第2話 加納口の初陣
稲葉山城内で、斎藤方の軍議が行われた。一人の部将が敵状を報告する。
「織田勢は辺りに火を放ちながらこの稲葉山城を目指しているようです」
「おのれ、九月にもなって火を放つとは……!」
「今年の米の収穫は望めませぬな」
美濃ではだいたい九月末に収穫を行う。ところが今年は織田軍の侵攻を受けて、収穫は困難な状況になってしまうと聞き、諸将は怒りに震えた。
「わめくな」
利政が一喝した。
「織田がこのような汚い手を使おうが、我らは敵を叩くのみじゃ。織田に報いを受けさせようぞ」
「おおっ!」
稲葉山城下は着々と、籠城して敵を迎え撃つための備えが出来上がってきている。
「織田勢は一万を超える。備えを怠るでないぞ!」
利政の長男・高政がときおり声を張り上げているのを聞きながら、光秀も作業をする。家々を打ちこわして陣屋を組み、藁葺きの屋根をかぶせ目立たなくした。
織田勢は明日、ここに到着するようだと聞いた。
斎藤利政の作戦は「城下に伏兵を潜ませておき、稲葉山の麓まで敵をおびき寄せたときに一挙に城門を開いて打って出、伏兵とともに敵を一網打尽にする」というものである。光秀は伏兵として城下に潜伏せねばならない。そのための陣屋を作っている。
「十兵衛」
高政に呼びかけられた。
「いよいよ初陣だな。準備はできたか」
「無論、この通りいつ始まっても良い状態になっています。」
「ふっ。そうではない、お主の気持ちがどうかだ。覚悟はできたのか」
そう言われて光秀ははっとした。確かに、光秀にはまだ、これから人を殺す、という意識が薄かったかもしれない。しかし、毎度々々高政にやり込められるのも腹の虫がおさまらないので
「高政様も私と同じではありませぬか。高政様とて初陣は変わりますまい。」
と言ってみた。ところが、高政は大笑いで笑い飛ばす。
「はっはっは。俺はかねてから初陣を飾る相手は織田が良いと思っていたからな、高揚しているわ。じゃ、覚悟しておけよ。明日には始まるからな」
(明日か……。)
日が暮れた。家々には人はいない。あたりは完全に闇と化している。
「叔父上」
光秀は隣にいる叔父・光安に声を掛けた。
「叔父上は初陣のとき、何を思いましたか」
「わしか? そうだな……わしはよく覚えておらぬよ。ただあの時は、兄上が、そなたの父君がおられたからのう、兄上にひたすらついていった……」
父・光綱。記憶にほとんどない父親。そんな父は初陣で戦えたのだろうか。敵とはいえ、戦場とはいえ、人を殺すことが果たしてできたのだろうか。
「十兵衛、手柄を立てる必要などない。気負わずついて参れ」
「はい」
「そなたの父君には散々助けられた。今度はわしがそなたを支える番じゃ」
光秀は黙って聞いていた。
※ ※ ※
その頃、無数の松明の明かりが城へ近づいていた。
「弾正左衛門様の手勢、大手門前に着陣!」
(着いたか。)
前方に月明かりに照らされた山影が見える。長年にわたり自分を苦しめ続けてきた憎き斎藤利政があの上にいるのだ。
三年程前にも美濃へ攻め込んだが、味方の不和などで思うように戦えず、撤退せざるを得なかった。
(今度こそ負けるわけにはいかぬ。)
自分には二万もの兵がある。明日、全軍で攻め込んで首を取ろう。
(待っておれ利政……!)
