5章 道⑩
「きゃああああああっ!」
急いでマネキンから手を離して立ち上がると、その拍子に丸椅子が後ろに倒れた。
「魚住! どうし――」
隣に翔太がいる。一叶はどうやら元の病室に戻ってきたらしい。だが、翔太はなにかを言いかけて口を噤んだ。いづみの顔がぐるぐると渦巻き始め、いづみの母の顔へと変わったからだ。
「……! これ、霊視で視たのと同じだ……!」
「お前、霊視始めてから急に動かなくなったんだぞ。なにが視えた?」
和佐が聞き返したとき、扉が開く音がした。
――ガラガラガラッ。
一叶たちが病室の入り口を振り返ると、
「娘の様子はどうでしょうか?」
そう言って中に入ってきた母親の後ろから、父親も現れた。
皆が両親にかける言葉を探していると、異様な空気を感じてか、母親の顔色が変わる。
「いづみ!」
一叶を押し退けるようにベッドに駆け寄った母親は、娘の変わり果てた顔を見て、呆然としていた。
「……なんなのよ、これ……私の顔じゃない……」
父親も現実を受け入れられないのか、目を見張ったまま立ち尽くしている。
母親は近くにいた一叶を振り返り、よろよろと近づいてくる。震える腕を伸ばし、ガッと力任せに肩を掴んできた。
「いづみは? いづみはどこなの!?」
「お母さん、落ち着いて!」
エリクが間に入ってくれるが、母親は彼を押し退け、一叶を揺さぶる。
「ねえ、いづみはどうなっちゃったのよ!」
「魚住先生」
京紫朗に呼ばれ、彼を見る。
「いづみちゃんのオーラに、黒はありません」
(黒はない……ということは、そばに霊もいないし、いづみちゃんの命に別条はないってことだ。じゃあ、霊視の中で視た黒い靄は……霊じゃない?)
いづみは霊視の中で『あれが来て、踊らされる』と言っていた。それはあの黒い靄のことで、それをいづみはたぶん母親だと。
「霊ではないけど、それに近いものって……なんでしょう?」
京紫朗たちに意見を求めると、エリクが答える。
「念……とか? ほら、僕が念写するときに送る念って、霊的なものだけど霊じゃないじゃん?」
「黄色くんと同意見です。残留思念のように、人間が強くなにかを思ったとき、その場所に残留するとされる思考や感情などは霊とまではいかなくても、人から生まれたものですから、近いものなのではないでしょうか」
エリクと京紫朗の考えを聞いてよかった。原因に目星がついた一叶は、母親に向き直った。
「お母さん、いづみちゃんはもう限界です」
「どういう意味?」
一叶は母親が持っていた手提げ袋を静かに奪い、中から衣装を取り出した。
「今、発表会をしている場合でないのは、おわかりですか?」
「でも! 発表会はあの子のすべてなのよ!?」
「お母さんのすべて、の間違いでは?」
母親は癇に障ったのか、頬をぴくりと引きつらせる。
「なんですって?」
「今、こんなふうに変わり果てたいづみちゃんが、発表会に出れる状況だと、本気でお思いですか?」
娘がマネキンになったというのに、まだ発表会の心配をしている。
いづみのことを考えていない母親に悔し涙が滲んだ。
「バレエをしていたとき、いづみちゃん、楽しそうでしたか? 心から、笑っていましたか?」
「そんなの、楽しいに決まってるじゃない」
当然のように言ってのける母親に、怒りで声が震えないよう冷静に話す。
「いづみちゃんが、そう言いましたか?」
「さっきから、一体なんなのよ!」
母親が手提げ袋を手で払うと、地面に衣装がひらりと落ちた。
「いづみちゃんは恐らく、お母さんの〝娘をプロのバレリーナにする〟という思念に蝕まれています」
母親は「……は?」と怪訝そうに眉を寄せる。
「先ほど、マネキンの中に閉じ込められているいづみちゃんと少しだけお話ししました」
こういった事態に慣れている京紫朗を覗き、全員が驚いていた。
「踊ると、身体中が自分のものじゃないみたいに硬くなって、温度も痛みもなにも感じなくなる……マネキンみたいに」
母親が息を呑んだ。
「その言葉で、いづみちゃんがお母さんのマネキンになっているのだと思いました。だから、顔もお母さんになったんです」
「そ、そんな……」
力なく座り込みそうになる母親を、そばにいた父親がとっさに支える。
「ターニングポイントは、いづみちゃんとSNSのことで言い合いになったときではないかと」
その会話のあとで、いづみの身体の半分が黒く変色した。母親もその場で見ていたので、心当たりがあるはずだ。
「勝手に自分のことを載せないでと言ったいづみちゃんに、お母さんは私が生んだんだから口を出すなとおっしゃいました」
そのことを父親は知らなかったのか、どういうことだと問い詰めるように母親を見た。
「お前、そんなことを言ったのか?」
その言葉を聞いた瞬間、母親はキッと父親を睨む。
「私を責めないでよ! 本当のことじゃない! バレエのお金だって、親が出してるのよ!」
夫婦喧嘩が始まりそうだったので、一叶は先に話を進める。
