誰かが願ったありきたりな幸せ

くくり

誰かが願ったありきたりな結末

 本当によくある話なんですの。

 どうしても東京で就職したくて、何十社と受けて就職したのがブラック企業。中肉中背、器用貧乏、要領の悪さと三拍子揃ったOLでした。毎日サービス残業しておりました……今になって思えば、さっさと転職すればいいだけの話だったのですけど。そんなある日の深夜、睡眠疲労限界突破しながら帰宅中に交差点を歩いていたら、白い乗用車にはねられてしまいましたの。そうして気が付いたら、唯一の趣味で毎月課金までしていた恋愛スマホゲームの悪女役に転生していたって話なんですのよ。

 このままいくと、私は幼少期に幼馴染であるメインヒーローのせいで一生残る傷を負い、その責任をとった彼と婚約、色々あってヒロインを殺そうとしたことで断罪を受けるようです。詳細に思い出せなくて、ふわふわしすぎてどうすれば良いのか分かりませんの。ですが、よくある話でしたでしょう?天気が良いですね、くらいよくある話です。多分、果物と同じで裏年と当たり年があるみたいに、近年稀にみる異世界転生が豊作の年なんですよ。

 記憶が曖昧な理由はなんなのか、一応自分でも考えたことはあるんですよ?おそらくですが、思い出したのが三歳くらいでしたので、記憶力のせいで上記のこと以外はっきりとは覚えておけなかったんだと思います。それに関わる一番の理由もありまして、今世と前世の最大の決定的な違いでもあるのですが…今世は魔法を使って生活しているということです。

 頭と体の使い方が根本から違うものですから……前世にこだわっていたら気が狂っていたかもしれません。さらに身分が由緒正しい伯爵家のご令嬢でしたので、今生きていくうえで覚えることが山ほどあり過ぎましたの。そこそこ裕福な高位貴族の令嬢には、なんの役にも立ってくれない前世の知識なんて後回しになりました。それに、PCも無いのに様式にこだわった書類が作れるわけがありませんし、食に興味が無かったからコンビニ弁当ばかりで舌が肥えているわけでもない人生でした。特別生かせる知識もこだわりもなかったのも大きかったです。


 先月やっと十歳の誕生日を迎えましたが、もう前世の名前も自分の顔も思い出せません。前世の私と今世の私で二重人格になるようなこともなく、前世の受け身で大人しい性格が今世のお転婆で我儘な性格に溶け込んでちょうどいい塩梅になったと思います。


「リリー、やっと大人しく魔法陣の中で待てるようになって…!母様は嬉しいです」


「僕はお転婆なリリーも好きだったんだけどね」


 概ね家族からも好評です。

 今日はお隣の領地の侯爵夫人に呼ばれて、お母様と二歳年上のお兄様の三人で侯爵様のお屋敷へ遊びに出かけております。この世界の正装は黒いローブにとんがり帽子というわけではなく、華やかなドレスと洗練されたスーツが主流です。今日の私は、自分のブルネットに映える淡い黄色のAラインのデイドレスとお気に入りのリボンで髪を編み込んでおります。

 移動手段に触れておきますと、普通の貴族なら空飛ぶ馬車で平民なら翅の生えた靴で移動するのですが、私の生まれたブルーム伯爵家は代々受け継がれている血統固有魔法であるテレポーテーションが使えますの。だから、馬車は所有しておりません。

 生業としましては、豊富に採れる複数の薬草(魔法薬の原材料)とテレポーテーション(紙に移した魔法陣に一度限りの使い切り)を販売しながら生計を立てています。しかし、このテレポーテーションが難しくって難しくって、最近やっと使いなれてきたところなんですの。

 高位貴族になればなるほど、屋敷全体に強力で複雑な生活魔法や結界がかけられていますので、召使いを雇う必要がありません。その代わり貴族が雇うのは優秀な魔法使いや魔法騎士です。逆に言えば、貴族で護衛騎士や魔法使い以外の日常生活のための召使いを雇っていると、どうしても格が下に見られてしまいます。高位貴族の中には、そういった家を馬鹿にする輩も一定数いるのは世の常なのかもしれません。

 我が家も魔法使いを数名、有事(ワイバーンの群れ襲来とか)の際の召集に応えてもらうために契約を結んでおります。月に一度隣の領地(今向かっている侯爵領)で実地訓練を行うくらいで、それ以外で呼びつけることは特にありません。


 ブルーム伯爵領の南に隣接しているガーネット侯爵領は、魔物が王国内でもとても多く住み着いていることで有名です。昼夜問わず人を襲う恐ろしい魔物たちは、死ぬと体が結晶化し魔石となります。魔石は我々の日常生活のあらゆる道具の動力源として活用されますので、毎月十数体討伐している侯爵家はブルーム伯爵家とは比べ物にならないくらいのお金持ちであり、王家からの覚えもめでたかったのです。そんな毎日忙しい侯爵様たちを、お隣のよしみで我々伯爵家も契約している魔法使いたちとともにお手伝いをしているわけです。(これが月一の訓練を兼ねております)

