちらを一瞥。

 おっさんは耳に着けたイヤホンから動画を音漏れさせていた。

「──あ───うえは─なの────ぜ。だけど──ね─は─」

 男か女かも分からない、ギリギリ音を拾えるくらいの声が、イヤホンから微かに垂れ流される。

 いっそのこと、もっと大音量で流れてくれれば、その方がサッパリしていて気持ちが良かったかもしれない。聞こえるか聞こえないか、そのくらいの塩梅が、耳元を飛び回る蚊虫のようにウザったい。

 この位置からでは丁度画面も見えない。

 ハッキリしない。

 だからなおのこと気持ち悪い。不愉快だ。

 私の視線に気付いたのか、おっさんは不快そうな顔でもう一瞥すると、再び液晶に視線を落とした。

 何だか自分が咎められている気になる。

 コイツは私が向かいのホームに居たことを、見ていたのかもしれない。

 なんだよ。悪いかよ。寝過ごしちまって。滑稽かよ──。

 駅を五つほど寝過ごしてしまった。

 田舎の私鉄は都会に比べて本数が少ない。今日に限って、遅くまで残って仕事をしていた。今から戻りの電車を待ち、家に帰ると、終電とほとんど同じ時刻になる。

 それが嫌で、仕事に集中して取り組んだのに。

 これじゃあ全部パーだ。水の泡だ。全くもって腹立たしい。

 もちろん誰も悪くない。

 私だけが悪い。

 責める相手は探したところで自分だけ。

 だからより一層、苛立ちが熱となってコートのなかを蒸す。

 まだ電車から降りたばかり。寝ていたときの、さっきまでの熱がまだ引いていないのである。それを燃料に、私のなかでさらなる熱が産み出される。

 熱はさらなる熱を。苛立ちはさらなる苛立ちを。

 誠に、鬱陶しい限りだ。

 こんな田舎の無人駅だというのに、時間が経つにつれ、ホームに立っている人数は少しづつ増えていった。

 ──何かを譫言のようにごちりながら、ぼーっと宙を眺める老人。

 ──キャハキャハと甲高く談笑する、数人の若い女。

 ──あれぇ、あれぇ、焦った様子でカバンの中身をまさぐる青年。

 ──飲み屋の帰りなのか、大声で喚き合うサラリーマン数名。

 ──隣のおっさんは相変わらずスマホで動画を眺めている。時々ふふ、と笑みを零すのが気味悪い。

 私もスマホでもしよう、と思ったところで──ポケットが空であることに気が付いた。

 まさか──。

 置いてきたのか。さっかの電車のなかに。

 頭が真っ白になる。おいおい、明日にだって仕事はあるんだぞ。それがなくたって個人情報の塊だ。

 回らない頭でカバンの中身を何度も何度も検める。

 しかしスマホはどうしても見当たらず、ワイヤレスのイヤホンや補助充電器だけが、無意味にスペースを圧迫しているのだった。

 こんなもの、スマホが無ければ無意味なのに──!

 線路にモノを投げ出したい気持ちを抑え、何とか理性を保つ。

 ロックはしていた。が、乗り始め、動画を観ていた記憶がある。そのまま寝落ちしていればロックをすり抜けて、端末を操作することなど造作もない。

 一気に景色が遠のく気がした。

 ザアザアとうるさい雨音が、耳に入らなくなる。焦りでソワソワと居心地の悪い感覚が、指先まで溜まって頭痛がしてくる。

 いや、頭痛は元からしていたか。

 脳の側面がジンジンと痛み、吐き気も伴って落ち着かない。

 今日は低気圧だから。

 ああ、だから眠いのか。そうか、だから私は寝過ごしたんだ。

 くそっ。なんなんだ。

 私は心中で思い切り悪態を着いた。

 雨だ──。

 何もかも、全部この雨のせいである。

 居眠りも、スマホも、頭痛も、残業だって、貧乏なのも、何もかも全部!

