5章 道⑨
翌日、出勤してきた一叶は霊病科に着くや否や、改めて京紫朗に頭を下げた。
「昨日は私のせいで皆が抜けることになってしまって、ご迷惑をおかけしました。それから、ありがとうございます」
一叶の家であったことは、すべて昨日のうちに電話で京紫朗に報告している。
「いいえ、霊視能力を取り戻すためにも必要なことでしたし、気にしないでください」
そうは言うけれど、ひとりで働かせてしまったので、そのぶん挽回しなければ。
「綺麗な水色一色になりましたね」
意気込んでいると、京紫朗は柔らかく目を細めながら一叶を見つめていた。
「本当……ですか?」
どうやら、混じっていた黒が消えたみたいだ。今ならわかる、一叶のそばにあった死は、母の生霊のことだったのだ。
「答えを出せたから、水色さんに混じろうとしていた死を追い出せたのでしょう。ですが、お母様の執着が消えない限り、お母様の生霊は何度でも目の前に現われるはずです」
生霊は飛ばしているほうも自覚がないので、止めるのはほとんど不可能なのだ。
「はい。でも、もう恐れません」
適度な距離を保って、自分の意思を見失わずにいれば、生霊であろうと生身の母だろうと付け入ることはできない。
「いい目です。では、あなたが助けなければならない患者のもとへ行くとしましょう」
一叶は頷き、皆といづみの病室へ向かった。
「なっ……」
病室に着いてすぐ、一叶たちは驚愕した。
「マネキン……?」
エリクが表現したままだ。ベッドに横たわっているのは、いづみにそっくりのマネキン。目や鼻や口もちゃんとある。
「見た方が早いかと思いまして、申し送りを省きました。夜間に、このように容態が急変したんです」
京紫朗の話を聞きながら、一叶は未だに状況を受け止められないでいた。
ひとりの患者に肩入れするのはよくないのかもしれないが、特別な患者というものが医者にはいる。一叶にとって、彼女は間違いなくそれだ。そんな患者がマネキンになったのだ、ショックだった。
「こんな姿形にはなってしまいましたが、心電図モニターには反応するようで、口は動いていませんが呼吸はしていますし、脈も直接触れることはできませんが、あります。瞳孔反射に関しては、瞳もマネキンになってしまっているので確認できていませんが、脳波は正常です」
京紫朗の申し送りを聞き、翔太は言う。
「生命活動はあるってことっすね」
今のままで、生きていると言えるのだろうか。
一叶はいづみに近づく。いづみがカフェで見せた、コロコロと変わる表情を思い出し、胸が締め付けられた。
「いづみちゃん……」
ベッドサイドの丸椅子に腰かけると、隣に翔太がやってきた。
「やるの?」
「うん、やってみる」
一叶は深呼吸をして、静かにいづみの腕に触れた。その瞬間、急に静寂に包まれた。
「えっ……」
辺りを見回すと、そばにいたはずの翔太たちの姿がない。困惑しながら立ち上がり、ベッドにいるいづみを見る。
「あれ?」
そこに、いづみの姿はなかった。
「いづみちゃん……いづみちゃんを探さないと」
そうしなければならない気がして、一叶は病室を出る。
――パチ……パチパチパチパチパチッ。
ナースステーションのほうから、拍手の音が聞こえた。そちらに足を向けると、ナースステーションには看護師たちがおり、こちらに背を向けたまま一心不乱に手を叩いている。
ひとまず、人がいてよかった。一叶はほっとしながら声をかけた。
「あの! すみません!」
すると、彼女たちは手を叩くのをやめる。その一糸乱れぬ動きに、一叶は凍り付いた。無意識に後ずさると――。
看護師たちがバッと一斉にこちらを向く。その顔は白衣よりも白く、目も口も中身を抉り取られてしまったかのように真っ黒で、にたりと笑っていた。
「ぁ……あっ……きゃああああああああああっ!」
叫びながら、全速力で来た道を戻る。
――バタンッ!
廊下の途中にあるトイレのほうから、扉が閉まる音がした。
(いづみちゃん?)
一叶はそのまま、女子トイレへと飛び込む。
「はあっ、はあっ、いづみちゃん!」
呼びかけながらトイレに足を踏み入れると、ひとつだけドアが閉まっていた。一叶は個室のドアに触れ、もう一度、尋ねる。
「そこに……いるの?」
少しの間のあと、返事があった。
「……魚住、先生?」
「いづみちゃんなの!?」
その問いに答える代わりに、ガチャッと鍵が開く音がした。
――キィィィィィィィ……。
一叶はごくりと喉を鳴らす。指先が冷たくなり、はやる胸の前で両手を握り締めながら、ゆっくりと開くドアを見つめた。中にいたのは――。
「魚住先生……!」
いづみだった。いづみはドアの向こうにいたのが一叶だとわかると、涙でぐちゃぐちゃな顔で飛びついてくる。
「よかったっ、ここにいたんだねっ」
いづみを抱きしめ返すと、ふたりでその場にしゃがみ込んだ。
「魚住先生、どうしてここにいるの? これ、私の夢なのに……」
「夢?」
「うん、これは悪夢だよ。気持ち悪い看護師と、気持ち悪い白鳥の湖」
「あ……看護師は、私も視た。あれ、なんだったんだろう」
「わからないけど……たぶん、観客? なんだと思う」
いづみは一叶よりも前から、この夢の世界にいるのか、思い当たることがあるようだ。
「観客?」
一叶が聞き返したとき、院内のスピーカーから蓄音機で流したような不協和音の音楽が流れ始めた。その曲は、バレエに疎い一叶でも知っている白鳥の湖だった。
「白鳥の湖って、これのこと?」
「そう。それでもう少したらあれが来て、私……踊らされるの」
「あれって?」
「わからないけど、たぶん……っ、お母さん。どこに隠れてても見つかるのっ」
怯えた様子でいづみが一叶にしがみつくと、トイレの明かりがチカチカと点滅し始めた。
「っ、来る! 私、踊りたくないっ」
一叶の胸に顔を埋めたいづみは、尋常でないほど震えている。
「踊ると、身体中が自分のものじゃないみたいに硬くなって、温度も痛みもなにも感じなくなる……っ、マネキンみたいに!」
(マネキン……!)
