第21話 迷宮の森
ヒッキーとレイラがシルフィルスを出発してから数日後、旅路の途中で崖崩れに遭遇した。
大きな土砂と岩が道路を完全に塞いでおり、通行不能になっている。
その前で人々が話し合っていた。
「この先はしばらく通れませんな。おそらく数日はかかるでしょう」
「迷宮の森を抜ければ向こう側に出られるけど……あそこに入るのは無謀だぞ」
旅人たちは口々に噂を語る。
迷宮の森はかつて古代の魔法で守られていた場所で、入った者の多くが戻らないという。
ある者はこう言った。
「迷宮の森は命を試す場所だと聞いている。あそこを抜けるには心の強さと知恵が必要だと言われているんだ」
ヒッキーとレイラは一瞬躊躇するが、ルナリス村に戻るための時間が惜しい。
「行方不明になった人もいるけど、成功した人もいるわけでしょ。なら、私たちも試してみるべきじゃない?」
「確かにここで待ってるわけにもいかないな。だったら行こう!」
二人が森に入った途端、霧が立ち込め、辺りの音が急に消える。
鳥の鳴き声すら聞こえず、ただ風が木々を揺らす音だけが響く。
「なんだか薄気味悪いな。これが噂の霧か」
「慎重に進みましょう。この霧が視界を奪って、道を見失わせるのね」
森は複雑に入り組んだ道が続いており、分岐点に差し掛かるたびに、どちらに進むべきか迷ってしまう。
途中で苔むした石碑を見つけるが、そこには奇妙な象形文字が刻まれている。
「これは古代言語ね」
「何とか読めるな」
「『信じるべきは心の道。迷えば行く先を失う』……どういう意味かしら」
歩き進むうちに、霧の中でヒッキーは自分が一人になっていることに気づく。
レイラとはぐれてしまったのだ。
「おい、レイラ。どこだ!」
周囲は霧が濃くなり、進むほどに木々が不気味に揺れている。
突然、目の前に巨大な影が現れた。
それは過去に出会った人物たちの幻影だった。
母親の幻影が現れ、怒りと悲しみの入り混じった表情で語りかけてきた。
「優之介、どうしてあの時、『自分で受け取れよ』なんて冷たい事を言えたの?」
ヒッキーは思わず目を逸らし、震える声で応えた。
「俺、どうかしていたんだ、母さん」
しかし、母親の幻影は容赦しない。
「どうかしていたですって。私がどれだけ苦しんだか分かるの? あの家で一人、あなたの帰りを待つ日々がどんなに辛かったか」
ヒッキーは息を呑み、何も言えずにただその場に立ち尽くした。
幻影の母親は涙ながらに続ける。
「私はもう何もかも捨ててしまいたい。それでも、何とか生きてきたのは、あなたが戻ってくるって信じているからよ!」
「母さん、そんなこと……そんなこと、俺!」
言葉が喉で詰まり、何も出てこないヒッキーを見下ろしながら、幻影は最後の一撃を加えるように呟いた。
「今さら謝られても、私は忘れることなんてできないわ」
ヒッキーは頭を抱え、足元に崩れ落ちた。動揺が彼の全身を襲い、心の奥底が揺さぶられる。
「ごめん、母さん……俺、本当にごめん!」
だが、幻影は彼の謝罪を受け入れることなく、悲しげな表情でその場から消えていった。
幻影が消えた後、ヒッキーは地面に手をついて息を吐き、動揺がまだ胸の中で渦巻いているのを感じていた。
「クラリス?」
次にヒッキーの前に現れたのは、涙を湛えた目で彼を睨むクラリスの幻影だった。
「ヒッキーくん、私がどれだけ辛かったか、あなた分かってた?」
彼はたじろぎ、思わず一歩後ずさった。
「辛かったって……俺、そんな」
しかし、クラリスの幻影は容赦なく続ける。
「分かっていないのね。あの時、私がどれだけ必死だったか、気づきもしなかったんでしょ?」
ヒッキーは苦しげに顔を伏せた。
「クラリス。俺、あの時は……」
「何もしてくれなかったじゃない!」
声が震え、涙が頬を伝うクラリス。
「結局、私をシェイドに押し付けたのね!」
「押し付けてなんか……」
ヒッキーの言葉は力なく途切れる。
彼の胸に鋭い痛みが走る。
クラリスの幻影は悲しげに微笑んだ。
「でもね、ヒッキーくん、いつかは迎えに来てくれるんじゃないかって、少しだけ期待してたのよ」
その言葉が、彼の心を深く刺す。
彼は何も言い返せず、ただ立ち尽くしていた。
クラリスは静かに背を向けながら呟いた。
「でも、その期待も、もう……叶わなかったのよね」
幻影が消えた後、ヒッキーはその場に膝をついた。
「赦してくれ、クラリス。俺は……本当に、何もできなかったんだ」
彼の言葉は虚空に消え、胸の中で渦巻く後悔と痛みだけが残った。
一方、レイラも別の場所で幻影と向き合っていた。
足を止めた瞬間、空気が凍りついたような錯覚を覚えたのだ。
目の前に現れたのは、冷たい眼差しを向けるセリアンの幻影だった。
「セリアン様?」
「君は、いつも自分勝手だな」
低く響く声が彼女の胸を貫く。
「何を仰りたいの?」
レイラは必死に尋ねる。
