1章 いわくつきの診療科②

 廊下でしばらく立ち尽くしたあと、一叶はナースステーションへ向かった。辺りを見回し、パソコンの前に年配の男性医師が座っているのを見つけて、おずおずと近づく。


「あ、あの、岩脇いわわき先生」


 一叶の指導医である岩脇は手を止めて、顔を上げた。


「おお、魚住。どうした」


 専門科配属までの残り期間は、好きな場所で働くことができるのだが、一叶がこの血液内科を選んだのは岩脇の存在が大きかった。


 同じ研修医仲間が外科研修での一叶の失敗談を岩脇の前で持ち出したときのことだ。


『偉かったな、魚住』


 なぜか岩脇は一叶を褒めたのだ。

 皆が呆気にとられる中、岩脇は研修医たちの顔を見回しながら言った。


『当たったことに気づいていても言い出せずに、それが原因で術後感染症を起こしてしまうこともある。ミスしてしまったことを隠さず、ちゃんと報告する。意外とこれができない人間は多いんだぞ』


 岩脇の言葉に、研修医たちは気まずそうな面持ちで視線を彷徨わせていた。


『ミスは誰にもある。そのミスをすぐに相談して、適切な対応を取り、安全に治療をする。俺は満点な対応だったと思うぞ』


 その言葉に心の底からほっとして、一叶は泣いてしまった。そんな一叶の頭を岩脇が励ますように撫でてくれたのを今でも忘れない。


「あの、実は先ほど廊下で松芭先生にお会いしまして……私、今日から霊病科に配属されることになったらしく……」


 それを聞いた途端、いつも患者がいかなる急変をしようとも動じない岩脇の顔が引きつった。


「……気の毒にな」


 岩脇が肩に手を乗せてきた。その顔は娘の身売りを嘆く親のようである。


「お前は気の弱さのせいで頭が真っ白になってしまうことはあるが、物覚えがいい。慎重すぎて行動に移るまでに時間がかかってしまうこともあるが、長く勤めていれば少しずつできることも増えてくるだろうに……あんな墓場に配属されたら、一年無駄にすることになる。ああ、もったいない」


「は、墓場……あの、私、霊病科というのがあること自体知らなかったんですが……」


 ――不安だ。一体、自分はどこに配属されてしまうのだろうか。


「実のところ行った人間にしか詳しくわからないんだが、読んで字のごとく霊が引き起こした病を治療する科らしい」


「霊って、あの霊ですか?」


「そうだ。オカルトメディカルチームに選ばれる人間は、そういった方面の能力を買われるらしい。心当たりはないのか?」


「それは……」


 確かに自分には靄が――恐らく霊の類が視える。けれど、自分ひとりにしか視えていないので、思い込みがそう視せているのだとばかり思っていた。


(なのに、病院が霊を公認してるみたいな科が存在してるなんて……私、からかわれてないよね?)


 未だに信じられずにいるのだが、岩脇は「気を強く持て」と至って真剣な表情をしている。


「え、魚住先生、松芭先生のところに配属になったんですか?」


 話を聞いていたらしい若手の看護師の暮時くれどき瑞穂みずほが、カウンター越しに話しかけてきた。


「は、はい。ご存知なんですか?」


「あのルックスだから、女性人気は高いんですよ、松芭先生。しかも三十三歳独身! 霊病科の部長じゃなければねって、みんなよく話してます」


「そうなんですね……」


 困った。母には病理科に行くと言ってしまったのに、また嘘をついていると責められるに違いない。それに一年も希望科に行けないなんて、将来が心配だ。


「俺は霊とかそういうのはちょっと信じられんのだが、オカルトメディカルチームの介入で快方に向かう患者がいるのは事実だ。踏ん張るんだぞ」


 今度は戦地に向かう娘を見送るような決死の表情で岩脇が頷く。


 一叶は名札に視線を落とした。

 霊病科行きを断れば失業、今から病理医を目指せる研修施設を見つけるにしても、近場になければまた引っ越さなければいけなくなる。それに……。


 これは母が敷いてくれた人生のレールから、一歩だけでもはみ出せるチャンスだ。


 行き着く先は変えられなくても、遠回りする猶予がある。そう思ったら、こんな運命のいたずらも悪くないかもしれない。一叶は少しだけ、息ができた気がした。




(ああ、緊張する)


 午前十二時三十分、一叶は渡り廊下を通って別館のB館へ移った。地下へ行くためだ。


 医師は霊安室に行く機会がほとんどないので、その隣に霊病科という部署があることはまったく知らなかった。


 本館であるA館のエレベーターは患者と従業員でいつも混雑しているのだが、一叶がやってきたのは遺体搬送時以外ほとんど使われないエレベーターの前だ。当然、一叶の他には誰も並んでいない。