これは偶然なのだろうか。
――カツンッ、カツンッ、カツンッ、カツンッ。
足音が廊下から近づいてきた。
「ああっ、来ないでっ、来ないでえええっ!」
いづみが悲鳴をあげた途端、バンッと照明が落ちた。昼間の病院だ、電気が消えても見えるはずなのだが、なぜか真っ暗でなにも見えない。
――バンッ!
次に明かりがついたとき、一叶は目を疑った。隣にいたはずのいづみの姿がないのだ。
「っ、いづみちゃん!」
急いで立ち上がり、廊下に飛び出すと、廊下にあの白い顔をした看護師がずらりと立っていた。
「ひっ」
一叶は腰を抜かした。看護師たちは貼り付けたような笑みを浮かべたまま拍手をしており、廊下の少し先ではいづみがバレエをしているのか、くるくると回りながら前に進んでいるのが見えた。
「……っ」
いづみのもとへ行くには、この不気味な看護師たちの間を進まなくてはならない。一叶は自分の膝を叩いて、なんとか立ち上がる。
看護師たちを刺激しないように歩き出すと、踊るいづみの顔が回るたびに青白くなっているのに気づいた。どんどん目も落ち窪み、頬がげっそりとこけ、少しずつぐったりとしていく。
一叶がさらに目を凝らすと、いづみの後ろに黒い靄が視えた。それは人の形をしており、いづみの身体を後ろから掴んで動かしているように見える。
霊なのかはわからないが、いづみの様子がおかしいのはあれが原因だろう。
一叶は看護師を警戒しつつ、思い切って駆け出した。そして黒い靄から掻っ攫うように彼女の手を引き、全力疾走する。すると靄は凄まじい速さで追ってきて――。
どんっと、背中からぶつかってきた靄に飛ばされた。いづみは地面にぶつかった瞬間、身体がマネキンへと変わり、カランカランッとパーツがバラバラになって四方に転がっていく。
「うっ……いづみ……ちゃ……」
床に身体を打った一叶は、痛みを堪えつつ起き上がる。
そばに落ちていたマネキンの手を持ち上げれば、あちこちに傷ができていた。
「傷だらけ……」
そこで腑に落ちる。
「そっか、こんなふうに……壊れちゃったんだね」
一叶は散らばっているマネキンの身体を集めると、胴に腕をはめる。
「私もそうだった……壊れそうだった。もしかしたら、壊れかけてたのかも」
カチャカチャと、マネキンを組み立てる無機質な音だけが響いている。いつの間にか、黒い靄も看護師も消えていた。
「でも、向こうは私たちがボロボロなことに気づかない。娘のためだって言いながら、その下心のある愛情で一方的に殴ってくる。そのくせ感謝しろなんて、やってられないよね」
一叶はマネキンの股関節に足をつけながら、語りかけ続けた。
「わかってほしかったんだよね。無駄だってわかってるのに、理解を求め続ける自分が嫌になるよね。そうやってこれからも、お母さんを憎んだり、恋しく思ったりし続けるんだろうね」
一叶は最後に、マネキンの頭をはめる。
「どんなに縁を切ってやるって強がっても、それが本心だし……」
形だけは人の姿に戻ったいづみのマネキンを抱き上げると、一叶は立った。そして、病室に向かって歩き出す。
「一度壊れたら、元に戻るのは……きっと、不可能なんだと思う」
自分に自信が持てずに自己否定を繰り返したり、他人の顔色をうかがって合わせてばかりで自分の意思や感情がわからなくなったり、自分の気持ちに蓋をして他人のために尽くして、へとへとになったり……後遺症が残る。
「沁みついてしまったものが、これからも私たちを苦しめる」
病室に入り、ベッドにマネキンを寝かせた。俯いた拍子に、ぽたっと一叶の涙がマネキンの顔に落ちる。
「でも、悔しくない? お母さんのマネキンとして生きても、喜ぶのはお母さんだけ。いづみちゃんの人生は、いづみちゃんのものなのに」
マネキンの目から、涙が流れる。
(ここに、まだいづみちゃんはいる)
ベッドサイドの丸椅子に腰かけると、いづみの手を取った。そのとき、マネキンの顔が渦を巻き始めた。
「なに!?」
顔のパーツがぐちゃぐちゃになり、やがて粘土のごとくグニャグニャと歪んで別の形へと変わる。
「え……」
出来上がった顔は、にたりと笑った。その顔はいづみのものではなく――いづみの母のものだった。
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