第6章 三十路の女友達

第41話 早希と理恵の失恋トラウマ

 三月末の大安の夜、成田空港のロビーは新婚旅行への旅立ちで賑わっていた。ひと頃のように新婦が帽子を被る習慣はもう廃れていて、服飾も出かけて行く先に応じて様々であったが、大方は花束を手にし、色とりどりのキャリーバッグをチェックイン・カウンターに持ち込んでいた。今日挙式した後輩の鈴木美保もピンクのバラの花束を抱えて此処まで来た筈である。笹本早希は眼を挙げて彼女の姿を探した。美保は親族や友人達に囲まれてにこやかに話していた。披露宴から真直ぐに此処へ来たので、未だ興奮冷めやらぬ気配である。

「また、後輩に先を越されたわね」

早希と並んでロビーの椅子に腰かけていた和泉理恵が不機嫌に呟いた。

 早希と理恵は高校時代からの親友で大学も同じであったが、理恵は卒業と同時に大手総合出版社へ勤め、今は雑誌の編集に携わっている。早生まれの早希より一つ歳高の三十二歳であるが、早希同様に、未だに独身であった。マスコミで生きている所為で舌鋒は鋭いが、腹の中はあっけらかんとして涙脆い。

 空港バスが到着して、どやどやと人の群がロビーに入って来た。同じホノルル行きの便に乗る団体客のようで、早くも夏姿になっている人も居た。

美保が早希たちの処へ挨拶にやって来た。

「今日はお忙しいところを、わざわざ有難うございました」

「愉しい旅行を、ね」

彼女は手を振りながら遠ざかり、通関の階段でもう一度頭を下げてから、新郎と連れだって降りて行った。

空港での見送りは呆気無く終わった。

 理恵が腰を上げ、早希も彼女の後に従った。

ロビーの端に売店が並び、喫茶店やレストランが在った。

「お茶でも喫んで行こうよ」

「そうね」

ティールームの隅に二人は腰を下ろした。

こんな所のコーヒーなんて大して美味しくも無いだろうなぁ・・・

そう思いながら、他に注文するものも無く、結局、二人分のコーヒーを頼んだ。

「あなた、あれから、恋愛をしたこと、有るの?」

ちょっと考え込んでいた理恵が、不意に、悪戯っぽく笑いながら早希に訊いた。

「恋愛?」

「そう、フィアンセを亡くした後よ」


 早希は学生時代に佐久間浩介と知り合い、愛し合って結婚の約束をした。

彼は大手ゼネコンの社員で、当時、常務取締役だった早希の父親の秘書をしていた。深夜に父親を自宅に送り届けたり早朝に迎えに来たりして、何度か話すうちに親しくなって互いに好き合うようになった。二人は愛を育み合い、二年後に両家の承諾を得て正式に婚約した。然し、父親が専務に昇進し、愈々、次は早希の結婚という折に、浩介は社用で飛んだアメリカの空港で、乗った飛行機が衝突して帰らぬ人となった。降って湧いたような呆気無い突然の死別だった。浩介の乗った飛行機が滑走路に着陸してゆっくりと走行している最中に、離陸するジャンボ機が覆い被さるようにして衝突した。原因は管制官の指示を操縦士が勘違いしたことと濃霧で視界が悪かった故だった。死者が三百人を超える大惨事であった。

早希は絶望に打ちひしがれ、身を捩って泣きに泣いた。そして、その後は、もぬけの殻になって活力も気力も無くし、自宅の一室に閉じ籠ってしまった。

早希は茫然自失した。昨日まで、二十四歳の人生の先に続いて在ると信じて疑わなかった幸せな明日が突然音を立てて消滅してしまった現実を、自分の中へ受け入れることが出来なかった。早希は何をする気にもなれず、何も手につかず、誰にも会わず、鬱々と日を過ごした。深い大きな悲しみと喪失感とどうすることも出来ない無力感の中で、一瞬たりともその感情から抜け出すことが出来ず、彼女は絶望の奥底で懊悩した。茫然自失、無気力に何をするでもなく部屋に引き篭もって日がな一日、無為に時間を過ごし、毎日毎日、来る日も来る日も、抜け殻の状態で日々を過ごした。早希は悲しみに打ちひしがれ、何をする気にもなれず、何をしても心は晴れなかった。早希はただただ哀しかった。彼女の胸はいつも堪えられない哀痛に疼いていた。乾いて干上がったり、涙が泳いでぐしょぐしょに濡れたりしていた。

 二年後、浩介の三回忌法要が終わった後、父親が早希に言った。

「いつまでも浩介君の亡霊にしがみ付いて居てはいけない。それでは彼も決して浮かばれないし、後ろ髪を引かれて成仏さえ出来ないだろう・・・」


 早希ほどの大きな喪失ではないが、理恵にもトラウマになる失恋の痛手は在った。

勤めて一年もすると理恵は男性社員達と気軽に口を利いて友達付き合いをするようになった。山崎豊との仲もそんな友達付き合いから始まった。所属部署も異なり働くフロアも違っていたが、彼は同じ社に勤める出版企画マンであった。エレベーターで一緒になったり廊下で擦れ違ったりして、顔馴染みになった理恵はごく自然に山崎と付き合い出した。いつとは無しに口を利くようになり、何度かコーヒーや昼食を奢って貰っている内に、一緒に呑みに出かける間柄になった。

