第15話 山頂の扉の前で

 夜の山頂。


 満月が雲間から輝きを放ち、その光がレイラの持参した扉を神秘的に照らし出していた。

 扉は古びているが、どこか荘厳さを感じさせる。


「ヒッキー、準備はいい? 元の世界に戻るチャンスは1回だけよ」


 レイラが静かに問いかける。

 その声には、いつもの軽妙さではなく、少しの寂しさが滲んでいた。


 ヒッキーは扉の向こうにぼんやりと浮かぶ景色を見つめた。

 そこには、懐かしい日本の風景、自分の家、そして母親が映っている。


 だが、次の瞬間、見えたのはかつての自分の姿だった。

 母親に向かって懐中電灯を投げつけ、怒鳴り散らしている。


「なんという馬鹿だ……」


 知らないうちにヒッキーの口から声が出ていた。



 さらに次に映ったのは、現在の家。

 部屋の中は薄暗く、埃がうっすらと積もった家具が映し出される。

 その中で、一人座り込んで泣いている母親の姿があった。


「母さん……」


 ヒッキーは思わず呟いた。


 母親は、ヒッキーの散らかったままの部屋の端で、彼が昔使っていたノートを手に取っている。

 ノートには、ヒッキーが高校時代に書いていた小説のアイデアや落書きがぎっしり詰まっていた。


「優之介……何処にいってしまったの?」


 母親の声は震えており、涙がノートに落ちる音さえ聞こえてきそうだった。

 ヒッキーは手を伸ばしたが、扉の向こうにいる母親に触れることはできない。


「俺はここにいるよ」



 扉が次に映したのは、ヒッキーの家の近くの商店街だった。

 母親は一人で店を切り盛りしている。

 店には商品が並んでいるが、明らかに以前の賑やかさはない。

 疲れた表情でレジを打つ母親。

 客もまばらで、店内はどこか寂れていた。


 すると、店に無愛想な男が入ってきて声を荒げた。


「おい、家賃が滞ってるんだぞ。いつになったら払うんだ!」


 母親は困ったように頭を下げる。


「すみません、もう少しだけ待ってください。必ず……必ず払いますから」


 男は苛立った様子で舌打ちをし、商品棚を軽く蹴って出ていった。


 その光景を見ていたヒッキーは拳を握りしめた。


「母さん、こんなに苦労してたのか……俺は何にも知らなかった」


 ヒッキーは扉の向こうの光景を見つめながら、これまでの自分を悔いていた。

 ニートとして母親に迷惑をかけ続けた過去。

 そして、異世界で自分なりに成長し、村人たちの信頼を得てきた今の自分。


 ヒッキーは短剣「リフィオン」を手に取り、まるで母親を守る力の象徴のようにそれを見つめた。


「母さん……待っててくれ。今の俺なら何とかできるはずだ!」


 扉の向こうの景色がゆっくりと消え、ヒッキーの目には決意の光が宿っていた。


「俺、戻って母さんに謝らなきゃいけないし、元の世界でやり直すべきだろうな」


 しかし、こちらの世界での出来事が頭をよぎる。


 クラリス、ティナ、ラフィア、そしてレイラ……。

 村での荷物預かりの仕事や、人々に感謝される日々の暖かさ。

 さらに、今回のダムの危機を乗り越えた時の達成感も。


「でも、こっちでは初めて自分が必要とされてる気がしたんだ」


 レイラが一歩近づき、ヒッキーの肩に手を置く。


「ヒッキー、どっちを選んでもいいのよ。向こうに戻るのも、ここに残るのも」


 ヒッキーは少し笑いながら言った。


「お前がそんなに優しいこと言うなんて、珍しいな」


 レイラは軽く笑みを浮かべたが、すぐに真剣な顔に戻る。


「だって、これはあんたの人生の決断だからね。でも、1つだけ覚えておいて」

「何だよ?」

「どちらの世界でも、自分の価値を作るのは自分だってこと。あんた自身がどう動くかで未来は変わるわ」


 ヒッキーはその言葉に深く考え込んだ。


「時間よ」


 レイラが告げると、扉が淡く光を放ち始める。

 ヒッキーは扉の向こうの景色を見つめた。

 家、母親、そして過去の自分。


 一方で振り返ると、こちらの世界の山並みや星空、レイラの姿が目に映る。


「お前も一緒に来ないか?」


 ヒッキーは思わずレイラに向かって言った。

 レイラは軽く首を振りながら答える。


「それはできないのよ。元の世界に戻れるのは元の世界から来た人だけなの」

「そうなのか。一緒に行けたらよかったのに」


 レイラは微笑みながら言った。


「そう思ってくれるのは嬉しいけど、私はこっちの世界に生きる人間だからね」


 ヒッキーはしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと扉の方に歩み寄る。

 そして立ち止まり、振り返ってレイラを見た。

 彼女は微笑みながらも、どこか寂しそうな目をしている。


 ヒッキーはため息をつき、扉の前に立ち止まる。

 そして、何かを決意した表情で宣言した。


「俺の帰るべき場所はここだ。過去を取り戻すんじゃなく、ここで未来を作る。それが俺の選ぶ道だ!」