 ちなみに平民は、貴族に比べると魔力量が少ないので、貴族が使える魔法の半分しか使える魔法がありません。ですから、魔法薬や魔道具、日用品を作ったりと技術職につく方が多いですわ。下手な貴族より重宝されますから、血統主義の頭の固い老貴族くらいしか馬鹿にする者はおりません。平民のなかにも、数百人に一人くらい貴族と肩を並べられるくらいの魔力をお持ちの方がいらっしゃいますが、そういった方は一代限りの男爵爵位を賜った後にお医者様になられることが多いようです。


 そんなことを考えておりましたら、あっという間に侯爵家の門へ着きました。兄様のテレポーテーションは、とても丁寧に魔力が編み込まれているので、軸のズレも移動の際の振動もありません。私も早く兄様に追いつけるように頑張りたいと思います。


「いらっしゃいませ皆様。今月のお茶会も楽しみにお待ちしておりました!」


「いらっしゃいませ!」


 そう笑う薔薇のように艶やかな金髪美女がシャロン・ガーネット侯爵夫人で、その隣でまた可憐な百合のように微笑む金髪美少年ルイス・ガーネット侯爵令息が、私たちブルーム伯爵兄妹の幼馴染であります。

 何を隠そうメイン主人公です。

 前世のどうしても忘れられなかった綿菓子のような記憶は、彼と毎月会うことで脳内に留まっていたように思います。

 ガーネット侯爵領の跡取り息子である彼は、優しい侯爵夫妻に大事に育てられており、気立ての良いとても優しい男の子でした。領地が隣り合っているのもありますが、元々父が侯爵様と魔法騎士学校の同級生で友人だったこともあり、私たちは家族ぐるみで交流を盛んに持っております。

 侯爵様の立派なお屋敷の自慢のローズガーデンは、魔法で春の季節を閉じ込められておりまして、年中様々な薔薇が咲き誇り、色とりどりの蝶が舞っております。毎月この庭で開かれるお茶会が私たちブルーム伯爵家も大好きで、何よりそれが侯爵家がみんな無事に過ごせていると安心させてくれるものでした。

 お互い生まれる前から交流しておりますので特に緊張する間柄でもありませんが、今日の私は前日に夜更かしをしてしまい少し疲れておりました。それに気が付いていたお母様につい先ほどお叱りを受け、眠気覚ましに渡されたスパークリングの利いた林檎ジュースをちまちまと口に含んでは、ため息を吐きそうになるのを堪えております。


「リリー?リリーアンジュ?今日は、なんだか元気がないね?」


「どうして、そう思いますの?」


「いつもはどこで息をしているのか分からないくらい、おしゃべりするから」


「ルー様って、たまに意地悪ですわ…。私が夜更かししたのも、ルー様がお貸しくださった本を読んでいたからですのに」


「そんなに面白かったの?僕のお気に入りだから、なんだか嬉しいなぁ」


 くすくす笑いながら私と同じものを飲むまだ幼い少年は、輝く金髪に真っ赤に輝く瞳がとても美しい容貌をしております。手足もスラリと長く、侯爵様の息子らしく魔法剣の扱いにも長けておりました。

 ルー様ことルイス様も侯爵様と同じ高等攻撃魔法(リバース)を得意としておりました。この魔法は相手の攻撃をそのまま相手に返すという非常に便利なものでして、私と彼が鬼ごっこをすると延々と決着がつきません。私がテレポーテーションで彼の背中を捉えても、私のテレポーテーションを彼が返すのです。ちなみに物にも有効ですので、私が彼の部屋に直接返した本にリバースをかけて、そのまま本にくっついて私の部屋に続編を持って飛んでくるなんてこともありました。

 そんなお茶目な一面もあるルー様ですが、とても優秀でしたので次代の侯爵家も安泰だと王国中が囁いております。それにこの美貌と思慮深さ、穏やかな性格から齢十歳にも関わらず、すでに縁談が後を絶たないそうなのです。ワガママお転婆姫と笑われている私とは、やはり格が違います。