「いづみちゃんは、お母さんの思い通りにできるマネキンではありません」
「……っ」
母親は噴火寸前といった様子で、顔を赤くした。ただ、言い返さなかったのは、いづみの異変の原因が自分にあると、ほんの僅かでも自覚しているからだと、そう思いたい。
「いづみちゃんは、もう高校受験を控えています。本当は勉強がしたいのだと、そう話していました」
「いづみが、そんなことを……」
父が考え込むように俯く。
「お願いです。本当のマネキンになってしまう前に、いづみちゃんの声に耳を傾けてください。このまま、いづみちゃんが壊れきってしまわないように」
「さっきから聞いていれば、私たちの育て方が間違ってるみたいに言って……!」
母親が一叶の胸倉を掴もうとしたが、それを止めたのは父親だった。
「やめるんだ!」
父親が母親の腕を掴んで、下ろさせる。
「お前の育て方が間違ってたとか、そういうことを言い争う前に、俺たちが心配しなきゃならないのは、いづみのことだろう!」
「……っ、こんなときばっかり父親面して! 今まで、いづみの教育のことに口出したことなんて、なかったじゃない!」
「お前が口を出すなって空気を出してたからだ! お前は娘をバレリーナにすること以外の意見を聞かないだろう!」
ふたりは言い合ったあと、熱が冷めたのか、同時に黙った。そして、いづみに視線をやると、ゆっくりとベッドサイドまで歩いていき、娘の両手をそれぞれ握る。
「いづみ、お前の悩みに気づかず、すまなかった」
「あなたがこんなわけのわからないことになって、頭がおかしくなりそうよ。あなたのせいとは言わないけど、お母さんをもう苦しめないで……っ」
ここまで来ても娘を追い詰めた謝罪はないのかと内心怒りがわくが、人間がすぐに変わるのは難しい。事態の深刻さを理解できるようになっただけ、前進していると思うしかない。
「でも、私のなにが嫌だったの? バレエなら私も経験があるし、その経験があなたのためになると思って、やらせてたつもりだったのよ。悪かったところがあるなら、教えてちょうだい」
「いづみ、お前の話が聞きたいんだ。お前がなにを思ってても否定しない、否定させない。だから頼む、声を聞かせてくれ……っ」
ふたりの声が届いたのだろうか。口は動いていないが、いづみが喋りだした。
「……ずっと……お母さんの理想を押し付けられて……窒息、しそうだった」
「いづみ……!」
母親は前のめりになって、いづみの顔を覗き込む。
「それなら言えばよかったじゃない!」
「言わせる気……なかったでしょう? 私がなにかを言おうとすると、被せて捲し立ててきて……いつも理詰めで……」
うちの母もそうだったなと、今は懐かしく思う。つい昨日まで苦しんでいたのに、折り合いをつけられたからか、いづみと自分を重ねても心は揺れなかった。
「私……お母さんの作った私っていう殻を……少しずつ破っていきたい。バレエ以外の世界を見て……本当の自分を見つけていきたいの」
「そんな……」
母はショックだったのか、ベッドサイドに座り込んだ。
「もういいだろう。それでいづみがもとに戻るなら、それ以外に望むことなんてない」
父親に諭された母親は、涙を浮かべて、いづみを見た。
「……っ、わかったわ。あなたの生きたいように生きなさい」
それを聞いたいづみのマネキンの目から涙がこぼれ、一叶たちは息を吞む。
「ありがとう……今まで聞いたお母さんの言葉の中で……いちばん嬉しい」
塗装が剥がれるように、いづみの身体を覆っていた黒が宙へと浮き上がり、消えていく。
「いづみ!」
両親は期待の眼差しで娘を見守る。
もとの肌色と顔を取り戻したいづみは、起き上がってすぐに母親に抱き着いた。
「っ、もう……」
母親は完全に納得したわけではなさそうだったが、苦笑しながらいづみを受け止めていた。
いづみの身体が元に戻った翌日。
一叶たちは病院の外まで、退院するいづみを見送りに来ていた。
「うわっ、雪じゃん!」
いづみが少し先で両親を待たせながら、積もった雪を蹴る。
楽しそうな彼女が見られて本当によかったと、一叶は笑みを浮かべた。
「例年より早い初雪だって」
コートも羽織らず、白衣姿で出てきたので、さすがに凍えそうだ。
「そうなの? というか魚住先生、寒そう」
いづみが自分のマフラーを外し、一叶の首に巻いた。
「あげる。いろいろありがと、魚住先生」
「え、でも……」
「あ、それ新品だよ。お母さんが退院用にって買って来たんだけど、その色好きじゃないんだ」
「もしかして、お母さんの好きな色?」
「そうそう、私の好きな色だって思い込んでんの。重症だよね」
舌鋒鋭くぶっちゃけるいづみに、一叶はふふっと笑ってしまう。すると、いづみが振り返った。
「ん? なに?」
「吹っ切れ方が清々しいなって」
「下心のある愛情で一方的に殴ってくるくせに、感謝しろなんてやってられないから」
