返事

 あの幻想的な夜を終えてからも、私の日常は続いている。


 朝から霧のテラスを走り、稽古をして午後二時にキリヤ君の店に行ってなんとなくぎこちないまま過ごし、合気道教室の指導をする。


 私は深く息をついてから道場に上がり、りっくんやなっちゃんたち小学生を出迎えた。


「志乃ちゃん、今日もあれやろう!」

「ええよ」


 私はりっくんのリクエストに応えて道場の真ん中で正座して目を瞑った。子どもたちが気に入っている誰が掴んだでしょうクイズだ。


「志乃ちゃんが間違わないから、ズルしてるんじゃないかって皆で相談したんだ」


 りっくんが自慢げに鼻を鳴らして私の前でふんぞり返る。


 小学生部では古株のりっくんの発案に皆が乗ったのだろう。私に勝とうとする心意気は大いに買う。武闘家たるもの負ける気で挑むことはない。


「勝てない原因を探すのはええことやな」

「だから、今日はなっちゃんが志乃ちゃんの目を塞ぐから!」

「志乃ちゃんの目、かくしまーす」


 私はなっちゃんのふわふわお手てで目を隠されてくすぐったかった。りっくんが意気込む。


「いくよ、志乃ちゃん!」

「おいで」


 静かに目を閉じて座る。いつもなら子どもたちの間で誰が掴むかと、相談する声が聞こえる。だが、今日は静かだ。その声が私にヒントを与えることに気がついたようだ。


 私の手首をそっと誰かの小さな手が握った。


 今まで固かった手首の力がすっと抜けている。でもやや上めの握り。こんなに上手に握れるのは、一人だ。


「上手になったわ。りっくん」

「何でわかったの!教えてよ志乃ちゃん!」

「考えるのも、稽古やで」


 子どもたちは今日も首を捻っていた。

 稽古が終わってお迎えの時間になり、キリヤ君がなっちゃんを迎えに来た。


 二人の背を見送ってから、私は道場の鏡の前で両頬を叩いた。気を抜くとついあのランタンを思い出してしまりのない顔になってしまう。


 父である師範は私の変化に誰より敏感で、柔らかいなと言って何年振りかもわからない微笑みをくれた。


「あ、母さーん!」


 迎えを待っていたりっくんが美月さんを見つけて、道場の玄関に飛び出す。


「あれ?今日、想太さんのお迎えの日じゃなかった?」


 私が問うと美月さんがくすくす笑った。


「想太さん、有希ちゃんが一緒に飲もうって言うのを断って、お説教されちゃってるの」

「有希さん来てるんや」

「母さん、早く帰ろう。有希ちゃんに会いたい!」

「そうね、早く帰らないと想太さん泣いちゃうわ」


 有希さんは美月さんの古い友人で一年に一度程度、三軒長屋に遊びに来る。


 有希さんは私にも気さくな人だが貫禄があり、想太さんに特に厳しい。有希さんが来ている間、想太さんは有希さんの許可なく家に帰ることができない。


 きっと今も美月さんの家で、早く美月さんに告白しろと懇々と説かれているだろう。美月さんが私の耳元で囁いた。


「志乃ちゃん、明日、有希ちゃんが化け暮らしの休憩処に行くからよろしくね」

「え……え?!まさか!」


 美月さんがばちっと美しいウインクをするので、私はようやく察した。


 有希さんに化け暮らしの休憩処を紹介したということは、有希さんは化け暮らしなのだ。なぜ今まで気がつかなかったのか。


 自分の察しの悪さに、うんざりしてしまった。


 翌日、いつもの午後二時に休憩処を訪ねた。私は檜のカウンターのど真ん中スツールに座り、はぁと息をつく。今日の休憩処はバニラエッセンスとチーズの香り。


「そもそも美月さんは有希さんを頼って、亀岡に引っ越して来たんや。有希さんも化け暮らしやて、もっと早く気がつくべきやった。ものすごい情報源やのに」

「どうして有希さんが情報源ってわかるの?」


 キッチンに立つキリヤ君はパンケーキ生地を混ぜながら、きょとんと首を傾げた。


「有希さんは、亀岡市の警察署長さんやから」

「警察署長?権力者ってことか」

「有希さんは臣くんの事件のとき、現場の責任者やった。死に物狂いで臣くんを探してくれたて、美月さん言うてたわ」


 十年がたち、有希さんはその有能さと誰にもひるまない貫禄を備えて堂々の亀岡市警察署長に就任した。聞くところによると、有希さんのバックには大きな力があるという噂もある。


「有希さんは怖いで。注意しいやキリヤ君」

「志乃ちゃんは知らないだろうけど、怒ったおとさんほど怖いものはないから。俺は大丈夫」

「おとさんそんな怖いん?」


 キリヤ君がにっと笑いながら黒くて小さなフライパン、スキレットを火にかけて炙り、バターを溶かし始めた。


「有希さんに会うの緊張するわ……」

「俺もいるから、一緒にがんばろ」


 キリヤ君が笑って、バターとバニラの甘い香りがすると、大丈夫な気がしてくる。私はすっかりキリヤ君に頼っているようだ。


 バニラの香りで胸を満たして、気持ちを落ち着ける。


 有希さんが来る前に、キリヤ君に話しておきたいことがあった。ランタンの夜から私たちはなんとなくあの話題を避けて、普段通りを装うように化けて顔を突き合わせている。


 でもやはり、化け暮らしの休憩処でそういうのは良くない。


「なあ……キリヤ君」


 キリヤ君がちょうどスキレットに生地を流し込んで、甘い香りがぶわっと店を満たす。


「あ、待って言わないで、俺聞く準備ない」


 私が改まったことをキリヤ君はすぐに察してしまう。キリヤ君が先手を打ちがちなので、私はあえて止まらなかった。


「返事させて」


 この頑固者十年で通って来た私を止められると思っている方がどうかしている。キリヤ君は慌ててスキレットをオーブンに入れて、振り向いた。


「待ってって!」


 声を張ったキリヤ君は顔の前で手を振ったが、私は口を噤まなかった。


「臣くんは私に告白してくれた日に消えてしもた。臣くんに返事してへんこと、後悔してきたんや。だから、キリヤ君には返事したい」


 キリヤ君の喉仏が上下に動いて、私も同じように唾を飲んだ。頑なだった私なら、臣くんが見つかるまで誰から好意を向けられようと拒否した。


 でも私は、柔らかくありたい。


「私これからも……キリヤ君と毎日一緒に、パンケーキ食べたい」


 予想外だったらしい私の返事に、キリヤ君の唇が薄く開いた。


「そんなこと一緒にしたい人、他におらん」


 なぜかぐっと込み上げるものに鼻がつんとして、零れそうになるのを堪える。


「これが私の精一杯の返事なんやけど……あかんかな」


 泣くつもりなんてなかったのに、溢れそうだった。パンケーキがふくふく膨らむオーブンの前でキリヤ君が口を開きかけたとき、がらりと扉が開いた。


「邪魔するで!」


 ぴりっとした大声で挨拶した有希さんに、私はぱっと立ち上がる。涙は拭いたが火照った顔は戻らなかったかもしれない。

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