第32話 麗華、沢本によって女を開かれ画家としても育てられた

 三年の歳月が流れた。

その間、麗華は沢本によって女を開かれ、女を創り上げられただけでなく、画家としても彼に育てられた。彼女は大学院に残って習作を重ね、感性を磨いて表現力を豊かに高めて行ったが、沢本は自分の美術雑誌に彼女を採り上げたり、著名な画家を引き合わせたり、有力な画廊主に紹介したりした。それから、彼は麗華に裸婦を描かせた。彼女は女性でありながら裸婦を見事に描き上げた。麗華が描くキャンバスには、歓喜する女、恍惚する女、燃焼する女、陶酔する女、愁嘆する女、怒る女、泣き叫ぶ女、叫喚する女、幼い女、熟れた女、呆けた女、賢い女などなど、女そのものの全てが息づいていた。彼女の描く裸婦には独特の力強い存在感があった。立像を描き、座像を描き、軽く足を組んだ像なども描いたが、何れも乳房は盛り上がり、腰が大きく張って、太腿は逞しい。洋画家として多才、進歩、円熟と言ったこれから先が嘱望出来る期待の持てる新進気鋭の画家に育ち、やがて個展が開かれるほどに麗華は成長していった。彼女は、近い将来、裸婦を描かせては当代屈指の洋画家になるだろう、と評判されるほどになった。

 

 暫くして、沢本が東京支社の編集部に転勤になった。

別れ話は沢本の方から持ち出された。彼には、無論、妻子が居た。麗華を東京に伴って行く訳にはいかなかった。

「君はナイーブで直截過ぎる。いつまで経ってもお嬢さんの儘だ。僕は首まで都会の泥水に浸かっている男だ。これ以上付き合っていると碌なことにはならないよ」

麗華は承服しかねたが、彼に付き纏って愛想を尽かされるのも耐え難かった。世に出た鬼才の画家としての仕事もあった。要するに早晩別れなければならない相手であった。別れが意外に早く来たのは、麗華が夢中になり過ぎた故だった。

彼女は泣くまいとしたが、自然に涙が流れ出た。

不憫に思った沢本は「後日、君の好きなクラシックのCDを送るよ」と言って慰めた。

「最近出たやつでね。ピーターソン・キンゼルが“森の情景”を弾いているんだが、持っているかね?」

「いいえ、持っていないわ」

「じゃ、送るよ。“森の情景”はシューマンのピアノ曲の中でも秀逸なのだが、なにしろピーターソンが凄いんだな。脆さと切迫感が微妙に入り混じっていてね。青春の危うさを丸ごと音にしたような演奏なんだよ。近来の名盤だから君に贈るには格好のCDだと思う」

 沢本が熱意を込めて語った癖に、CDは送られてこなかった。

一月たち二月経っても音沙汰が無かった。あれは愁嘆場を避ける為の空約束だったのではないか、と麗華が疑い出した頃になって、思い掛けなくも、岡田がCDを持って訪ねて来た。

「沢本に頼まれてね、何とか言うCDだそうだ」

眼の前に岡田が居なければ麗華はCDを抱き締めたであろう。沢本は約束を守ったのである。郵送してはCDを傷つける恐れがあり、彼は岡田が上京する機会を待ってCDを託したに違いなかった。

「森の情景」はピアノの小曲集であった。現物を手に取るまで麗華はそれが小曲集だとは知らなかったが、そんなことはどうでも良かった。沢本が届けてくれたものであれば如何なるCDでも良かった。

 麗華は毎日のように「森の情景」を聴いた。朝に夕に聴いた。それは確かに美しい曲だった。青春の危うさかどうかはよく解らなかったが、ピアノの音は麗華の耳に優しく響いた。

題名の所為か、CDを聴いていると、決まって森が眼に浮かんだ。針葉樹を交えた北欧の暗い森ではない。その森の中には幾本もの小道があって、二人の男女が睦まじそうに肩を寄せ合ってその小道を辿っている。女は麗華であり、男は、無論、沢本であった・・・。

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