オカルト・メディカル・ドクターズ
@toukouyou
1章 いわくつきの診療科①
干物の匂いがこもったマンションの一室に、母の漬物を咀嚼する音だけが響いている。
「漬物、ちょっとしょっぱいんじゃない?」
茶碗と箸を持って口を動かしていた一叶は、味噌汁をごくりと飲み込む。
「ごめんなさい」
「あなたは私がいないと、なにもできないんだから」
機嫌よさそうに笑い、またも漬物を咀嚼する母を見ていたら頭痛がした。
「この春からフェローになるのよね」
大学の医学部を卒業した一叶は
そして三年目になるこの四月、
一叶も浪人することなく二十六で三年目を迎えるのだが、そろそろ配属先について声がかかるだろう。
「病理科に希望は出したの? あなたは患者の気持ちに寄り添うより、研究がメインの病理医が向いてるんだから」
「うん」
「嘘はついてないでしょうね? あなた、お母さんが勧めた大学病院を受けたなんて言って、こんな東京の端っこの病院を受けてたんだもの。信用ならないわ」
「…………」
中学に上がったばかりの頃に両親が離婚してから、一叶は長野にある実家で母と二人暮らしだった。
母は大学に通っているときに一叶を身籠り、医者になるという夢を叶えられなかった。その話を聞いたとき、母の夢を自分が叶えると約束したのだ。そうすれば、母が喜ぶと思ったから。
『あなたがお母さんの夢を叶えてね』
その想いに応えたくて週に五日も塾に通い、帰ってきたら眠る時間も削って母と自宅学習用の教材を解いた。
友達と遊ぶ暇もなかったが、母が自分のために二人三脚で頑張ってくれたので、やり切れたと思っている。医大の学費を払ってくれるだけでも相当な苦労をかけた。だから、悪いとは思いつつも一叶はひとつだけ母に背いた。
母が勧めた病院ではなく、別の病院を研修先に選んだことだ。今まで母の決めたことに従ってきたから医者になれたのに、どうしてかふと決められた道から逸れてみたくなったのだ。
もしかしたら、少し窮屈に思っていたのかもしれない。逃げたかったのかもしれない。
でも、母が納得するわけがなかった。
長野にある実家を出て病院の寮に入ったのだが、初期研修がそろそろ修了するので出なければいけなくなった。
寮は研修医しか住めないので、母は今がチャンスと思ったのだろう。
先月、このマンションに越してきたのだが、どうやって知ったのか、母が押しかけてきて、ちゃっかり住み着いてしまった。
本人に悪気があるわけではないし、父もいないのでひとりにしておくのも心配だ。
なにより母にはもう娘の自分しかいないので、突っぱねることもできず、毎日小言を言われながら暮らしている。
「ねえ、聞いてるの!」
ガンッと、テーブルに置かれた味噌汁が飛び散る。びくりと顔を上げれば、母は憎悪のこもった眼差しでこちらを見ていた。
急に寒気がして、一叶は腕をさする。
「大丈夫。私が入った病院は病理医を目指せる施設だから」
母と長年追いかけてきた夢だ。医者になれば将来は安定しているし、病理医になることも一叶自身が人付き合いが苦手なのもあって、母の言うように性に合っていると思っている。けれど……。
(本当に私って、お母さんがいないとなにもできないんだな……)
満足げに「そう」と笑う母を見つめながら、一叶は胸がモヤモヤするのを感じていた。
自分で作った朝食だ、ちゃんと味付けもした。なのに砂利を噛んでいるようで、一叶は静かに箸を置く。
「……ごちそうさま」
電車でひと駅、都内の海沿いにある
「おはようございます」
更衣室で従業員たちに頭を下げながら、自分のロッカーを開いた。
扉の内側についた鏡に長い黒髪を後ろでしばり、眼鏡をかけている自分が映る。光の加減でくすんだピンク色に見える目に、薄い化粧を施した顔。年齢よりも子供に見られがちなのが長年の悩みだった。
落ち着いたペールブルーのカットソーとベージュのセミワイドパンツの上に白衣を羽織ると、長いもみあげを手で撫でつけて軽く身なりを整える。
「この間、合コン行ってきた」
ふと、後ろから同じ研修医の女子たちの声が聞こえた。
「はあ? こんな忙しいのに、合コン行く暇がよくあるわね」
「暇は待っててもできないの。作るものなのよ。どっかのどんくさ娘になりたくなきゃね」
彼女たちが悪意ある視線を向けているのは自分だ。研修医の初期研修で、いろんな科を数か月おきに回っていたときのことが蘇る。
彼女たちの中に、外科研修で同じ班になった子がいた。
もともと人より気にしいで、間違っていないか何度も確認してしまうほど慎重になりすぎてしまい、カルテを書くのが遅かったり、手のかかる研修医である自覚があった。