 レイラが驚いた表情を浮かべた。


 ヒッキーは振り返ってレイラに告げる。


「……俺を送り返す代わりに、1つ頼みがある」

「頼み?」

「母さんに手紙を届けてもらう事はできないだろうか」

「可能よ」

「それに俺の稼いだ金貨や銀貨も送金したいのだけど」

「手紙もお金も1度だけなら……送り届けることは出来るわ」


 ヒッキーはポケットから紙とペンを取り出し、手早く何かを書き始めた。

 書き終えると、それを折り畳んでレイラに手渡す。


「これまで迷惑をかけてばかりだったことを母さんに謝りたいんだ。そして、こちらで元気にしていることを伝えて、安心させてあげたい」


 レイラは手紙を受け取り、ヒッキーの目をじっと見つめた。


「あんたは本当に戻らないのね」


 ヒッキーは少しの迷いもなく頷いた。


「俺はこちらに残る。あっちの世界には……お前がいないじゃないか!」


 レイラの頬がほんのり赤く染まり、彼女は微笑みながら言った。


「わかったわ。あなたの手紙、必ず届ける」



「母さんへ

 久しぶりに手紙を書いています。どうか驚かないで読んでください。俺は今、ルナリス村という新しい場所で暮らしています。ここで俺は『ヒッキー荷物預かり所』という小さな仕事を始めました。最初は何もできなかった俺が、今では毎日責任を持って荷物を預かり、村のみんなから信頼を得られるようになりました。

 母さんに迷惑ばかりかけた俺が、ここでは少しは誰かの役に立てるようになったんだ。これも母さんが俺を育ててくれたおかげだよ。本当にありがとう。

 でも、この手紙を書いたのには、ただ近況を伝えるだけじゃなく、母さんに伝えたいことがあるんだ。

 母さんの店が厳しい状況にあること、ちゃんと分かっています。店の家賃が滞っていることや、お客さんが減っていることも聞いています。今すぐそばに行って助けられないのが悔しいけれど、俺にできる方法で力になりたい……」


ヒッキーは手紙を続けた。


「突然、このお金が届いて驚いているかもしれない。これは俺が遠い場所で一生懸命働いて稼いだものだ。これで、店の借金を返済したり、家賃を払ったり、少しでも母さんの助けになればいいと思っている。

 俺はこの場所で、たくさんの人と出会い、信頼されるようになった。そして、母さんがどれだけ苦労して俺を支えてくれたかを思い知らされたよ。

 これが俺にできる、ほんの少しの恩返しだと思って受け取ってほしい。母さんが笑顔でいてくれることが、俺の何よりの願いだから。

 ありがとう、母さん。 

疋田優之介より」


 手紙を書き終えると、ヒッキーはそれをそっとレイラに渡した。


 レイラは手紙を受け取りながら、ふっと笑みを浮かべた。


「ふふっ、じゃあちょっと書き加えておくわね」


 ヒッキーは驚いた顔で彼女を見つめた。


「おいおい、何を勝手に?」


 レイラはサラサラとペンを走らせながら言った。


「間違っていないでしょ」


 彼女が書き加えた内容をヒッキーが覗き込む。


追伸:直人に「もう俺は怒っていないよ」と伝えてください。そう言えば分かってくれるはずです。


 ヒッキーはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「確かにそうだな。今となっては、あれもただのちっぽけな出来事だったとしか思えないよ」


 レイラは満足げに微笑むと、手紙を持ち直して扉に向かった。


「じゃあ、送るわよ」


 レイラが扉に向けて手をかざすと、扉が淡く光を放ち始めた。

 そして、手紙がふわりと宙に浮き上がると、静かに扉の向こうへ吸い込まれていった。


「これで本当に届いたわ」


 レイラは手を振り下ろしながら微笑んだ。

 ヒッキーは扉の消えゆく光を見つめながら、静かに呟いた。


「ありがとう、レイラ」


 その瞬間、ヒッキーの胸にほっとした安堵感と、ほんの少しの寂しさが広がった。



 元の世界では、母親がポストに届けられた封筒を見つけていた。

 中には、手紙とともに銀行口座への振り込み明細が入っている。


「優之介……これは!」


 手紙を読んだ母親は涙を流しながら、振り込み明細を握りしめた。

 送金額は、母親の状況を十分に解決するものであり、それ以上に息子の成長と愛情が伝わってきた。

 何よりも、どこかで息子が立派に働いている、と知ったことで彼女の中に生きる力が湧いてきたのだ。



 ヒッキーは肩の力を抜いて深く息を吐いた。

 そして、レイラに向き直ると微笑んで言った。


「さあ、戻ろう。俺にはまだまだ預かるべき荷物が沢山あるんだ」


 レイラも笑いながら頷いた。


「うん、そうね。山ほどの荷物があるわ」


 2人は山を下りていく。

 満月の光に照らされた道を、これから続く新しい日々を思い描きながら。


(「ヒッキー荷物預かり所」第1部 完)





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る