第38話 久し振りの次郎、麗華に借金を申し込む

 雨の降る夜、絵を描いていた麗華は柴犬の唸る声で筆を置き、辺りを見た。叫び出しそうになるのを堪えて彼女は立ち上がった。アトリエの窓に次郎の顔が覗いて居た。濡れた頭をハンカチで拭いながら、次郎は中へ入って来た。彼女はよろけるようにして自分から唇を合わせ、彼に凭れかかった。義務的とも思える素っ気無い口づけを終えると、次郎は彼女を押し留め、自分も椅子に腰かけて言った。

「色々訳が有ってどうしても来られなかったんだ。今夜も実は別の用事で来たんだよ」

「別の用事って?」

「お願いが有るんだ」

「一体、何なの?」

麗華は不安げに問い返した。

「・・・・・」

「どうしたのよ?黙って居ちゃ判らないわ」

口籠って切り出し難そうに次郎は言った。

「言い難いんだけど、思い切って言うよ。どうしても困ることがあって、あなたにお金を借りに来たんだ」

「幾らなの?」

「五十万円」

「それ位なら、今でもあるけど・・・」

次郎の顔に無邪気な安堵の表情が浮かぶのを見て麗華も微笑った。

「助かったぁ、本当に助かったぁ・・・今年中には必ず返すから」

「でも、どうしてお父様に頼めないの?」

次郎は急に下を向いて黙り込んだ。

「・・・・・」

「一体、何に使うの?」

次郎は答えなかった。

「何に使うのか言ってくれなきゃ駄目よ。場合に寄っちゃ、私が立て替えても良いのよ」

「言わなきゃ駄目か、な?」

次郎はちょっと照れたように恥にかんで聞いた。

「ええ、言わなきゃ絶対に駄目よ」

麗華は微笑いながらそう彼を責めた。

「そうか・・・」

次郎は頭を垂れて答えた。

「じゃあ、言うよ・・・手術に使うんだ」

「えっ?手術って?」

彼は真直ぐに麗華を見ながら無表情に言った。

「堕すんだよ、子供を。出来ちゃったんで・・・」

「子供って?誰の?」

麗華は、我ながら不思議にも、声は上ずらなかった。

「俺の、子供が出来ちゃったんで・・・」

彼女はゆっくりと訊ねた。

「誰に?」

「弱っちゃったなあ・・・まあ良いや。あんたには全部話すよ。大学のガールフレンドだよ」

麗華は思い出した。次郎が柴犬に手を噛まれた日に一緒に居た女学生、いつか自転車に跨った次郎と笑顔でハイタッチして別れて行ったあの娘、何処にでも居そうな未だ乳臭い女子大生だった。

二人は暫くじっと見詰め合ったまま座っていた。次郎はどう仕様もない様子で何度も頭を掻いた。

「どうしてあなたはそんな話を私の処へ持って来るの?」

「駄目かなあ・・・」

「何故?どうしてよ」

「だって、いちばん最初に俺に教えてくれたのはあんただったじゃないか」

「いちばん最初?じゃ、他にも誰か居るって言うの?」

次郎は黙って、ちらっと笑った。懸命に相手を読み取ろうとする狡猾そうな眼だった。

「駄目なら、良いよ」

不貞腐れて投げだすように彼は言った。

「駄目も何も・・・」

引き回され振り廻された末のこの結果に喘ぎながらも、麗華は次郎を見据えて言った。

「私は一体、あなたにとって何だったの?」

「俺はそんなこと知らないよ。勝手なことを言うなよ」

「勝手?何故なの?」

「何もかもあんたが教えてくれたんじゃないか。一度覚えてしまえば・・・」

「それで、その女子大生を?」

「そうじゃないよ。あいつのことを俺は真実に愛しているんだ」

「愛している?誰を?」

「森沢夏美って言う、その娘だよ。遊びじゃないんだ、今度のは」

「何を言っているのよ!」

立ち上がるなり麗華は次郎の顔を張った。彼はきょとんとした表情で彼女を見上げた。

「それなら、もう金は要らないよ」

彼はさっと立ち上がった。

「待ちなさい!」

彼女はやにわに壁の方へ駆け寄ると、棚から猟銃を取り出して次郎に構えた。

「何するんだよ!」

「はっきり此処で全部言いなさい。その夏美って娘の他に誰が居るの?他に一体、誰と誰が居るのよ?」

「他には居ないよ、あんた以外には。唯、コールガールのホステスが、居たな」

次郎は簡単に言い切った。

「コールガールのホステス?」

「団栗橋のさぁ、汚い鄙びたバーだったんだけど、色々変わった技巧を沢山教えてくれたよ」

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