 深呼吸をしてボタンを押す。少しして扉が開くと、中に先客がいたので驚いた。


 緑がかった気怠げな目、涼しげで端正な顔立ち、緑のメッシュが入ったマッシュカットの黒髪。片耳にリングピアスをつけており、紺のスクラブとパンツ、蛍光緑のフードパーカーを白衣の下に着ていた。


 彼は同い歳の研修医、なかば翔太しょうただ。研修ローテーションもグループも違ったので話す機会はなかったが、一叶と同じで研修医室では輪に入らず浮いている存在だった。


 個性的なのは格好だけでなく、隙あらばやっているゲームだ。今もヘッドフォンをつけて夢中になっており、一拍遅れでこちらに気づいた。


 彼は一瞬ぎょっとしたように目を見張ったが、すぐに会釈をして扉の開閉ボタンを押し続けてくれる。


 一叶も軽く頭を下げ、急いで中に入った。


「……何階っすか」


 ヘッドフォンを外して首にかけた彼は素っ気ない口調ではあるが、ボタンを押してくれるらしい。


「あ、ち、地下一階で……」


 言いながら視線を下げれば、B1階のボタンが光っており、すでに押されているのがわかった。


 お互いに「え」となる。彼がボタンから指を離すと扉が閉まった。下降し始めるエレベーターの中で「あの……」と気まずそうに声をかけられる。


「もしかして、そっちもっすか」


 なにが、とは言わない。彼はこちらを振り返り、自分の白衣の胸ポケットについた名札をつまんで見せてくる。そこには【霊病科 オカルトメディカルチーム 央翔太】と記されている。


「は、はい」


 一叶も同じように名札を見せた。


「これ、なにかの冗談っすかね?」


「私も、そう……思いたいです」


 ふたりで顔を突き合わせ、なんとも言えない不安を無言で共有する。


 そのとき、チンッとエレベーターが止まった。まだ一叶がいた六階から一段しか下がっていないのに、だ。思わず翔太と目を合わせ、前に向き直る。


 扉が開くと、緩やかにカールしたふわふわの金髪に碧眼の男性が立っていた。


「あっれ、絶対貸切だと思ってたのに、なぜにうおちゃんと央っちが?」


 彼が首を傾げると、後ろで結んでいる髪がちょろんと揺れる。白のワイシャツに赤のネクタイを締め、茶色のスーツズボンを履いている。白衣の胸ポケットについた名札には【霊病科 オカルトメディカルチーム 如月きさらぎエリク】とあった。


「うおちゃん……」


「央っち……俺たち、そこまで仲良くなかったよな」


 彼も同い歳で同期の研修医だ。この通り持ち前の明るさで、研修医室でも先輩や同期に囲まれていた。同じ研修を受ける機会はなかったが、研修医室や廊下ですれ違うと一叶にも気さくに話しかけてきてくれた。


「同じ研修医同士なのにつれないな……って、んん?」


 一点を凝視したままエレベーターの中に入ってくるなり、エリクは一叶と翔太の名札に顔を近づけて見比べる。


「え! うおちゃんたちも霊病科に配属!?」


「〝も〟って……あんた、院長の息子だろ。いいのか、ネーミングからして怪しい部署に配属されるとか」


 エリクが院長の息子であることは、この病院では有名だ。日本人の母とフランス人の父を持つハーフで背も高く、異国の王子のようなルックス。病院名と同じ苗字だからというのもあるが、彼はそれ以外でも目立つのだ。


「怪しいって、霊病科は一応この病院では正式に存在してる科なんだよ?」


 エレベーターの扉が閉まると、エリクは火がついたように喋りだす。


「まあ、特殊な科だから公にはされてないし、新人とか外の世界の人たちの間では若干都市伝説化してるけど」


 試しに昼休みにネットで『霊病科』と検索してみたのだが、日本医師会や厚生労働省のサイトに情報は載っていなかった。なのにネット掲示板やブログにはそんな科があるらしいという投稿がいくつかあり、ますます不信感が募ったのを思い出す。


「幽霊とか信じない人もいるし、変な宗教やってるとか言われたら病院の信用問題にも関わるから、暗黙の了解でみんな口にしないだけで、一緒に仕事をしたことがある職員はちゃんと知ってるよ」


「わ、私の指導医も知ってました」


「でしょでしょ。って言っても、僕も最近聞かされたんだけどね~」


 にこにこと語るエリクに、翔太は無言で呆れているのが見て取れる。そのとき、再びエレベーターが停まった。


「今度は誰が来るかな~? わくわくっ」


「この状況でよく楽しめるな」


 げんなりしている翔太と、うずうずしているエリクの真ん中で、一叶の鼓動も早まる。


 これから一緒に働くことになる同僚が誰なのか、気になったのだ。


「いざ、オープン!」


 扉に向かって腕を広げるエリクの声を聞きながら、ごくりと喉を鳴らす。


 現れたのは、赤い短髪のガタイのいい男性だった。えんじ色スクラブとパンツを身に着けており、袖から黒いインナーが見えている。


「あ?」


 なんでこんなに混んでんだ? と言いたげに、彼は赤みがかった切れ長の目を眇めた。


「あ! 同期殺しの鬼!」


 エリクが指さしたのは同い年の研修医、九鬼くおに和佐かずさだ。なぜか同期や先輩研修医から敬遠されている。詳しい事情は知らないが、『同期殺しの鬼』と呼ばれていることと関係があるのだろう。


