4章 笑顔の裏側②


 HILARIOUSのデッキ席で、和佐は一気飲みしたビールのジョッキを荒々しく置いた。


「松芭部長、霊病科の仕事はなくなりませんよって言ってたじゃないですか。なのになんで、俺たち定時上がりしてんですか?」


 懇親会のあとから、霊病科メンバーの行きつけの店になったHILARIOUSに一叶たちがいるのには理由がある。


 あれはほんの三十分前のことだ。仕事を上がる時間が迫り、翔太が頬杖をついて、あくびをしながら言った。


『本当に仕事が来なかったね』


 仲良く会議用のテーブル席についたっきり、一叶たちはそこから一歩も動くことなく一日を終えた。霊病科に配属されて、初めて勤務中に暇を持て余した。


 そこで和佐が冗談交じりに言ったのだ。


『もう、HILARIOUSに飲みに行こうぜ。オンコールもねえだろうし、こうなったらがっつり飲んでやる』


『あ、はは……明美さんにも会いたいですしね』


 冗談でも言ってないとやってられない気分だったのは、一叶も同じだ。から笑いをして、和佐に乗っかった。


『いいですね、行きましょう』


 コーヒーメーカーの前でコーヒーを注ぎながら、一叶たちの会話を聞いていた京紫朗があっさりと許可したときは、全員が『え?』と目を丸くした。


 こういう経緯があって、一叶たちはHILARIOUへ来たのだが……。


「おかわり!」


 ヤケ酒をしている和佐を眺めながら、一叶はカクテルのグラスをじっと睨む。


「私も和佐くんみたいにヤケ酒がしたい……全然仕事してないから、罪悪感がすごくて……飲めない自分の馬鹿真面目ぶりが憎らしい……いっそ泥酔してしまいたい!」


「……魚住もだいぶ酔ってると思うよ」


 翔太が「ほら、水」とグラスを差し出してくれる。


「ありがとう」


 一叶は一口、こくりと水を飲む。すると翔太が気遣わしげな眼差しを向けてきた。


「エリクを抜きにして、このメンバーで飲んでるのが後ろめたい?」


「……っ、うん」


 一叶はぼんやりと、両手で包み込むように持ったコップに視線を落とす。


 透明な器と水……本心を見透かしてしまう翔太には心の中がこんなふうに見えているのだろうか。だとしたら、隠しても無駄だ。それなら素直に白状してもいいか、と一叶は思った。


「普段、このお店を使うとき……全員が揃うことはまずないよね。けど、なんとなく……メンバーにHILARIOUへ行くときは報告するような流れができてるでしょ? 一緒に行けなくても、今頃飲んでるんだろうなって想像しながら、楽しい気分になれた」


 自分の思っていることを話すのは落ち着かなくて、一叶は気を静めるようにコップの外側を親指でこする。


「だからかな、報告する義務もないんだけど、なんだかエリクくんを仲間外れにしてるみたいで……胸が痛い。やっぱり、前のようには……戻れないのかな」


「みんな口にしてないけど、同じ気持ちだよ」


 翔太を見ると、彼は寂しそうに唐揚げを持ち上げる。


「エリク、唐揚げ食べるとき、梅マヨつけるじゃん?」


「うん、梅ぼしとマヨネーズをわざわざ頼んで、小鉢で混ぜてつけるんだよね」


 エリクが『和洋奇跡のマッチング!』と騒いでいたのを思い出し、少し笑ってしまう。

 しかも、エリクのために当然のように梅マヨネーズのタレが小鉢に用意されていて、カウンターのほうを見ると明美がウインクしてきた。


(明美さん……)


 自分たちを待ってくれている人がいると思えるから、またここへ来たくなるのだろう。


「そういうさ、ただの仕事場だけの付き合いなら一生知らなかったかもしれない味の好みも知ったし、もうただの同僚……とは思えないよね」


「そうだね。それだけの関係なら、去って行っても理由なんてどうでもよくて、それぞれの道だしって送り出せた」


 ほとんどの人が去って行った元同僚とまた会うことはない。それでも、そういうものだと割り切れた。薄情かもしれないけれど、大人の付き合いなんてそんなものだ。


「じゃあ、寂しい、でいいんだよ」


 翔太は唐揚げを頬張った。


「そっか、うん……寂しい」


 一叶も唐揚げを箸で摘まんで食べる。溜まっていたものが少しだけ外へ出たからか、心なしか胸が軽くなった気がした。


「皆さん、動き足りなくてモヤモヤしているかもしれませんが、先ほども言った通り、霊病科の仕事はなくなりません」


 京紫朗がグラスを置くと、皆が彼に意識を集中させた。


「霊や呪いは人間の負の感情から生まれる。つまり人間がいる限り、我々の仕事はなくなりません。それを放置すればどうなるのか、彼らに自覚してもらういい機会です。今日から数日は夜勤はなしにして、交代でオンコール対応にします」