 そんな私も、ルー様に憧れ恋をする女の子の一人でありました。


「お疲れのリリーのために、僕が林檎ジュースを手ずからサーブしてあげる」


「ルー様は、私にだけたまに嫌味だわ!」


「怒らないでよ、かわいいなぁ」


「本当に意地悪ですわ」


「鈍いなぁ、リリーは。ねぇ、怒らないで聞いてよ。僕ね、リリーにお願いがあるんだ」


「もう…!林檎ジュースを飲んだあとなら、聞いてあげますわ」


 そんな和やかな時間を皆が楽しんでいた時です。

 今まで私たちの歓談を邪魔しないよう花を愛でるか、頭の上で瞬くしかしていなかった蝶に気が向きました。何気なく視界に映り込んだ一匹の蝶が、突然ふわりふわりとルー様の背に向かって飛んでいきます。その時点で、ふわりふわりと音もなく、蝶の瞬きとともにルー様にかけられた防御魔法をこれまた音もなく次々に破壊していました。


(あぁ……きっと、私はこの日のために前世を思い出したのだわ)


 その蝶がルー様の首を見据えるように一度ぴたりと止まったとき、翅が鋭い刃に形を変えました。瞬時に異変に気がついた大人たちですが、護衛騎士含めて誰も蝶の姿にまで気がついておりませんでした。

 私は持っていたグラスを放り出して、その背中に単身でテレポーテーションしました。

 ルー様の背中へ覆い被さったとき、ヒュンッと耳に届いた鋭い音は私の背中に激しい痛みをもたらしましたが、彼には傷一つ負わすことはできなかったようでした。


(今、詳細に思い出すなんて色々と卑怯だわ……でも、これで少なくともルー様はこれから先も思いっきり剣を振るえますわねぇ。それは…幸せなことでございましょう?)


 本来のリリーアンジュだったら、一歩も動くことができなかったのでしょうか?

 動けなかったと思います。なぜなら、ゲームの中の彼女は天真爛漫で我儘すら可愛くて、理想の健やかな十歳の女の子だったのです。だから、彼女はルー様を襲った蝶型の魔物に巻き込まれる形で襲われてしまい、背中に醜い傷を負うのです。ルー様はその時の傷が元で利き腕に後遺症が残ります。なし崩しに責任を取る形で、二人は心の傷に向き合えないまま婚約者になってしまうのです。傷の舐め合いをすることもできず、むしろお互いの存在がお互いを傷つけ合う形で婚約を続けていく。なんて…破綻した関係なんでしょうか。


(それでも、前世を思い出してよかった。魔法が使えてよかった。私が、彼の幼馴染で本当によかった)


 前世の推しで今世の初恋相手だったのです。悔いはありませんでした。

 腕に力が入らなくなってきましたので、ルー様の背中からころんとそのまま地面に転がりました。振り向いた彼の綺麗な顔が、青ざめて固まっていたのが印象的でした。


(ドレス姿のまま芝生の上に仰向けで倒れ込むなんて何年ぶりかしら。折角の綺麗な青空ですのに、お母様の泣き顔でよく見えませんわ……)


 思い出すのは今世の苦労したことと好きなものばかりで、前世の微かに覚えている私の末路になど微塵も気が回りませんでした。しかし簡単に想像できる話で、私のせいでルー様が今後気に病むことは確実で、責任の所在のために望まない婚約をすることになるのでしょう。

 けれど、その先に待っているのは、ヒロインと彼の美しい恋のお話なのです。私はというと、一人だけ救われようとする彼を羨んで、恋とも呼べない感情に振り回されて、二人に散々嫌がせするような嫌な女になってしまうのです。そんなことに思い至るほうが、どうかしているとも思いますわ。


(そうか…こうして…私の恋は、終わっていくのね…)


 なぜか、それがとても悲しくて。傷が痛くて泣いているはずなのに、彼の青ざめた顔を見てしまった事のほうがとても辛くて。

 もう林檎ジュースを美味しく飲める日は、二度と来ないのだろうとわかってしまいましたの。口の中に残っていた林檎の爽やかな味がいつの間にか血生臭い味に変わって、だんだん視界がぼやけていきました。先程まで耳に届いていた一流の楽器たちが奏でてくれていた音楽は、母様たちの悲鳴や怒号で滅茶苦茶になっていました。


 そこからの記憶はひどく曖昧です。


 私の背中の傷が癒えた頃にはルー様の婚約者という立場が約束されていました。ちっとも喜べませんでした。

 さらに悪いのが、あの日の凶行はやはりルー様の心をひどく傷付けたということです。蝶と私の顔を見ると軽くパニックを起こすということで、しばらくは手紙も見舞いにも訪れてくれることはありませんでした。仕方のないことだと思います、決して恨めしく思うなどありません。

 そんな中での婚約ですから、傷物にした責任を取ると言っても侯爵家としては不本意なものだったに違いありません。私としてもこのままお約束通りに、病んだ恋心を抱きたくありません。なんと言っても、この先ヒロインと恋に落ちる彼の裏切りに怯え、傷付くのも嫌でした。彼をお護りすることができた名誉だけで十分だと婚約者の席を辞退しようとしましたが、結局婚約が撤回されることはなかったのです。