「普通、本人の悪評を本人に向かって言うか?」


 ありえねえ、と翔太は呟いた。

 和佐もエリクを見て、あからさまに嫌な顔をする。


「てめえがなんでここにいる。ぼんぼん野郎」


 ぼんぼんというのは、お坊ちゃまとか、そういう意味だろう。


 研修医室でも遠目に見られていた和佐に唯一話しかけていたのがエリクだ。ただ、鬱陶しがられてもぐいぐい話しかけていたので、和佐のほうは迷惑そうではあったが。


「人を指さすなって、ママから教わらなかったのか?」


 射殺す勢いでエリクを睨みつけ、ズカズカと中に入ってきた和佐は、その人差し指を強く握って下ろさせる。


「いたたたたっ、折れる!」


 エリクは涙目で自分の人差し指を労わるようにさすった。

 また騒がしくなったエレベーターがゆっくりと動き出す。


「和佐くんも霊病科に配属?」


 エリクが覗き込んだ彼の名札には、しっかりと【霊病科】【オカルトメディカルチーム】の文字がある。


「俺は納得してねえ。一年強制労働か退職を選べ? どんなブラック企業だよ。抗議しに行く」


「抗議って……国が決めたことだろ。それして、なんになんの?」


 翔太はもう諦めているような口ぶりだ。


「俺は外科医になるって決めてんだよ。オカルトクラブに興味はねえ」


「クラブではないんだけどね」


 エリクは苦笑しながらエレベーターの壁に寄りかかり、天井を仰ぐ。


「でも僕も、放射線診断医になるはずだったんだけどなー。三年目から放射線科研修を受けるはずが、予定が狂っちゃったよ」


 エリクの言う放射線診断医はCTやMRIなどの検査画像から患者の病態を診断する専門医のことだ。


「画像オタクか」


 吐き捨てるように言う和佐に、エリクはやれやれという顔になった。


「和佐くん今、世界中の放射線診断医を敵に回したよ……で、央っちとうおちゃんはもともと、どこ希望だったの?」


 エリクがこちらを振り向く。


「俺の最終目標はさっさと金貯めて、ゲーム三昧のニートになること」


 翔太の回答に、ぶはっとエリクが吹き出した。


「けど、しいて言うなら精神科」


 興味なさそうに目を閉じていた和佐が、はっと馬鹿にしたように笑う。


「どうせ、楽だからだろ」


「……だから嫌なんだ外科医志望は。医者の王様が外科医だと思い込んでる能筋集団」


「んだと?」


 ヒートアップしている和佐には見向きもせずに、翔太はくわっとあくびをしていた。


「もー、どんな科も必要だから存在してるんだよ。ねえ?」


 エリクに話を振られ、一叶は肩を竦めて頷く。


「で、あんたは?」


 他人の進路なんて気にしなさそうな翔太が横目でこちらを見てきた。


「あ、えと……」


「はっきり喋れよ。のろい女だな」


 苛立っている和佐に「うっ」と声がもれた。ますます言葉が出てこなくなり、下を向いていると、すかさずエリクが間に入る。


「もー、せっかち!  でも、言いたくなかったら言わなくても……」


 気遣うような視線を寄越してきた彼に、一叶は慌てて首を横に振った。


「びょ、病理……私は臨床には向いてない、から……」


 病理医は疾患の確定診断をする医者のことで、直接患者と接する機会が少なく、黙々と作業をすることが多いのだ。


「わ、私は緊張すると、どもりがちだし……本当、どんくさいので……」


 研修医仲間とコミュニケーションを図るのも苦手だ。人よりも、仲良くなるまでに時間がかかる。


「でも、じっくり考えることは……好きで、机にかじりついて勉強するのが苦にならない自分には……ちょ、直接患者さんと……せ、接する機会が少ない病理医は向いてるかと、思ったので……」


 言いながら俯くと、「なんだ、陰キャか」と和佐にばっさり切られる。


「もう、口悪いよ!」


 エリクが窘めるが、彼はどこ吹く風だ。


「外科医っていちいちメス投げないと気が済まないわけ? 人の人生に口出せんのは自分だけだろ」


 翔太の言葉にどきりとした。


 ――自分の人生に口を出せるのは自分だけ。


 一叶の人生を当然のように決めてきた母親の顔が脳裏にちらつく。


「俺がいつメス投げたよ」


 和佐に嚙みつかれながら、翔太はこちらを怪訝そうに見てくる。その表情の意味はわからないが……。


 心の内の闇を嗅ぎ付けられた。なぜかそんな感覚に陥って、一叶はふっと視線を逸らしてしまった。

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