日から数日は夜勤はなしにして、交代でオンコール対応にします」


「つまり霊病医がいなくなったらどうなるか、思い知らせてやろうってことですね」


 和佐と京紫朗が悪い顔で笑いながら乾杯している。


 翔太は「悪役のコラボレーションか」となぜかスマホで写真を撮っており、一叶は苦笑する。医院長にあそこまで言われて、きさらぎ病院を退職させられるかもしれないのに、不思議と不安はなかった。


「久しぶりに思いっきり飲めるんだ、今のうちに楽しんどこうぜ」


 和佐はぐびっと、ビールを煽る。


「和佐くん、その辺にしておいたほうがいいんじゃ……帰れなくなるよ」


 仕事に慣れてきて、夜勤も研修医同士で組めるようになり、自分がこの場所で必要な存在になれていると実感できてきたところだったので少し残念ではあるが、和佐の言う通りだ。


「休めるときに休んでおきましょう。いずれ、忙しくなりますから」


 京紫朗の笑みに、皆がぶるりと震えたのは言うまでもない。




 皆で飲みに行ってから数日、出勤はしているものの仕事がない状態が続いた。そんなある日、霊病科に珍しい客人が訪ねてきた。


「く、暮時さん?」


 今にも泣きそうな顔で瑞穂は入り口に立ち尽くしていたが、やがて限界が来たらしい。


「魚住先生……っ、助けてください!」


 その場で泣き崩れ、一叶は慌てて彼女に駆け寄り、中に促すと椅子に座らせた。翔太はカフェオレを淹れ、和佐は「ほら」とティッシュ箱を差し出す。


「っ、ありがどう……ございまず」


 瑞穂は涙や鼻水をティッシュで拭く。

 少しして彼女が落ち着いたのを見計らい、京紫朗が尋ねた。


「なにがあったのか、話していただけますか?」


「……っ、はい。実は昨日、夜勤だったんですけど……」


 瑞穂は涙声で話し出す。


「同じ夜勤の看護師の子が巡回からなかなか帰ってこなくて、見に行ったんです。そしたら、廊下の真ん中に座り込んでて……」


 動揺を落ち着かせるためか、瑞穂は膝の上で両手を握り合わせた。


「慌てて駆け寄って声をかけたんですけど、なにを話しかけても反応がなくて、涎を垂らして、ぼーっとしてるんです。うまく言えないんですけど、正気とは思えなくて……」


「それならオンコールで呼んでくれりゃあ……って、今の状況で霊病科にコンサルできるわけねえか」


 和佐は砂を噛んだように顔を顰める。


「はい……なので精神科の先生に診てもらったんですが、急性ストレス障害じゃないかって。けど、原因はわからないそうです。それと、うなじに焼印みたいな傷があって」


 瑞穂はポケットからスマートフォンを取り出すと、写真を見せてくる。


「こっそり撮ったんですけど……」


 スマートフォンを借りて、皆で確認してみると、その火傷痕は【巫】の文字を象っていた。


「痛々しいですね……」


 写真を見ながら眉間にしわが寄るのを感じる。

 翔太も気分悪そうに頷いた。


「うん、自分でつけられる位置ではないし、誰にやられたのかはわからないけど、女の子の肌にこんな傷が残るのはかわいそう」


 京紫朗は顎に手を当てる。


「この字は『ふ』『かんなぎ』……そういう読み方をする字ですね。巫女を表す言葉でもあります」


「悪い意味で使われる言葉ではねえよな?」


 和佐は訝しげに首を捻る。


「どうでしょうね。人ならざる者と繋がることのできる存在を善とするか、悪とするか、すべては人間がどう捉えるか次第ですから」


 今の一叶たちは、京紫朗の言葉がよく理解できる。普通でない力で誰かを助けても、医院長がそうだったように疎まれることもあると。


 重苦しい空気が漂う中、一叶は肩を落としている瑞穂を見つめる。


「なんとかしてあげたいけど、今私たちが動いたら、暮時さんの立場が悪くなるかもしれない。一体どうすれば……」


「構いません」


 瑞穂はまっすぐな目で告げた。


「その看護師、佐々木ささき裕子ゆうこっていうんですけど、同期なんです。佐々木ちゃんがこんなふうになってるのに、なにもしなかったら……私は人を助ける看護師失格です」


