第4話
『ガーネット探偵事務所』は、執務場所と接客場所が同じ部屋のなかにある、小さな探偵事務所です。あまり陽が差し込まない事務所なので、日中でも照明が必要です。室内にシックな雰囲気をもたらすダマスクス柄の壁には、いくつもの写真がかけられています。多くの写真に映っているのは、清潔感ある服装を身にまとった30代後半の紳士と、地味でもなく華美でもない衣装の、美しい淑女です。
部屋の奥側にある棚には、埃をかぶった本や、あまりまとめられていない書類がつまっており、そこから古いインクの匂いが発せられて、部屋全体に漂っています。
探偵クロエ・ガーネットは机の上に脚をのせ、背もたれにぐいっと小さな背中をあずけています。
クロエは事務所にいるときは、カーキ色のチェックのブラウスを着て、下にはパステルイエローのスカートを履いています。
少女は、サファイアのような青い瞳で、オイルランプの揺れる火を、ぼうっとみつめます。
少女はぼんやりと考えます。
仕事の依頼……ぜんぜんないなぁ。まだ父さんが生きてた頃……この事務所が父さんのものだったときは、依頼は、何か月も先まで予約でいっぱいだったのに……。
クロエは机の上で脚を組み、椅子をゆらゆらと揺らします。
わたし、探偵に向いてないのかしら? ほかの仕事をはじめる? いや、父さんはこの街きっての名探偵だったんだもの、わたしだって、素質があるにちがいないわ!
とはいえ、依頼人がこないんじゃなぁ……。
突如、クロエのなかにちょっとしたひらめきがあり、彼女は小さな手のひらを、ぽんと叩きます。
そうだ! 宣伝をしないのがいけないのよ! そう! 宣伝! 広告よ!
じゃあ、どこに広告をだす? 新聞の一面の広告欄? いやいや、あの部分は相当な掲載費がかかるわ。ちょっと難しいわね。
1番裏の隅っこ? あそこに広告を乗せるのは、いくらくらい掛かるんだろう?こんど、新聞社にいってきいてみなきゃ。
広告には、なんて書く? ここが一番かんじんよ! しっかり考えなきゃ!
クロエは少々気持ちが高揚しはじめ、椅子のゆれは大きくなります。きしきしとした音は次第に大きくなります。
これなんか、どう? 『名探偵アンドリュー・ガーネットの娘、クロエ・ガーネットが華麗に問題を解決してみせます!』
なんか、ぴんとこないわね。
『アンドリュー・ガーネットの血を引く才女、クロエ・ガーネットになんでもおまかせあれ!』
んー、これもなんだか、しっくりこない。
そもそも、父さんの名前を使うのって、なんか卑怯な感じよね。うんうん、父さんの名声にたよるのはよくないわ。
なにか、いい宣伝文句はないかしら……。
あ! これが、いいかも!
『この国で1番かわいい名探偵! クロエがなんでも解決!』
ひひひ、この国で1番かわいい、だって! ひひひ!
クロエはおかしくて、しかたなくなり、椅子をよりいっそう力強く揺らします。
彼女は、声をだして大笑いします。
「あはは! わたしが、国で1番かわいい、だって!あははは! 1番かわいい! 1番かわいい! あははは!」
クロエの体は、台風の日の枝のように激しくゆれ、椅子はいまにも壊れそうでした。
そのとき、事務所の扉がひらき、ドアチャイムがりんりんと鳴りました。
クロエは、突然の人の訪問にあわてます。
いけない! お客さん! こんなだらしない姿勢じゃ――
クロエは、体勢を直そうと、脚にグイっと力をいれました。それが間違いでした。
力の入った脚は伸びきり、クロエは勢いよく後ろへ倒れこみました。椅子の背もたれが、激しく床に衝突しました。もともと丈夫ではなかった背もたれは、無残にもばらばらになってしまいました。
床に倒れこんだクロエは、頭がくらくらしました。彼女は頭の中で回る星を追い払い、よわよわしく立ち上がります。
背中がぴりぴりとしました。
「痛たたた……」
クロエは立ち上がると、たったいま開かれた事務所のドアの方を見ました。
もちろん人が立っています。
少年でした。
クロエは、わずかに集中力がもどった頭でとっさに考えます。
どうして、探偵事務所に少年が?
