第7話 聡介、麗美と再会し理性的分別を流し去る

 聡介はパーティー会場で暫く戸口に立って、ダンスをしている連中を眺めていた。彼は二、三人の知り合いと話したり頷いたりして笑顔も覗かせた。

「こんばんわ、あなた・・・」

直ぐ近くから声が聞こえて、彼は驚いた。見ると、麗美が一緒に居た男の傍を離れて此方へやって来た。エナメルの肌を淡いグリーンの衣装に包み、頭髪を束ねたヘアバンドにも緑の絹糸が煌めき、ドレスの裾から覗いている室内履きの爪先も緑色に光っていた。華奢な作りの顔がぱっと紅味を帯びて聡介に微笑みかけた時、それはまるで一輪の花が開いたようであった。彼はポケットに入れている両手を握り締め、突然湧き起こった興奮に胸をときめかせた。

「何日、戻ったんだ?」

聡介はさり気なく訊いた。

「此方に来てよ。そしたら教えて上げるわ」

踵を返した麗美に聡介は従いて行った。

彼はこの地を去った彼女が突然に戻って来たことに驚きを隠せなかった。あの頃、彼女と歩く街並みは煽情的な魅惑の色に染まり、生命を蘇らせる若々しい神秘的な希望は胸に溢れていた。それが今、彼女と共に戻って来たのである。

出入口の処で振り返りながら麗美が訊ねた。

「あなた、車、持って来ている?無ければ、あたしのが有るけれど・・・」

「僕のクーペが有る」

衣擦れの音をさせながら麗美が車に乗り込み、シートに背をもたせ掛けて肘をドアの上に置いた。聡介はドアを閉め、躊躇う心を打ち消すように車のエンジンをかけた。

彼は思っていた。

このことに格別の意味は無いのだ。以前にも彼女はこういうことをやったことがある。それを忘れてはならない。第一、俺は彼女を既に背後に捨てた筈だ・・・

聡介はゆっくりと車を走らせ、人影のないビジネス街を通り抜けた。

映画館から観客が吐き出されて来たり、虚しく金を使い切った若者がビリヤードの前に屯していたり、酒場から拳を振るいたがる男が二人出て来たりして、街には薄汚れた黄色い光が溢れていた。

麗美はまじまじと聡介を見守っていた。

彼は、沈黙が気詰まりではあったが、今の中途半端に微妙な状況の中で、軽々しく口を利いて良い加減に事を運ぶ訳には行かなかった。彼は適当な処で車をUタウンさせ、右折左折を繰り返しながらパーティー会場へ戻り始めた。

だしぬけに麗美が訊いた。

「あたしが居なくなって、淋しかった?」

「みんな淋しがっていたよ」

「まあ、言うじゃない!」

彼女は聡介の胸中を探るようにじっと見つめた。彼はダッシュボードの計器類を見る振りをした。

「あなた、前よりもハンサムになったわね」

意味有り気に彼女は言った。

「あなたの眼って、誰の眼よりも印象的だわ」

聡介は吹き出し掛けた。まるで大学生に言うような科白である。

「あたしね、何もかもが嫌になっちゃったの」

暫く、言葉が途切れた。

「あたし達、上手く行くと思うの。だから、あたしをあなたの奥さんにしてくれないかな」

この直截的な言い方が聡介を途惑わせた。

今こそ、告げなければならない、自分には結婚する心算の女性が居る、と・・・

だが、そう思いつつも、彼にはそれが言えなかった。

彼女が同じ調子で続けた。

「但し、あなたがあたし以外の他の女を愛しさえしなければ、ね」

そういう彼女が絶大な自信を持っていることは明らかであった。要するに、彼女は、彼が他の女を愛するなんてあり得ない、と思っていたのである。

彼女は言葉を続けた。

「あたし、あなたがあたしを愛する、あの愛し方が好きなの。あなた、以前のことをもう忘れた?」

「いや、忘れちゃいない。憶えているよ」

「あたしも、よ!」

麗美が心から言っているのか、それとも自分の演技に酔っているのか、聡介には判らなかった。

「あたし達、もう一度、あんな風になれたら良いなぁ・・・」

彼女の言葉に、彼は己が心に鞭打つように答えた。

「それは無理と言うものだよ」

「そうよね。あなた、高井貴恵とか言う女に夢中だって聞いたもの・・・」

彼女が貴恵の名前を口にした時、特別な感情があるようには聡介には見えなかったが、彼は何となく後ろめたい思いに駆られた。

「ああ、あたしを家まで送って頂戴!」

不意に麗美が声を荒げて言った。

「あんな低俗なパーティーに引き返すのはごめんよ」

それから、聡介が住宅街へ通じる通りへ車を走らせた時、麗美は、ひとり声を殺して泣き出した。彼女が泣くのを見るのは初めてだった。

 暗い通りが急に明るくなったと思うと、金持ち富裕層の住宅群が姿を現した。聡介はその中に白く堂々と威容を見せている麗美一家の大邸宅の前に車を停めた。それは月光の輝きにしっとりと包まれて壮麗豪華に聳え立っていた。頑丈な塀、鋼鉄製の大梁、幅広く輝きに満ちて堂々の威容を誇る構え、彼は邸宅のいかにも堅牢な感じに驚かされた。

聡介は全身の神経が狂おしく騒ぎ立てる中で、彼女を抱き締めたい衝動を必死に堪えて、身動き一つせずにじっと座っていた。麗美の濡れた頬を二筋の涙が伝わって上唇の上に落ちた。

「あたしは他の誰よりも綺麗なのに・・・」

彼女は途切れがちに、言った。

「どうして幸せになれないのかしら?」

口元が静かに歪んで、その潤んだ瞳が哀切極まりない表情を湛えた。

「ねえ、もし、あなたが承知してくれるなら、あたしはあなたと結婚したい。あなたはあたしのことを一緒になる値打ちの無い女だと思っているでしょうけど、あたし、あなたとなら良い素敵な奥さんになって見せるわよ」

怒り、矜持、熱情、憎しみ、思い遣り、様々な感情が彼の中で鬩ぎ合った。然し、その内に、抑え難い激情の波が聡介の全身を包み、それまで残っていた理性的分別や世間的常識、猜疑心や体面への配慮などの一切を流し去ってしまった。

今、口を利いているこの女は俺の女だ。俺のものだ。俺の誇りだ!・・・

「上って行かない?」

そう言って麗美は激しく息を飲み、そのまま息をつめて待って居た。

「解かった。良いだろう」

答えた聡介の声は震えていた。

「上って行くことにしよう」

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