「暮時さん……」


「すみません、コンサルしたら駄目だってわかってますし、皆さんにご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、どうか佐々木ちゃんを助けてくださいっ」


 瑞穂は深々と頭を下げた。必死に助けを求める瑞穂に居ても立っても居られず、一叶は京紫朗を振り返る。


「松芭部長、動いてもいいですか?」


 京紫朗は一叶を静かに見つめ返し、口を開いた。


「駄目です」


「で、でも……」


「動くべき時が必ず来ます。ですから、今はじっと待っていてください」


(そんな……)


 暮時は「そう……です、よね……」とぎこちなく笑いながら、席を立つ。


「今は霊病科も大変な時期ですし、無理言ってすみませんでした。話を聞いてくださって……ありがとう、ございました」


「今は霊病科も大変な時期ですし、無理言ってすみませんでした。話を聞いてくださって、ありがとう……ございました」


「っ……」


 きっと、頭を下げながら瑞穂は泣いていた。そう思ったら、身体が勝手に彼女を追いかけていた。


「暮時さん!」


 エレベーターを待っている瑞穂の背中に声をかけると、彼女は驚いたように振り返る。


「え、魚住先生?」


 目の前までやってきた一叶に目をぱちくりさせていた瑞穂は、改めて頭を下げてきた。


「あの、さっきはすみませんでした。ここで医院長の反感を買うようなことをしたら、魚住先生たちが仕事しにくくなるのに……」


 彼女の話を聞きながら、ふいに和佐の言葉が頭に蘇る。


『組織に所属してようが、人として腐っちゃならねえ部分ってのがあんだよ。俺が医者を辞めるのは、その部分を曲げなきゃならねえときだ』


 本当に、名言だと思った。


「私も……暮時さんと同じように、人を助ける……医者です。だから……は、腹をくくります」


「え……え? それって、助けてくれるってことですか!?」


 縋るように距離を縮めてくる瑞穂に、一叶は頷く。


「やれるだけ、やってみます。なので、佐々木さんの病室を教えてもらえますか?」


 初めてかもしれない、誰かに逆らったのは。でも、不思議とすっきりした気持ちだ。


「はい! 今は精神科病棟に入院しているんです。ええと、七〇三号室です」


 一叶はポケットからメモ帳を取り出し、急いで書き留める。


「あの、魚住先生、私にもなにか手伝えることはありますか?」


「あ……ありがとうございます。でも今は隠れて診察しないとなので、任せてください。協力が必要なときは、声をかけますから」


「じゃ、じゃあ……!」


 一叶のメモ帳を取り、瑞穂はボールペンを走らせた。


「これ、私の連絡先です。なにかあればこっちに」


 メモ帳を返してきた瑞穂に頷き、「それじゃあ、また」と一叶が急いで霊病科に戻ろうとすると――。


「魚住先生!」


 呼び止められた一叶は慌てて足を止めて、瑞穂を振り返る。


「本当に、ありがとうございます!」


 瑞穂は泣き笑いを浮かべ、深々と頭を下げた。その姿を見て、この選択は間違ってないと、一叶は確信するのだった。




「お疲れ様でした」


 定時になり、一叶はそそくさと荷物をまとめた。


「そんなに急いで、今日はなにか用事があるんですか?」


 カバンを肩にかけたところで、京紫朗に目ざとく話しかけられ、一叶はぎくっとする。


「あ、はい。歯医者に……えと、失礼します!」


 逃げるように霊病科を出て、全速力でエレベーターまで走り、中に乗り込む。ドアが閉まり始め、ほっと息をついたときだった。


 ――ガンッ!