少年が言います。
「ガーネットさんかい?」
背中の痛みと、くだけた椅子のことで少しいらいらしているクロエは、こう言います。
「そとの看板になんて書いてあった?」
少年は言います。
「ガーネット探偵事務所って書いてあったよ」
「じゃあ、わたしがガーネットね」
「そうだね」
クロエはあらためて、少年をまじまじとみます。
クロエは年齢のわりにだいぶ背が低いのですが、少年の身長はクロエとほぼ同じに見えました。
12歳くらいかしら?
少年の身なりはけして良いとはいえず、質素な茶色のベストは着古されていて痛みが目立ちます。水色のシャツは、あちこちが汚れています。
クロエは少年に言います。
「今日は学校と炭鉱の仕事にはいかないの?」
少年はおどろきの表情を浮かべます。
「どうして、ぼくが炭鉱堀だってわかったの?」
クロエは少年の手のほうにあごをしゃくります。
「その手、先端が黒くて、すこし太くて、あなたの年齢のわりには深いしわができてる。炭鉱夫の手よ」
少年は関心したように、うなずきます。
「さすがだね、ガーネットさん」
クロエは、すこし口調を変えて言います。
「それで、炭鉱堀の少年さんが、探偵事務所なんかになんの用? まさかとは思うけど、何かの依頼?」
少年は言います。
「そう、依頼さ」
こんな小さな少年の依頼? 幼稚な依頼にきまっているわ。いますぐ追い返す?
彼女は、少年の表情をまじまじとみます。なにか、とても真剣で、とても深刻な顔をしていました。
一応、話だけでも聞いてみよう。
クロエは、さきほどまでとはうって変わって、淑女らしい仕草で、部屋の中央にある接客用のソファへ手を向けます。
「まあ、そこに座ってくださいな」
少年は何も言わず、ソファに座ります。
クロエも、ソファと対面したチーク製の椅子に座ります。少年のソファとクロエの椅子の間には、上面が大理石でできた、上品なやや小さめのテーブルがあります。
「それで、あなたのお名前は?」
「ウィル。ウィル・ピーターソン」
「そう。で、ピーターソンさん、いったいどんなご依頼?」
ウィル少年は、控え目な瞳でクロエをみつめて言います。
「ウィル。ウィルって読んでください。ぼく、苗字で呼ばれるのには、慣れてないものだから」
クロエは小さくうなずきます。
「そう。で、ウィル、依頼の内容を話して」
ウィル少年の話しは、このようなものでした。
ウィル少年は、クロエの街から遠くはなれた、リトル・ハダムという村に住んでいます。
少年は、母親とふたりで暮らしていました。職業軍人だった父親は、ウィル少年が3歳のときに戦死しています。
ウィルの母親・マチルダは、4年前に天然痘にかかってしまいました。ここ最近は四肢の痛みがひどく、自分ひとりでは外をあるくこともできないほどの重症です。
ウィル少年は、毎朝、母親を乗せた車椅子を押し、散歩にでかけます。散歩のコースはほとんど決まっていました。そのなかで、ウィル少年の母親は、ある場所をとても気に入っていました。それは〝井戸の広場〟と呼ばれる、〝広場〟とは名ばかりの、小さな井戸場です。その井戸場には、1体の男性の彫像がありました。とても凛々しい顔つきをした彫像は、等身大の高さで、とても重厚感があるそうです。ウィルの母親は、毎朝、その彫像に見惚れながら、ウィルが作ったライ麦のサンドイッチを食べるのが、何よりもの楽しみでした。
ウィル少年はクロエに言います。
「たぶんね、母さんは、あの彫像に恋をしているんだ」
ウィル少年の話はつづきます。
それは、ある朝のことでした。ウィル少年はいつものように、母親が乗る車椅子を押し、朝の散歩にでかけます。いつものコースを、母親が陽の光を楽しめるよう、ゆったりと押して進みます。そして母マチルダの大のお気に入り、彫像がある井戸の広場へ到着します。
彫像は、無くなっていました。
いったいどういうことなのか、そのときは少年も母親も強い困惑につつまれました。
どうして、彫像が無くなったりするの?