「君は酒が強いのかね?」

「そうかもね。山崎さん、後で青くなっても知らないわよ」

山崎は楽しげに笑った。山崎には真顔で馬鹿話をする茶目っ気が在り、嘘らしくもあり真実らしくも聞こえた。彼の話を聴いているだけで理恵は愉しかった。

 その後も理恵は山崎と酒を飲みに出かけたが、大抵は週末金曜日の夜だった。理恵は夜の酒場で酒を飲むだけでなく、輝く陽光の下で明るくデートもしたかったが、彼はその気配は全く示さなかった。然し、理恵は彼と一緒に酒を飲んで愉しかったし、話し上手の山崎は理恵を笑わせてばかり居て、彼女はついつい彼の話に引き込まれてしまうのだった。

酒場へ一緒に出向くようになって三月余り経ったが、山崎は理恵に気の有りそうな素振りは見せなった。

 或る夜、酒場からの帰り道、理恵は彼と並んで歩きながら、さり気なく言った。

「山崎さんって紳士なのね」

「うん?」

「非の打ち所の無い紳士だわ」

「紳士なんてもんじゃないよ。僕も世間並みの男だが、君は良い娘だからな」

「そんなの、嫌やよ」

二人は工事現場の前に差し掛かっていた。巨大なジャングル・ジムのように鉄骨が黒くそそり立っていた。山崎は足を停めて理恵を見詰めると、不意に手を引いて、工事現場の中へ入り、彼女を抱き締めた。接吻を終えた後も理恵は暫く山崎の胸に顔を埋めていた。温かい胸だった。理恵は幸福感に包まれて帰宅し、ひたすら山崎のことを思った。

 翌週の昼休みのことだった。

理恵が昼食を摂りに行こうとしてビルを出ると、一足先に山崎がビルを出たところだった。彼は同僚の一人とにこやかに話しながら歩いて行った。理恵は遠慮して声を掛けなかった。山崎と連れは何事かを話しながら足を運んでいた。彼女は付かず離れず程の距離で彼等の後ろを歩いた。二人の話声が理恵の耳に入った。

「どうだ、その後の首尾は?・・・上手く行ったのか?」

「ああ、まあな」

「落としたのか?」

「未だそこまでは行かんよ」

山崎の声は如何にものんびりしていた。世間話に興じている風な声音だった。

「ま、適当に上手くやれよ。奥さんに知れたらことだぞ」

理恵は思わず立ち止まった。それから慌てて通りを曲がった。耳鳴りがした。街中の音が彼女の耳の中で唸り出した。顔が熱くなった。男二人は理恵のことを話題にしていたのである。昼休みの噂話のネタにしていたのだった。然も、事もあろうに、他ならぬ山崎が自分を、である。

 理恵は山崎の誘いを待って居られなかった。その日のうちに彼を近くのカクテル・ラウンジへ呼び出した。仕事が退けると、理恵は急いでラウンジへ行った。山崎も、程無く、姿を見せた。

「今日はどうしたんだ?急に」

山崎はさして訝りもせずに席に着いた。

「僕も丁度、逢いたかったんだ」

「そろそろ、落としたらどう?山崎さん」

山崎はきょとんとした顔をした。

「愚にもつかないゲームのお相手は真っ平よ」

理恵は怒りで声が上ずり、コーヒーを一口啜った。

「私はそこら辺の甘っちょろい花とは違うのよ。美しい泉から湧き上がる豊かな理知に恵まれた女なんだからね。手折うたって、そう簡単には行かないわよ。見くびらないで欲しいわ!」

山崎は呆然として理恵を見詰めていた。それは将に、豆鉄砲が肘鉄を喰ったような表情だった。

「じゃあね、自惚れ屋さん」

「待てよ、待ってくれ、理恵ちゃん」

山崎の声を聞き流して席を立った理恵は、背筋をしゃんと伸ばしてラウンジを後にした。

然し、理恵の胸には哀しみと痛みがその後も長く尾を引いて沈殿した。

山崎は、兎に角、よく理恵を笑わせた、腹の底から彼女を笑わせた。話をしている時も、電話でも、酒を飲んでいる時でも、しょっちゅう、理恵を心から笑わせた。言うことが面白いというだけではなかった。言い方が機知に富んで面白かったし、表情も相好を崩すがごとくに愉快だった。

理恵は思っていた。

あれは私の気を引く為だけの技巧では無かった。二人の時間を愉快に過ごす為のテクニックだけでは、あれほど私を笑わせることは出来ない。私をあんなに笑わせてくれた人はあの人しか居なかった。あの人は私のことを真実に思ってくれていたのかも知れない。面白いだけではなく、いつも優しかった・・・

理恵にとっては殆ど初めての恋の相手と言えた山崎との別離に、彼女の心は涙に濡れて咽んだ。


「あの後、男に言い寄られたことは無いの?」

「無いわよ」

「だったら、今からボーイフレンドでも作って恋をしたらどう?そうでもないと、あなた、このままでは直ぐに老けちゃうわよ」

「相手が居ないわよ」

「その気になれば出来るものよ。あなたの場合、二十代は、中半は浩介さんに夢中だったし、終半はその亡骸にしがみ付いて居たから、他の男なんて目に入らなかったでしょう。恐らく、男の方でも声をかける隙が無かったんじゃないの?」

早希は、今更、何を言っているの・・・と思った。

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