織田信秀は強い決意で稲葉山城を睨みつけた。
※ ※ ※
稲葉山の頂上からは城下町を一望することができる。斎藤利政はいつも通り街を見下ろそうとした。しかし、今日は風景が違った。
(来おったか……信秀。)
織田の大軍が眼下にひしめいている。どうやら昨晩到着したようだ。その数は明らかに報告以上であり、流石の利政も身震いを抑えられなかった。
「……信秀め、かなり本気なようだな。今すぐ皆に配置につくよう伝えよ!」
「はっ!」
※ ※ ※
陣法螺がなった。
『ブォォォォォォォォォ』
光秀は陣屋に潜んで開戦の合図を聞いた。
続いて喊声が上がった。織田勢のものである。 蹄の音もする。すると、近くで刀で斬りあう音が響いた。
ついに戦闘が始まったのだ。光秀は陣屋の壁の隙間から外をのぞいた。目の前で斬り合いが行われている。だが、続々と増える織田方に対し、味方は減っていく一方に見えた。
(まずい……助けなければ……。)
光秀が刀に手をかけ、今にも陣屋の戸を開けようとしたそのとき、肩をがっしりとつかまれた。光安だ。光秀が考えていることを察したようだった。
「そなたが行っても意味はない」
「ですが―」
「良いか十兵衛、これも策の内だ。ここで初陣のそなたが出て行っても状況は変わらぬ。いや、むしろ悪くなる」
「そのようなこと、やってみるまで分からぬではありませぬか!」
「……ここでそなたが出ていけば、我らが城下に潜んでいることが敵に知られてしまう。そうなれば、我らだけでなく、味方全兵が窮地に立たされるのじゃ」
「……。」
「心苦しいが、あの味方数人は見殺しにするしかあるまい、それで全体が救われるのじゃからな」
叔父の言うことが正しいとわかる光秀には、味方がやられていく様を凝視することしかできなかった。
(すまぬ……。)
城下町のいたるところで、斎藤方の小隊が織田方の大軍に呑まれていく。それでも、家屋という障害物を利用して何度も強襲を仕掛けるので、織田方の進みを遅らせる。徐々に稲葉山城の城門に近づいているが、もはや午後を迎えていた。小隊の奮戦は大いに時間を稼いだのだ。
(信秀よ……、さぞ腹立たしいであろう。)
利政は山頂から、どんな些細な動きも見落とさんと常に城下を見ている。
※ ※ ※
「何をやっておる! 稲葉山どころか麓の城門まですらたどり着けておらぬではないか!」
「申し訳ございませぬ。敵の抵抗が思いの外強うございまして」
「とっととひねりつぶせぃ!」
五倍もの兵力差があるにも関わらず、これほどまでにてこずるとは……。信秀は味方に軽い失望を感じながら招集をかけた。軍議のためである。
「さすがは斎藤利政、こちらの想像よりもはるかに強い。したがって、どのように攻めるか、皆の意見を聞きたい」
そう言って周りを見渡す。が、誰も案がないようだ。仕方ないので解散しようとすると、信秀の弟・織田信康が口を開いた。
「てこずっている原因は我が方にもあります」
「ほう? どういうことかな、信康」
「兄上、我らは尾張から十日も行軍を続けて参りました。それゆえ、休みなしで戦っている兵たちは疲れ切っております。ここはひとまず、まだ明るいですが、一度引き上げて明日総攻撃を仕掛けるのが良いかと」
信康の提案に家老・青山信昌も同調した。
「いかにも、それが良うございましょう。退却の指示は私が出します」
信秀も良い思案だと思った。二万もの軍勢がいるのだ。焦る必要はないだろう。明日になっても、利政に駆けつける援軍など高が知れている。
「分かった。与三右衛門に任せる」
「はっ!」
青山が城下に向かい、退却の指揮を執り始める。
そして、利政はこの些細な動きに気づいた。
(馬鹿め……動きおったぞ)
「太鼓を打て! 全軍に合図じゃ!」
ドン、ドン、ドン、ドン―
「叔父上、合図が下っています!」
光秀は太鼓の音を聞くと光安に言った。
「うむ。十兵衛、わしから離れるなよ。……皆の衆、これより討って出る。参るぞ!」
「オオッ!」
陣屋の戸を開く。すると、その前には後退しつつも混乱している織田勢の姿があった。
光秀たちが襲い掛かる。周りを見ると、あちこちで味方・斎藤勢が織田勢に奇襲を仕掛けていた。
『ブォオオオオオオオオオ』
新たに陣法螺がなった。
「叔父上!」
乱闘で声がかき消されないよう、大声で叫ぶ。
「何の合図でございますか、これは!」
「御城におられる利政様、高政様のご出陣じゃ! ここで一気に敵を討つ!」
稲葉山城の城門が開いた音が光秀の耳にも聞こえた。
織田勢は光秀ら潜伏部隊の奇襲ですでに崩れかかっている。利政はその崩れをさらに大きいものにしようとしているのだろう。今までにないほどの大喊声が辺りに響いた。
「放てぃ!」
空を覆うような数の矢の雨が織田勢の頭上に降り注ぐ。城下町へ突入していた織田勢に、もはや退路は無かった。
(自分に人が殺せるか……)
光秀は叔父の後ろにつきながら、そう考えている。息が詰まりそうだ、空気が悪い。
「十兵衛!」
不意に光安に呼ばれた。
「斬れぬなら矢を放て! そなたは射るのも得意であろう!」
射殺す。それも同じだ、斬るのと何も変わらない。だが迷う暇は無かった。敵も必死の形相で戦い続けている。迷ったほうが死ぬ、それが戦場なのだ。光秀は覚悟した。背中に背負っている矢を弓につがえると、手前の織田兵に狙いを定める。
「御免!!」
矢が光秀の弓から離れ、真っ直ぐ的に向かって飛んでいった。
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