『おい、そんなに患者から離れてて手術部位見えんのか?』
外科の研修中、年配の男性執刀医のサポートに入っていたのだが、変なところで遠慮してしまい、もたつきながら一歩前に出たときだ。
『そこ、清潔のライトハンドルに触らないように気を付けろ』
執刀医や助手、機器出しスタッフなどの手が手術部位に影を作ってしまわないためにある頭上の無影灯のハンドルには清潔なカバーがついているのだが、言われているそばから――。
ごつんっと頭が当たってしまい、不潔にしてしまった。
『す、すみませんっ』
『はあっ……なにやってんだよ、もう』
『すみませんっ』
『今回の新人は、こんなどんくさ娘しかいないのか?』
すぐに看護師が新しい清潔のライトハンドルに交換してくれる。その大失敗は同じ班の研修医に知れ渡り、『基本中の基本じゃん』『とろすぎ』と笑われた。
母の言う通りだ。
『あなたは私がいないと、なにもできないんだから』
『あなたは患者の気持ちに寄り添うより、研究がメインの病理医が向いてるんだから』
臨床に自分の居場所なんてないのではないか、そう思ってしばらく食事が喉を通らなかった。
一叶は嫌な記憶を閉じ込めるようにロッカーを締め、研修医たちの笑い声から逃げたい一心で更衣室を出る。
朝の通勤時間は職員用のエレベーターが混むので、スタッフ専用の階段を使うのが日課だった。
専門科配属までの残り期間、一叶は最後の研修先だった血液内科で働いている。
病棟のある六階まで階段で上がるのはなかなかきついが、スタッフと会いにくいので、個人的には気が楽だった。
――ゾワッ。
フロアに上がると、神経に障るような悪寒が走った。
右目の視界の隅に見えた廊下の突き当り、日の光が差し込む大きな窓のそばに人型の黒い靄が視える。
幼い頃から、ああしてたまに遭遇する。きっと思い込みが、ああいうものを視せているのだ。いつものように、そう自分に言い聞かせる。
こういうときは、ぐっと目を瞑って息を大きく吐き……すぐに踵を返す!
「おっと」
ナースステーションのほうへ勢いよく方向転換した矢先、誰かとぶつかった。
「す、すみません!」
ずれた眼鏡を直しながら顔を上げると、三十代くらいの紫がかった黒髪の男性がいる。真ん中分けの前髪の下には柔和な
グレーのワイシャツと黒のスーツパンツを着ており、首元には紫のストライプネクタイを結んでいる。
彼の白衣の胸ポケットにあるIDカード――名札を確認すると。
【霊病科 オカルトメディカルチーム部長
そう書かれていた。
(霊病科……? 霊って、まさかあの霊じゃないよね……?)
色んな科を回ったが、見たことのない医者だ。
一叶の戸惑いを察したように、京紫朗は自分の名札を指で摘まみ、整った顔で完璧な笑みを浮かべる。不覚にも鼓動が跳ねた。
「初めまして、私は松芭京紫朗といいます」
「は、はあ……私は……」
「魚住一叶さん、ですよね」
自己紹介しようと頭を下げる途中で先回りされる。腰を折ったまま目を瞬かせていると、なにもかも見透かしてしまいそうな強い瞳に見つめられた。
「優れた知性と直観力。繊細で傷つきやすく、純粋で嘘や隠し事が得意ではない。自由と解放を求めている〝水色さん〟」
「……はい?」
性格占いかなにかだろうか。完全に京紫朗のペースに呑まれていると、目の前に名札を差し出された。
【霊病科 オカルトメディカルチーム 魚住一叶】
何度読み直しても、そこに印字されているのは自分の名前だった。
「本日付けで、霊病科に配属です」
「えっ、でも私、病理科に希望を出したのですが……」
「知ってますよ」
にこやかに言われる。『ならなぜ!』と突っ込むほうがおかしいのではないか。そんな気にさせられる笑顔だ。
「ええと……」
「国家命令により、霊病医の素質を認められ、配属を言い渡された者は一年間の霊病科での勤務を義務付けられます」
「そう……なん、ですか……え? 国家命令?」
急に重たい響きがのしかかってきて、一叶は怯む。民主主義の日本では、まず聞かない単語だ。
「移動願いを出せるのは、就業義務期間である一年を超えてからです。即刻断る場合は本病院を退職し、他病院で就職をしていただくかのどちらかになります」
「え、あ……え?」
「ひとまず、今日午後一時に地下一階の霊安室の隣にある霊病科まで来てください。詳しいことは、そこでお伝えしますね」
丁寧な手つきではあるが、一叶に名札を握らせると、彼は爽やかな笑顔で去っていく。その背を見送りながら、一叶は名札を手に立ち尽くしていた。
「え……?」
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