「それ……」
霊視の中で一叶が言ったことを、いづみが覚えていたことに衝撃を受ける。
「あれ、夢だと思ったんだけど、やっぱり現実……だったんだ」
一叶が驚いてるのを見て、確信したらしい。
「霊がどうのこうのて話してたから、もしかしてって思ってたんだよね。やっぱりあそこって、夢? それとも死後の世界とか?」
「あ……私もよくわからないんだ。でも、私は確かにあの世界に行って、いづみちゃんに会ったよ」
いづみは「そっか」と言い、一叶の真正面に立った。
「魚住先生、迎えに来てくれて、ありがと。魚住先生にしかできない、スーパーパワーじゃんね?」
「……!」
(スーパーパワー……)
なんでか、涙が出そうだ。
「こちらこそ、ありがとう」
救われたのは、こっちだ。いづみのことがなければ、自分の問題に向き合うことも、本当の意味でこの力を持っていてよかったと思うことも、なかっただろう。
いづみは「どういたしまして」と笑い、少し先で待っている両親に目を向けた。
「魚住先生、お母さんはたぶん、この先もきっとあのままなんだと思う。今回はほら、私があんなことになっちゃって、焦ったから引いただけでさ」
「うん……」
いづみは子供なのに、まだ大人にならなくてもいいところまで大人だ。
「だってさ、『ごめんね、お母さんが間違ってたわ!』とか言って、号泣するみたいな展開、ドラマの中だけだし」
「本当、そうだよね」
「だから私、ありがた迷惑な愛情なら突っ返してやるんだ。このマフラーがそのひとつ」
いづみは一叶の首に巻いたマフラーの両端を握って軽く振る。
「それなら、いづみちゃんの決意の証として、受け取らないわけにはいかないね」
「もし、患者から物を受け取るな、とか言われたらさ。私の治療で怨念が宿った、いわくつきの品だから引き取ったんですって言ってよね」
一叶は目を丸くした。
カフェでいづみにチョコレートモカをおごる際に、一叶が使った言い訳を真似したらしい。
「……ふふっ、悪いことを教えちゃった気分」
「他ではなかなか使えないけどね」
確かに、とふたりでくすくす笑う。
「お母さんのこと、全部が嫌いなわけじゃない。だから、お互いが壊れない距離を保っていこうと思う」
「そうだね、間違ってないと思う」
「うん……」
いづみは一叶の手を両手で握った。
「先生のこと、一生忘れない」
「私も……いづみちゃんは特別な患者さんだったよ」
ぎゅっといづみの手を握り返して、静かに離す。
「じゃあね!」
そう言って笑顔で走り出したいづみは一度だけ立ち止まると、こちらに向かって大きく手を振った。
手を振り返せば、いづみは再び両親のもとへと駆けていき、親子で横に並んで歩きだす。
雪の上に残っていた彼女の足跡が道のようにどこまでも続いていく。その先はどうか、彼女自身が作った未来でありますように。そう願いながら、彼女を見送っていると――。
「もう雪が降る季節なんだね」
そばに翔太がやってくる。
「そうだね、あとちょっとで今年も終わるんだ」
雪空を見上げると、他の皆も横に並んだ。
「正直、皆さんがここまでもつとは思ってませんでしたよ」
翔太の隣を見ると、京紫朗が苦笑している。
「自分でも驚いてますよ」
振り返ると、一叶の横で和佐は白衣のポケットに手を突っ込み、ぼーっと天を仰いでいた。
「来年もみんなといられるといいね!」
和佐と肩を並べていたエリクも、視線は上に向けたまま言った。
一年が過ぎれば、一叶たちは別の科に移動できる。皆がどの道を選ぶのかはわからない。だから、答え合わせが怖かったのかもしれない。
誰も答えを口にしなかったけれど、離れがたいと思っているのはきっと皆一緒だ。
「そういえばさ、前にエリクが念写能力で魚住に視せたのって、どんな光景だったの?」
物悲しい空気を変えるためか、翔太が話を変えた。
「えっ!」
なぜか焦っている様子のエリクが気になったものの、一叶は言う。
「えと、エリクくんと和佐くんがHILARIOUSのデッキ席で飲んでて」
「……は?」
今度は和佐が狼狽えたように見えたのだが、彼に限ってそれはないかと続ける。
「和佐くんに彼女がいるのかとか、気になる子が……ふぐっ」
いつの間に背後に回ったのか、エリクの手に口を塞がれた
「ええっ? そんなの見せたかなー!?」
「おいこら、エリク! 他に見せるもんなかったのかよ!」
和佐に頭を鷲掴みにされたエリクは、涙目で訴える。
「だって! 急に念写しろって部長が言うから!」
京紫朗はくすくすと笑っており、翔太は騒いでいる和佐とエリクを横目にため息をついた。
「……行こ、魚住」
翔太に手を引っ張られて、病院の正面出入口に向かって歩き出す。
一叶は自分の足跡を振り返り、小さく笑うと、前に向き直った。
(帰ろう、私の居場所に)
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