 だが雨に怒ったってどうしようもない。

 怒りで雨脚は弱まるどころか、こちらを煽るみたいに、益々音を大きくする。

 途端、私は何もかもが憎くなった。さっき、私をチラ見してきたおっさん。何スマホで呑気に動画なんか観てんだよ。こちとらスマホが無くて困っているんだぞ。

 周りから響く声も「え、でも最近カレシと上手くいってるって話じゃなかった?」気に入らない。

 楽しそうにおしゃべりする若い女たちの不愉「う─は──だぜ─」快な笑い声。

 おっさんの「あれぇ」イヤホンから音漏れする「おっかしいなぁ」動画の音声。 「ボソ……ふざっけんなよ……っボソボソ」

 リュックサックを覗いて、あれぇ、あ「んー」れぇ、としきりに唸る青年にも「岡島さんのせいなんすよアレ」「そうだったの! はあー、全然知らなかったわ」腹が立つし。

 老人の譫言も何故か一際「全くバカがよ……ボソボソ」大きくなっていた。不愉「キャハハ、サイアクー!」快このうえない。

 酔っ払いのサラリーマンたちが無遠慮に交わす世「てかユミのストーリー見た?」「ね。事後の写真アゲるとか無いわ」間話も気に入らない。

「いやあ今日は一緒に呑めて楽しかったですよ」「あれぇ、あれぇ?」ザ「で──りょう─が─くの───」「明日までのレポート終わってないんだよね」ザアザア「ボソボソやってねぇよ……んだよ……っボソボソ」「おっかしいなぁ」「れい──だ─わよ─らら───う」「うぅん、うぅぅぅん」ザア「いやいやこちらこそ。今度は岡島も」ザアザ「ヤバいじゃん」ザアザアザア「れ──れ─ぃ──」「ボソボソ、ボソボソ。っざけんなよ……ボソ」ア「え。あんた浮気してんの?」

 雨音と一緒に耳に入ってくる情報を、どうやら私の脳は、総て一緒くたに不快だとタグ付けして処理しているようだった。

 もう、黙ってくれ。

 私は目を瞑ってみる。しかし視界が閉ざされたことで、音はより克明に鼓膜に届くようになってしまった。

 奥歯がガリッと音を立てた。

 欠けてしまったら嫌だな、と馬鹿な妄想をして、後悔をして、その後悔でさらに奥歯はガリガリ鳴った。

 そのことが何だか無性に気に入らず益々腹が立つ。ムカつく。叫びたい。今直ぐにでも叫び出して、全員ホームから突き落としてやりたい!

 ああダメだ。おかしくなっている。

 こういうときこそ冷静に。

 冷静──? どうやって?

 ふざけるなよ──私は私に怒った。

 荒くなる呼吸。視界が狭まり身体はどんどん暑くなる。

 ダメだ。本当に気が狂いそう。

 深呼吸。そう、こういうときこそ深呼吸だった。

「……すう、はあ…………。

 ……すう、はぁ…………。

 ……すう、はぁ…………。

 ……すう……、はあああ………………」

 私は気持ちを整えようと深呼吸して──次の瞬間、辺りが少しだけ静かになった気がした。

 世界全体のボリュームが、少しだけ下がったみたいな。

 ホームの賑やかさを、ちょっぴり減らしたみたいな錯覚。

 錯覚──。

 もちろん、こんなの錯覚だ。

 雨脚は依然として弱まる気配を見せないし、酔っ払いたちの声は飛び交っている。リュックを床に置いた青年は相変わらず唸っているし、隣のおっさんはこちらも変わらずイヤホンから音声を音漏れさせていた。

 あれ──?