 エレベーターのドアに手が差し込まれた。


「え……?」


 二本の手が左右に無理やり、ドアをこじ開ける。


「どーこーへー行ーくーつーもーりーだ~」


「うーおーすーみ~」


 ふたりの男の声がして、一叶の目にじわりと涙が浮かぶ。


「ひっ」


 壁際まで下がってカバンを抱きしめると、開いたドアから翔太と和佐が入ってきた。


 仕事が仕事だけに、登場の演出がシャレにならない。心臓が止まりそうになった。

 ふたりはにやりとしながら、こちらに迫ってくるや一叶の両脇を固める。


「俺たちもついてってやるよ、歯医者に」


「え、いや、それはちょっと……」


 おろおろする一叶に、ふたりは限界とばかりに吹き出した。


「え、え?」


「ごめん、魚住の嘘バレバレだったから」


 翔太は口元に手の甲を当てながら笑った。


「行くんだろ、佐々木って看護師のところによ」


 和佐は断言する。一叶はそろりと視線を横に泳がせた。


「う……松芭部長も気づいてるよね」


「うん、驚いてる感じなかったし、たぶんわかってて俺たちのこと送り出したんだと思う。魚住のすること、本気で止める気はなかったんじゃないかな」


 翔太が言うならそうなのだろうけれど、その真意は謎だ。


「これまでも松芭部長の言葉で気づけたことがあったし、今は思うままにやるしかない……よね」


「なんだ、根暗にしてはやる気だな」


 和佐がからかうように言う。


「組織に所属してても、人として腐っちゃいけないときが、ありますから」


 自分の言葉を引用したのだと気づいたらしい和佐は、目元を赤らめる。


「どっかで聞いたセリフだな」


 照れ隠しなのか、和佐が一叶の頭をわしゃわしゃと撫でると、翔太はなぜかむっとした顔をした。


「俺もやる」


 そう言って、翔太も参戦してくるものだから、一叶は「あははっ」と声をあげて笑ってしまう。するとふたりも、つられたように頬を緩めた。




 精神科病棟のある七階にやってくると、なにしに来たんだと邪険にするような看護師たちの視線を感じながらナースステーションの前を通り、個室の七〇三号室にやってきた。


 もうすでに看護師には見られてしまっているが、大勢のスタッフに一叶たちがここにいるのを知られると面倒なので、素早く病室に入り、すぐにドアを閉める。


「これは……話ができる状態じゃないね」


 翔太の声で窓際のベッドを振り返ると、裕子は涎を垂らしながらぼんやりと虚空を見つめ、寝台に座っていた。


「でも……すごく怖がってる」


 翔太は彼女から感じ取ったらしい。


「暮時さんに頼まれてきました、医師の魚住です」


 そう声をかけながら、一叶は彼女に近づく。


「佐々木さん、少し触りますね」


 彼女の髪を払うと、露わになったうなじにガーゼが当てられていた。それを捲り、一叶たちは息を呑んだ。


 話しには聞いていたが、そこにあった【巫】の焼印は赤く爛れて痛々しく、傷の表面から滲み出る浸出液でぐじゅぐじゅになっている。


「この火傷の感じだと、明らか最近入れられたものだろ」


 和佐の話を聞きながら、一叶は食い入るように焼印を見ていた。どこからか甲高い音がたくさん聞こえ始め、それが女の悲鳴だと頭が理解した瞬間――。


 ――ジュウウウウウウッ!