「僕たちの婚約を一方的に破棄したかと思えば、次はどこかで勝手な事をしている。自分の立場を分かっているのか?」
「私は……」
レイラの口から言葉が漏れるが、セリアンの幻影はさらに詰め寄る。
「君はアストレア王国の王女だぞ。その責任から君はいつも逃げてばかりいる!」
「そんなこと……」
レイラは言い返そうとするが、セリアンの冷たい声が彼女を遮った。
「君には君の自由があるのかもしれない。でも、その自由の後始末をするのは、他の誰かじゃないか。僕も含めて」
幻影はそれ以上何も言わずに消えていった。
レイラは深く息を吐き、震える手で胸を押さえた。
「セリアン様。私は、そんなつもりじゃ……」
彼女の声は虚空に吸い込まれ、風の音だけが残った。
次に霧の中から現れたのは、威厳ある姿のサリオス王だった。
その瞳は普段の優しさを失い、冷たくレイラを見据えていた。
「父上?」
「お前には失望したよ、レイラ」
彼の低い声は、いつもとは違う鋭さを帯びていた。
「私は何も……」
「黙れ!」
サリオス王の言葉が彼女を遮る。
「お前は、アストレア王国の王女として生まれたのだぞ。それがどれだけ重い意味を持つか、まだ分からないのか?」
レイラは一歩後ずさる。
「私は自分の人生を選んだだけです!」
「それが問題だと言っているのだ」
王の声が響く。
「お前は自分の事だけを考えているのだろう。しかし、お前の行動がどれだけ多くの者を翻弄し、王国を揺るがせたか、お前は分かっていない」
レイラは目を伏せた。
「レイラ、私はお前の父として、そして国王として忠告しよう。自由とは責任だ。それを理解していないお前に何の価値がある?」
サリオス王の幻影はため息をつき、背を向けた。
彼の姿は徐々に霧の中に溶けて消えていく。
霧が少しずつ晴れていく中、ヒッキーの目の前にぼんやりとした人影が現れた。
「ヒッキー!」
その声が届いた瞬間、ヒッキーは頭を上げた。
そこに立っていたのはレイラだった。
心配そうな顔でこちらを見つめている。
「レイラ……お前、本物か?」
ヒッキーの声は震えていた。
さっきまで胸を締め付けていた暗い感情が、彼女の姿を見た瞬間、まるで霧とともに消えていくようだった。
レイラは微笑んで首をかしげる。
「何言ってるのよ、ヒッキー。私がニセモノに見える?」
ヒッキーは一瞬呆然とした後、大きく息を吐いた。
そして、まるでその息に詰まっていたものを吐き出すかのように、肩の力が抜けた。
「いや違う、本物だ。間違いなくお前だよ、レイラ」
ヒッキーの顔に少しずつ笑みが戻る。
それを見て、レイラは小さくうなずいた。
「良かった。あんた、なんだか酷い顔してるから心配したわ」
「そりゃそうだろ。お前がいなかったら、俺……」
言葉を詰まらせたヒッキーは、再びレイラの顔をじっと見つめる。
レイラの澄んだ瞳が、暗闇に囚われていた彼を現実に引き戻してくれた。
「俺、何やってたんだろうな。お前の顔を見たら全部どうでも良くなっちまったよ」
レイラは照れくさそうに笑い、少しだけヒッキーに近づいた。
「さ、行くわよ。私たちにはまだやるべきことが沢山あるんだから」
ヒッキーは力強くうなずき、手を伸ばして霧の中を歩き出す。
隣には、間違いなく本物のレイラがいた。
ヒッキーとレイラは霧の中を並んで歩き出した。
歩きながらも、レイラは何度か横目でヒッキーを盗み見る。
その仕草に気づいたヒッキーが少し眉をひそめた。
「どうしたんだよ。俺の顔に何かついてるのか?」
レイラは首を横に振り、ふっと笑う。
その笑みには、どこか安堵と不安が入り混じった色があった。
「ううん。ただ、あんたが本当に目の前にいるのかって、確かめたかったのよ」
「何だよそれ。お前、俺が幻覚だって思ってたのか?」
「……さっきまでの霧に何だかおかしなものを見せられてね。だから、何度も自分に言い聞かせてたの。『これは現実だ、あんたはヒッキーなんだ』って」
レイラの言葉に、ヒッキーは一瞬黙り込んだが、やがて軽く肩をすくめて笑った。
「まあ、そう思いたくなるのも分かるよ。俺だって、お前を見つけるまでは、何が本物で何がニセモノか分からなくなってた」
レイラは足を止め、ヒッキーの腕を軽くつかんだ。
その手の温かさが、互いの存在を確かめる証のようだった。
「でも、こうして触って分かった。あんたは確かに本物だ」
その言葉に、ヒッキーは少し照れくさそうに笑った。
「当たり前だろ。お前が幻覚見たくらいで消えるほど、俺は軽い存在じゃねえよ」
レイラもつられて笑い、そっと手を離す。
その表情にはもう迷いはなかった。
「なら、置いていかないでよ。私はあんたの隣にいるんだから」
「置いていく事なんかあるわけないよ。俺たちはいつも一緒だ」
二人は再び歩き出した。霧はすっかり晴れ、澄み切った空が広がっていた。
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