 おかしいな、と思った瞬間だった。

「岡島さんってああ見えて相当ヘンでしょう?」

「そうだ、ヘンだ。確かに岡島は相」

 酔っ払いの声が、突然に鳴り止む。

 鳴り止む、というとまるで楽器か何かのようであったが、その表現が適切であった。

 ぶちっ、と。

 停止ボタンを押して、動画の再生を止めたみたいに。ぷつりと聞こえなくなった。

 会話は続いていたはずで、そこを不自然に途切れさせたような、そんな黙り方だった。

 不審に思って目を開く。

 辺りを見回すと、酔っ払いたちは消えていた。

 よく見るとくっちゃべっていた若い女どもも居ない。笑い声が、ホームから、忽然と消え去っていた。

 ザア、ザア、ザアザ、ザザア、ザア。

「あれぇ。おっかしいなぁ」

「あぃ──とう─ぃ─ました。じか────」

「ざっけんなよ……ボソボソボソ」

 ホームには私、リュック青年、音漏れおっさん、譫言老人。

 何処かに行ったのか?

 電車は良いのか? 他に用事ができたとか?

 何か、何か変だ。

 雨がザアザアと音を立てて振る。頭上の屋根を激しく打ち鳴らす。

 まるで、あの集団が、雨音に存在ごと掻き消えてしまったかのような──。

 馬鹿な妄想が私のなかでムクムクと膨らむ。

 さっきまで熱っぽかった私の身体はすっかり冷え込んでいて、どころか背筋に悪寒までした。頭痛がする。胃がムカムカする。

 不安感に押し潰されそうになって、私は再度レールの方へ向き合おうと、

 した瞬間、またもや違和感に気付く。

 音漏れのおっさんが居ない。

 慌てて見渡すと老人も姿をくらませている。

「うぅん、あれぇ、どうしてだよぉ、くそっ、あれぇっ」

 ホームにはもう、私とリュックの青年しか残されていなかった。

 なんだ、なんなんだ。

 さっきまでそこに居たはずなのに。

 向かいのホームを見る。無人駅の小さな出入口に目をやる。

 人の気配はない。誰の姿も声もない。

 誰も──。

 心細い。

 どうしてか。普段は絶対にそんなことはしないはずなのに。

 私はふらふら歩き出し、気が付くと私は青年に声を掛けていた。

「あの、すみません……」

「あれぇ、おっかしいなぁ……、入らないっ、あれぇ、あれぇ」

「すみません。ここの電車、あと何分くらいで着きますか、スマホを忘れちゃって」

 青年は私の声が聞こえていないのか、むしゃくしゃした様子でリュックの中身をまさぐった。

 イライラする声を聞くと、こっちまでイライラしてくる。

「あれぇ、あれぇっ」

 何が『あれぇ』だ。ふざけやがって。慌てる人間を見ているとこちらまでむず痒い怒りに苛まれる。

 男のくせに声がちょっと甲高いのが癪に障る。

 振り払うように語気を強めた。

「あの、聞いてますか?」

「あれぇ、うぅん、うぅぅぅん」

「あの!」

「おっかしいんだよなぁ……」

「聞いてます? 荷物が入らないんですか? 手伝いますしょうか?」

 私は耐え兼ねて提案する。

 苛立ちを隠せない。

 青年の唸り声が、そこで初めて止まった。

 彼はリュックをまさぐるのをやめると、ぐるりとこちらを向いて、

「なんだよぉ、あんたもなのぉ? もう入らないってば、あぁ、もういやだぁ」

 青年が背中の向きを変えたので、私の視界にはリュックの中身が飛び込んできた。

 それは──人の顔に見えた。

 ギュウギュウに詰められて、まるでゴム風船みたいに。弾力を湛えて。

 ねじれたり、へこんだり、伸ばされていたから──少し理解するのに時間はかかったけれど。

 リュックの一番上にある顔。

 男の顔──。

 耳の辺りから、白いイヤホンのワイヤーが二本、だらしなく絡まり伸びていた。

 おっさんの身体はぐるぐるのハラワタみたいに無理くりなかに押し込められているように見える。いや、腕や足の本数が合わない。数が多い。靴が女物だ。おっさんがあんな可愛いマニュキュアをするか?