とにかく、ふたりは混迷のなかで、家に帰りました。
母親はとてもショックを受けたようで、午後はろくに口もきかなかったそうです。
翌朝、母マチルダは散歩に行きたがりませんでした。
少年は、ひょっとしたら彫像がもどっているかもしれない! などという淡い期待をいだいて、井戸の広場にひとりでいきました。
彫像がもどっているわけなど、ありませんでした。
その日も、母親はろくに口をきかず、なんだかいつにもまして具合がわるそうでした。
少年は考えます。誰が、いったいなんのために、母が愛するあの彫像を持ち去ったんだろう。
しかし、そう悠長に思いを巡らせていることも出来ませんでした。ウィルの母親は毎晩のようにベッドで涙をこぼし、容態はみるみる悪化し、今ではベッドから起き上がることも、ままならないありさまでした。
ウィル少年は、ぎらぎらとした真剣なまなざしで、クロエをみつめて言います。
「ぼく、あんなに悲しそうな母さんをみていられないんだ」
クロエは言います。
「警察には行ったの?」
少年は、肩を落とし、悲し気に顔をさげます。
「警察には行ったよ。そしたらね『いまは、羊の大量脱走の始末で、彫像どころじゃない』って、相手にされなかったよ」
まあ、もどったところで、誰の利益にもならない彫像より、羊毛やお肉になる羊の群れのほうが大切よね。
などと探偵の少女は思います。
ウィル少年は再び顔をあげ、大きく開かれた栗色の瞳でクロエをみつめ、熱のこもった口調で言います。
「ガーネットさん、誰があの彫像を持ち去ったのかをつきとめて、彫像を取り戻しておくれよ!」
まず、大事なことをクロエはたずねます。
「彫像がなくなったことに気づいたのは、何日?」
「8日だよ」
クロエは考えます。
……4月8日の朝……。つまり、彫像が持ち去られたのは、4月7日、ちょうど聖金曜日の夕方から深夜。今日は4月16日。この1週間ちかくの間に、雨が1〜2度降ってる。
足跡や、微細な手がかりは、もう雨水に流し落とされてるわね。
それでも、クロエは、調査はできなくはない、と思いました。
少女は腕を組んで、じっくりと考え込みます。
クロエがテーブルの上の白い大理石を睨みながら、思考に意識を集中させているあいだ、ウィル少年は身動きひとつせず、探偵が口を開くのをただただ待っていました。
長い間があったあと、クロエが言いました。
「わかったわ。あなた、お金がなさそうだから、この事務所の最低料金で引き受けるわ。前金で3ポンド、あなたが納得のいくかたちで調査が解決したら、もう3ポンド。どうする?」
少年は、ぐっと身を引き、なんだか落ち着かない顔つきになりました。
ウィル少年は言います。
「そ……その、ぼくは今日、有り金を全部もってきたんだけど……」
「もってきたんだけど?」
ウィル少年は恥ずかしそうに言います。
「僕が払えるのは、全部で1ポンドだけだよ……」
クロエは呆れたように顔をあげます。
「わるいけど、それじゃ依頼は受けられない。ごめんなさいね」
ウィル少年は身を乗り出します。
「どうしても、だめかい?」
クロエはウィル少年の目をみつめ、少しきつい口調でいいます。
「こういう商売はね、一度、規定の金額より安い値段で引き受けると、次に来たお客も、また規定額より低い値段をふっかけてくるものなの。だから、うちの最低額、合計6ポンド以下で引き受けることはできないのよ。わかってちょうだい」
少年は傷を負った子ヤギのように力弱く立ち上がりました。
「わかったよ、大切な時間を無駄にしてごめんなさい……」
ウィルはそういうと、薄汚れたベストのポケットから、紙きれを取り出し、それをテーブルの上に置きました。
「これ、ぼくのうちの住所だよ。もし……もし、気がかわったら、電報を送っておくれよ」
クロエは紙きれを手に取ることもせず、口をひらくこともしませんでした。
「それじゃ、ガーネットさん、おじゃましたね」
少年はそういうと、道端を転がる新聞紙よりも力なく、ガーネット探偵事務所から出ていきました。
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