炎の道―戦国英雄譚・明智光秀
芋久邇
第1話 船出
享禄元(1528)年。
明智家中は生まれた子が男児であることがわかり、歓喜した。
「お世継ぎ様だ!」
と。
※ ※ ※
美濃国明智城――
「十兵衛様! そのように頻繫に遠出されては困ります。」
「なに、心配いらぬ。民の生活を見るのは領主たるものの務めであろう。」
家臣の制止にそう答えると、明智十兵衛光秀は馬に乗って駆けだした。
光秀は幼い頃から外で駆けるのが好きだ。だから、成長した今もそれが日課となっている。
最近は駆けながら父のことを考える。父・光綱は今から十二年前、光秀が七歳の頃に没していた。それからは叔父・光安の後見を受けてきたが、近々は父親がどのような人物であったのか気になるのである。
(父上に負けぬ武将となりたいが…どうすればよいのだ。)
そして、わからなくなったときはこうして馬を走らせていた。
――明智家は美濃国の守護・土岐氏の一族である。光綱は初め守護の土岐氏に仕えたが、徐々に実権をわがものにしつつあった斎藤利政に従い、利政の美濃掌握に貢献した。土岐氏当主・土岐頼芸を隠居に追い込んだため、今も美濃は利政のものとなっている。また、光秀の叔母が利政の正室なので明智家との結びつきは極めて強かった。
明智荘は明智氏が代々治めてきた地だったが、とりわけ豊かなわけでもない。一応安定しているし、その分領民も活気がある村というくらいだ。もっとも、最近は日本各地で大乱が起きて土地は荒れ放題だというが、この村の中にいるとそんなことも忘れてしまう。
「十兵衛様!」
「おお、伝五郎か! 近頃はどうだ、困るものはないか。」
「いえいえ、百姓で十兵衛様の治世をとやかく言う者はおりませぬ。先代の光綱様に続いて十兵衛様まで名君の器、日ノ本に我らほど恵まれている百姓はいないと皆申していますよ。」
藤田伝五郎はこの辺り一帯を取り仕切っている豪農で、光綱の代から明智家につかえている。伝五郎の言葉をもどかしく思いながら、光秀は尋ねた。
「父上は何をしていたのだ。私はそれを知らぬ故、母上にも訊いたりしたのだが…」
「教えてくださいませぬか。」
「うむ。自分で考えて自分なりに精一杯生きよとだけじゃ。」
そう言うと、伝五郎は笑って
「ではそれが答えなのではありませぬか? しかし、十兵衛様が自分をどう思っていらっしゃるかはわかりかねますが、我ら領民は満足しておりまするよ。」
と、いかにも楽しげに言った。
伝五郎の最近の話を聞きながら、ゆっくり駒を進める。しばらくすると、後ろから一騎、追いかけてくるのが見えた。
「お、これまたお優しい方が来られましたな。」
伝五郎が嬉しそうにそう評した者は、明智|岩千代。光秀の従弟にあたる。岩千代は幼い頃から、八歳年上の光秀に心酔しており、常に光秀の側に仕えていた。そのような岩千代を面白がって、光秀は密かに行方をくらませたりもする。今日はまさにそうして城から出てきたので、岩千代は必死に探しに来たのである。
「おう、岩千代。見つかったか」
「十兵衛様は意地がお悪い。なぜ某から逃げるのですか。」
「いやいや、お主の反応が面白くてな。」
仲の良いこの一族を、伝五郎は心の底から敬っている。このときも、二人の絡みを微笑ましく思った。
「さて、私はここらで。」
「む、そうだな。随分遠くまで付いて来させてしまった。」
「いえいえ、私が好きで付いてきたのです。では、これからもよろしゅうお願いいたします」
「あ、少し待て。最後に訊きたい。」
「何でしょう。」
「父上はどのような人だったのだ?」
これ問いはもう何度も尋ねた。しかし、伝五郎は面倒くさがりもせず、毎度真剣に答えてくれるので、今日もまた訊いたのだ。
「そうですなぁ。とにかく優しいお方でした。」
「それは以前も言っていたな。他には?」
「うーむ。領民皆に愛されておられましたぞ、十兵衛様と同じく。」
「それも聞いた。」
「でしたら――」
と、伝五郎は笑って続けた。
「もうお伝えすることはございません。それに、十兵衛様は十兵衛様のやり方で良いのです。」
「……」
「あ、差し出がましい事を申しましたな。では、このあたりでご無礼を。」
「……うむ。達者でな。」
伝五郎は帰っていった。光秀は岩千代ともやもやする思いを抱えながら城へ帰った。
「十兵衛、どこに行っておったのじゃ! 探したではないか。」
帰るなり叔父・光安の声が飛んできた。心底焦ったような顔でいる。光秀もすぐに、何かある、と感じた。
「申し訳ございませぬ。民の暮らしを見回って参りました。何か御用でもございましたか。」
「ああ、御城で狼煙のろしが上がった。」
「御城で⁉」