 リュックに人が詰まっている。

 骨を無視して折れ曲がっている。

 パンパンになったリュック。でもいくら降りた畳んだところで、あの人数がこのなかに総て収まるのか。容量と人数が合わない。数が多い。道理が合わない。

 いや、もっと気にすることがあるだろう。

 私は、分からない、数、これは、混乱、あれぇ、殺人事件、だから、こいつ、私、有り得ない、うるさい、うるさいうるさいうるさい!

 イヤホンから音漏れする。

「ご──しちょ────した。──もちゃ─る─ろく───」

「キャハハハ!」

 女の笑い声も、

「課長には困ったものですよ」

 酔っ払いの馬鹿話も、

「ブツブツ……だから俺じゃねえってば……ブツブツ」

 老人の譫言も、

 ──いや、それ以上の無数の声が、全部リュックサックの奥底からくぐもって響いている。

 ゴム風船みたいな質感の腕が、ふいにおっさんの顔の横を押しのけて現れる。

「ひっ」

 驚いて後退る。

 本当、今更なくらいに遅れて。

 雨で足元がおぼつかず、つるんと派手に滑って転んでしまった。

 さらに後退ろうとして身体が動かないのに困惑した。震えだ、強ばりだ、動けない。

 ヒリヒリする足首を、青年は乱暴に掴む。

 恐怖で喉が痙攣し、上手く悲鳴を上げられない。ずる、ずる、と私の身体がリュックの方へと引きずられる。

 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。

 身体がまともに動かせない。恐怖で言うことを聞かなくなっている。

 首だけ動いた。

 懸命に首を横に振る。涙が零れる。青年は何食わぬ顔で私を引きずる。

 リュックからは耐えず声が漏れ出ている。

 何故、今になるまで聞こえなかったのか。

 不思議なくらい沢山の声。笑い声。呻き声。喘ぎ声。泣き声。叫び声。

 まるで生きていた頃のセリフをそのまま封じ込めたみたいな。

 生きていた頃──あれらは果たして、生きているのか。死んでいるのか。

 全身が無意識に暴れ出す。

 声が出ない。出せない。

 なのにリュックの声たちはだんだん大きくなる。

 自分たちはここに居ると、証明しようとするみたいに。

 掻き消される。私という存在が掻き消される。警鐘が鳴る。

 私の身体がビチビチ暴れる。

 震えが止められない。陸にあげられた魚みたいに私の身体がのたうった。

 なのに青年の腕は一向に離れない。ピクリとも剥がれない。

 手当り次第に神経を動かす。

 剥がれない、腕が剥がれない!

 嫌だ、嫌だ嫌だ死にたくない。

 死なないとして、あそこに行くのは嫌だ。死ぬより嫌だ。

 悲鳴をあげようとして喉が固まる。

 筋肉が上手く作動しない。

 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!

 ジタバタすると青年の手に一層力が込められる。

 瞬間、私の足首がゴムのようにぐにゃっと曲がった。

「う、あ、うわああああああああ!?」

「うるさいんだからさぁ、声がさぁ……、えっとぉ、どう入れれば良いんだよぉ、もう入らないんだよぉ」

 雨音が遠のいていく。

 ずる、ずる──ずる、ずる。

 後頭部がアスファルトに擦られる音が頭蓋に響いた。

 それ以外に音がする。

 なんだ?

 青年の唸る声? 違う、もっと、騒々しい感じの──。

「あああああああああ!?」

「あれぇ、あれぇ、どうやるんだぁ、入らないぞぉ、あれぇ」

 薄れゆく意識のなかで。

 喉が裂けるくらい叫べていることに、私は私にホッとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編ホラー】音漏れ どく・にく @dokuniku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