 肌に熱を押し当てられたような感覚に襲われ、「うっ」と一叶はうなじを押さえると、身を屈めた。


「魚住!?」


「大丈夫、でも……なんか痛い……っ」


 一叶がうなじを押さえているのに気づいたのだろう。


「手ぇ退けろ!」


 和佐が一叶の手首を掴んで、髪を横に避ける。すぐさま翔太がうなじを確認し、「ん?」という顔になった。


「なにも……できてない……みたい」


「でも、確かに熱さを感じて……」


 自分に起きたことに動揺していると、


『佐々木裕子さーん』


 声が聞こえ、一叶は勢いよくドアを振り返った。


「魚住?」


 翔太が目を瞬かせる。


「あ……今、声が聞こえなかった?」


「声?」


 和佐は怪訝そうに首を傾け、『聞こえたか?』と問うように翔太を見た。


「え? ううん、俺は特に」


 ふたりは聞いていないようだ。


「今、『佐々木裕子さーん』って、誰かが呼んだ気がして……」


「い、いや……いやだ、呼ばないで……いやああああああっ!」


 ずっと心ここに在らずだった裕子が突然、泣き叫んだ。弾かれたように裕子を見ると、耳を塞いで尋常じゃないほど震えている。


「もう……ない……たくない……行き……ない……」


 すると、病室の扉が勢いよく開いた。


「佐々木さん!?」


 騒ぎを聞きつけた看護師がやってきて、ぶつぶつと呟いている佐々木の背をさすりながら「大丈夫よ、大丈夫」と落ち着かせる。


「すみませんが、病室から出ていってください」


 ものすごい剣幕で詰め寄ってきた看護師長が、病室の入り口を指さした。申し訳なく思いながら廊下へ出ると、看護師長の説教が始まる。


「霊病科と関わると、うちの病棟のスタッフの立場が悪くなるんです。患者にも、悪影響をもたらすのはやめてください」


 言い返しそうになるのを堪えている和佐の姿が視界の端に見える。


「ただでさえ、この数日だけで同じような症状を訴える患者やスタッフが五名も精神科に回されてきてるっていうのに……」


「え……他にも、うなじに焼印みたいな火傷がある患者が?」


 一叶が尋ねると、看護師長の表情が険しくなった。


「ええそうよ。だからって、勝手に診察なんてしないでくださいね?」


 念を押してくる看護師長に、一叶はぶんぶんと首を横に振りながら懇願する。


「し、しません! なので、状況だけでも教えてくださいませんか?」


「状況と言われても……みんな巡回中の看護師だったり、警備員だったり、中には検査のためにレントゲン室前で待っていた外来患者だったり、いろいろよ。もういいかしら、私たちも暇じゃないので」


 看護師長に追い払われるようにして、一叶たちはエレベーターへ向かう。


「俺たちの知らないところで、なんか起こってやがるっつーのは確かだな」


 和佐は顔を顰めながら、わしゃわしゃと髪を掻き混ぜた。


「佐々木さん、名前を呼ばないで、行きたくないって言ってたけど、あれ、なんのことだろう」


 翔太も視線を床に落とし、考え込んでいる。


「名前……」


 一叶は瑞穂が話してくれた噂を思い出した。


「そういえば、前に暮時さんから聞いたんだけど、最近、病院内で変な都市伝説が広まってるって」


 翔太は目を瞬かせる。


「なにそれ、初耳」


「俺も聞いたことねぇ」


 ふたりが知らないのも無理はない。一叶も含め、オカルトメディカルチームの面々は、霊病科の外の人間と仕事以外で関わることがない。そういった雑談でするような話題とは縁遠いのだ。


「赤い白衣のマミコさんっていうらしくて、すれ違ったとき、病室とか診察室の前を通りかかったとき、名前を呼ばれるらしいんです。それで振り返ったり、部屋の中に入ってしまったりした人は、正気でいられなくなるって」


 翔太はすかさず、「回避ムズっ」と突っ込む。


「呼ばれたら反射的にうっかり振り返っちゃいそう。しかも診察を待ってる患者が診察室の向こうから呼ばれたら、普通に自分の順番が来たのかと思って入っちゃうよ」


「だよね……いかにも不気味な声じゃない限り、幽霊に呼ばれたなんて思いもしないしね」


 苦笑していた一叶の頭に、裕子の病室で聞こえた声が蘇る。


「さっき、佐々木さんの病室で聞こえた声……あれって、佐々木さんが体験したことを霊視で追体験してたのかな。ふたりには聞こえてなかったみたいだし……」


 まだ、今実際に起こってることなのか、霊視でその人の過去を見ているのか、区別がつかないことがある。


「どんな声だったの?」


 翔太に問われ、なんと説明すればいいのか迷った。


「うーん……普通の女の人の声ではあるんだけど、なんだか……その声だけ浮いてるっていうのかな。どこにいても聞こえてきてしまいそうな感じ」


 あの声を思い出すと、なぜだか得体の知れない不安に襲われる。


「声が聞こえて振り返ったり、部屋に入ったりしちまうと、正気を失うんだよな。それが佐々木裕子みたいな状態を指すなら、患者から話を聞くのは無理そうだな。けど、その赤い白衣のマミコさんっつう都市伝説が広まってるってことはだ。その話を一番最初にしたやつは、正気を失わなかった目撃者ってことにならねえか?」


 一叶と翔太は「あ!」となる。


「私、暮時さんに電話してみる。噂を誰から聞いたのか、辿ってみよう」


 ふたりの顔を見ると、強く頷き返してくれた。

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