「そうじゃ。急ぎ登城せよと御屋形様より緊急招集だ。十兵衛も参ったほうが良かろう。」
御屋形様と呼ばれる斎藤利政が自らの居城に緊急招集をかけたということは、何事かが起きたのだ。
光秀は何度か利政に謁見したことがある。家臣からの人気が無いと聞いていたが、
「くれぐれも粗相のないようにな。」
光秀は叔父とともに馬に乗って利政の居城・稲葉山に向かった。その様子を寂しそうに見送った岩千代は、いつも留守番である。
稲葉山城下はかなり混雑していた。荷車を引き、どこかへ逃げ出そうとする者もいる。人々の隙間をすり抜けるようにして城門までたどり着くと、馬から降りて本丸に進んだ。
稲葉山の山頂にある本丸まで登るにはかなりの時間がかかる。しかし本丸まで行かずとも、状況はなんとなく把握できた。城内と城下で人馬の行き来が多いのである。
(戦か。)
光秀がそう考えたとき、前から下城してくる者に声をかけられた。
「やっと来たか十兵衛。」
はっとして顔を上げると、利政の長男・高政が立っていた。光秀の義理の従兄弟にあたり、幼馴染といってよいほどの仲である。
「あっ、高政様でしたか。遅れて参じましたこと、誠に申し訳のうござります。」
「よいわ。どうせ馬でも走らせていて気付かなかったんだろう? お、図星か?」
高政に言い当てられて苦笑しながら、光秀は尋ねた。
「この人馬の数、ただごとではありますまい。戦ですか。」
「さすがだな、その通りよ。いよいよ、俺達の初陣だな。」
「初陣……。私には早すぎます。」
「そんなことはないだろう。俺は十八、お主は十九。むしろ遅いくらいだ。」
「勝てるのでしょうか。」
「それは当たり前だろう。……まあ、詳しいことは親父から聞いてくれ。俺も急いでいるからな。」
そう言って立ち去った背中を見届けて、光秀は追いついてきた光安と共に、さらに上を目指した。
山頂にはたくさんの武士がすでに待機し、盛んに刀の手入れなどを行っている。その前を通って利政の館へ入った。
「
「御屋形様の招集に遅れる大失態、お許しくださいませ。」
兵庫頭と呼ばれた光安が弁明の言葉を述べると、
「なに、十兵衛の駆け癖であろう。違うか十兵衛。」
と、高政と同じことを言った。
「はっ、面目次第もござりませぬ。」
「左様であろう。まあ気にすることはない。」
利政はいったん言葉を切り、こちらを見た。表情が変わったのに気づいて光秀も緊張したが、そのまま続けた。
「実は織田の兵がこの美濃に入ってきおった。」
「なんと……!」
「しかし、わしの手勢の大半はこの城下におらぬ。織田軍は一万近いようだが、我らのうちすぐに動けるのはせいぜい四千。このままでは危ういのじゃ。」
織田信秀という
「一万対四千……。」
「十兵衛には厳しい初陣となろうが、気張って欲しい。明智の郎党を引き連れて速やかに
「承知つかまつりました。」
「それと、十兵衛。」
「はっ。」
名を呼ばれてもう一度深く頭を下げる。
「お主、鉄砲という物を知っておるか?」
「鉄砲、ですか。」
不可解な問いだと思いつつ、光秀は答えた。
「存じ上げませぬ。」
第一、光秀はまだ美濃の外に出たことがない。美濃の国主である利政が何か教えてくれなければ、光秀が知っているはずがなかった。なぜそのようなわかりきったことを訊くのか。
「そうであろうな。」
利政も当たり前だとばかりにうなずいた。それでもまだこちらを見ている。光秀はその鉄砲について尋ねてみた。
「その鉄砲、とやらは何なのですか?」
「飛び道具だというが、詳しいことはわからぬ。どうも数年前に南蛮から渡ってきたらしい。凄まじい轟音と共に鉛玉が飛び出すとか。」
「そのような武器が、南蛮にはあるのですか……。」
隣にいる光安が、「信じられない」というように、ため息まじりに言った。光秀とて同様で、暫くの間言葉を失った。利政はその反応に満足したようだったが、すぐに姿勢を正して
「……十兵衛、この戦が終わったら鉄砲という物を探して参れ。」
と言うから、光秀は耳を疑った。今、織田の大軍が攻めてきて斎藤家存亡がかかっているときに、利政は勝利を確信したような言い方だ。
(御屋形様は負けることは考えておらぬようだな。)
「とはいえ、今は織田との戦をどうするかが重要だ。兵庫頭、十兵衛、心してかかるがよい。」
「ははあ!」
光秀と光安はその場を辞した。
※ ※ ※
城下はさらに騒がしくなっていた。街のあちこちに敵を阻むための柵や櫓が組まれ、民は城内に避難を始める。光秀は明智城の郎党たちを引き連れて稲葉山城に再び入城した。
光秀の初陣が近づいている。
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