烏羽という名の禁忌

 隣人戦争において最も忌み嫌われたのは戦争の首謀者ではなく、烏羽からすば一族だろう。

 当時、彼らは逃げていた。戦火から逃れるため、争うことも迎合することもなく、ごく普通に逃げの一手を打っていた。

 至極真っ当な行動。

 それが異様だった。

 自分達がに気づかず殺し合う中、常識とかけ離れた行動をする少数派は異常で恐怖の対象だった。

 結果、『烏羽という異端な存在の排除』という共通の価値観が生まれ、烏羽姓及びその関係者一切の排除が始まった。


 非戦を選び逃げ続けた烏羽からすば姓もその縁者もその近隣も。

 読みの違う赤の他人の烏羽うば姓もその縁者もその近隣も。

 漢字の違う赤の他人の鳥羽とば姓もその縁者もその近隣も。

 

 戦争が事実上終結した今もなお、烏羽は言葉にすることのできない禁忌となっている。

 その禁を破ったのは、あろうことか折紙の担当者だった。


「どうしましたか譲夜さん。ひょっとして体調が悪いんですか?」


 折紙の心労を余所に、烏羽チェノワは飄々と――あるいは正々としている。一刻も早く逃げ出したい折紙とは正反対だ。


「あのっ、チェノワさんって国家公務員……でらっしゃるんですよね?」

「そうですね。国家公務員としてこちらに出向いてます」

「なるほど。今から思い切りぶん殴るんで公務執行妨害ってことでアタシを逮捕してくれません?」

「激しいツッコミとして処理するのでご安心ください」

「じゃあその豊満な胸を揉んでセクハラってことで解雇に」

「スキンシップの一環ですね」

「た、退職届を――」

「筆記用具がありませんね」

「……じゃ、じゃあかくれんぼしません? アタシが隠れるってことで――」

「逃がしませんよ?」


 このまま逃げても家まで追いかけてくるだろう。折紙にそう思わせるほどに烏羽チェノワはタフだった。いつ鬼が交代したんだろう。

 はぁ、と大きな息を吐いてからチェノワは言った。


「一体全体何が嫌なんですか」

「……全部だよ!」

 言われて思わず折紙はぶちまけた。

「今まで料理雑誌部門で安穏と生きてたのに紙一枚で文献蒐集部だぜ!? アタシは静かにのんびり暮らしたいの! スローライフイズビューティフル! ビバ! スローライフ!」


 堂々と烏羽を名乗る人間が担当なのも嫌だ――とはさすがに言えない。


「大丈夫です。スローライフなら文献蒐集部でも出来ますよ」

「嘘だっ!」

「本当です。キャンプ道具一式揃えてますから」

「家に帰れないやつ!」

「住めば都です」

「どうせ毎日遷都するんだ!」

「あんまり駄々こねないでください。尺――いえ、時間が無いんですよ」


 至極真っ当な理由で怒られた。

 怒られて尚悪あがきをするほど折紙も子供にはなれない。


「これ以上駄々こねるなら実力行使しますよ」

「国家権力の実力行使とは?」

「怖くありませんよ。最初だけ少しちくっとしますが」

「…………」

「はい! 静かになるまで二分かかりました。時間が惜しいですから、ここからは移動しながら説明しますね」


 二度と入ることのない特殊編纂室に後ろ髪を引かれながら、折紙はチェノワの後を追う。


「まずこの業務についてどの程度把握していますか?」

 チェノワは後ろを振り返り、折紙に尋ねた。

「どの程度ったって……あちこち回って本を集めるんだろ? 常に生きるか死ぬかの」

「なんだ、ちゃんと把握してるじゃないですか。心配して損しましたよ」

「できれば間違ってると指摘してほしかったんだが」

「天下お墨付きの冒険者と考えたら楽しくないですか? それに待遇がずっと良くなりますよ」

「お墨付きの鉄砲玉じゃねえか」

 余計に質が悪い。

「冒険者には特権もあります」


 折紙のぼやきを無視してチェノワは続ける。


「私達は空家や廃屋が探査の対象なのでその場合は住居侵入の罪に問われません。業務中の不埒者に対する逮捕権もあります」

「現実的な冒険者だな」

「そしてこれが一番大切な事ですが、私たちが回収するのは手のひらサイズ以上の紙類全般です」

「紙類全般」

「はい。本からメモ用紙一枚に至るまで、それが一定のサイズを超えていればすべて」

「メモ用紙なんて必要か?」

「資料としての価値が無くても汚染されている可能性はありますから」

「…………」

「譲夜さんは嫌かもしれませんけど、私はこの仕事気に入ってるんです。だって命懸けで世界を救う英雄みたいで格好いいじゃないですか」


 黙った理由をどう受け取ったのか、チェノワはそう答え、折紙はさらに押し黙った。

 チェノワの話が一段落したところで、丁度バンの前に着いた。


「これからこの車で移動します」


 折紙は目を細めてその車両を眺めた。白い塗装が剥げかけた外装に、大きな荷台付きの無骨なデザイン。いかにも過酷な使用に耐えてきた歴史を感じさせる。しかし、どう見繕っても高給取りや英雄が乗るような車ではない。

 チェノワはバンの助手席側のドアを開け、折紙をエスコートする。


「さあ譲夜さん、こちらにどうぞ」

「いや、アタシは後ろでいいんだが?」

「ダメです。後ろは荷物と道具専用ですから、人が乗るスペースなんてありません」


 チェノワの言葉に、折紙はバンの荷台を覗き込む。中には箱やら工具ボックスやらが乱雑に詰め込まれ、確かに座れる余地などなかった。

 折紙は不承不承助手席に乗り込む。座席は妙に硬く、しかもシートベルトがスムーズに伸びない。


「座席倒していいか?」

「構いませんよ。目的地まで時間はありますから、到着までお休みください」


 チェノワが運転席に飛び乗り、軽快な動作でエンジンをかける。バンは振動と共に唸りを上げ、少しの間を置いてスムーズに動き出した。折紙はシートを倒し、目を閉じた。

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