 ※


 私の傷が完治し、彼の気持ちが随分と落ち着いた十五歳の頃から、また月に一度の交流が始まりました。まぁ、あの頃のように話が弾むわけもありません。お互い同じ魔法学校の騎士科と衛生科に通う身ですから、学校がある間はお互いのタウンハウスで、長期休暇のときはこうして領地に帰ってきて侯爵家で交流しております。


「リリー、今日もいい天気だね」


「そうですわね、ルー様」


 いつもの決まりきった会話から始まり、それ以外は当たり障りのない学業の話をして、美味しい紅茶を二杯飲んでおしまいです。二人とも微笑みを浮かべているだけの、寒々しい三十分が過ぎていきます。同じ魔法学校に通っていましたが、学科が違うので接点がほとんどなく、私も彼も積極的に交流を持つ気もありませんでしたから、最終学年に上がった今でも一度もお昼を一緒にしたことはありません。

 それに、ルー様の隣にはいつだって例の騎士科の彼女が楽しそうに笑っていますもの。


 婚約者とはいえ、二人の甘い雰囲気を邪魔するほうが野暮というものでしょう(学園全体がそれを歓迎ムードなのはどうかしていると思います)今まで障害のある燃え上がる恋を密かに楽しんでいた彼らでしたが、卒業が後半年と迫ってきましたので、数日前ヒロインの彼女から初めて接触がありました。

 放課後の人気のない廊下を歩いていたとき、気配を殺した彼女に突然引きずられるように校舎裏に連れて行かれましたの。手首に痣ができました…騎士って頼もしいかぎりです。夕日に煌めく彼女の漆黒の髪が、とても綺麗に思えました。そうして、自分のブルネットがくすんでいくようでした。


(何が違うのでしょう?あなたの隣で輝く黒髪は、別に私でも良かったのではないでしょうか?)


 そうお茶会の席で何度も口から出そうになって飲み込んだ言葉が、この瞬間内側から背中の傷をひっかくように私の心ごと痛めつけました。


『ルイス様をそんな傷一つで、いつまで縛り付けておくのですか?本当にルイス様のことを思うなら、そんな残酷な仕打ちできるはずがありません!私ならっ…もっと彼を幸せにできます!!』


 そんな言葉を浴びせられましたので、流石にひどく落ち込んで三日は寝込みました。


 ※※


 そうして起きたその日が元凶とのお茶会、神は私をどこまで試すおつもりなのかと正気を疑いました。今目の前にある笑顔に思わず手が出そうになりましたけれど、堪えた私の理性を誰かに褒めて欲しかったです。

 今思い出しても、あの言葉には込み上げてくるものがあります。

 ただでさえ傷もの令嬢だの、うまく侯爵家に取り入っただの陰口を散々叩かれておりますの。

 ここ数年流行りの背中の開いたドレスも着られませんので、デビュタント以降あらゆる社交を断り続け大人しく屋敷に引きこもっているというのに(それが噂を増長させる一因な気もします)

 挙げ句の果てに、あの事件は伯爵家が仕掛けたのではないかとまで言われる始末です。こんなひどい言われようなのに、侯爵家も彼も私を庇ってくれようとはしませんでした。侯爵家側もそう考えているのだろう、と悪い方へ悪い方へ考えてしまい……結局、何かに期待するのをやめました。

 伯爵家としましても、学校を卒業して花嫁修行が本格化する前の、この辺りが潮時だとは思っておりました。ストーリー上でも、卒業式の日に婚約破棄されていましたもの(あれは断罪とも言いますわね)

 あいにく、私はこのお茶会以外はルー様に近づくことはしませんでしたので、あの恋愛ゲームの悪女のようにはなっておりませんし、なんなら先の事件のせいでみんなから遠巻きにされてしまっておりましたので友達一人出来ませんでした…性格が歪まなかった私を褒めてくださいまし。

 だから、最後に嫌味の一つ言うくらい許してくださいませ。


「…背中の開いたドレスを着てみたいと、思いましたの。ですので、卒業後、医療魔術に特化した隣国へ治療を受けに行くつもりです」


「え?」


「卒業まであと半年です、婚約解消の頃合いでしょう。ルー様は、気立の良いご友人に囲まれて、可愛らしい恋人までいらっしゃるんですもの、問題ございませんでしょう?過去の傷を刺激する息の詰まるようなお茶会以外、全てが充実しているんではなくて?あんな噂を放っておくんですもの…結局、侯爵家は私のことが目障りなのでしょう」


「は?」


 いい天気ですね、そうですね、で始まるこの息の詰まるお茶会にはもううんざりでした。あのゲームでは卒業パーティーの真っ只中、公衆の面前で断罪されていましたけど、私は大人ですので二人きりの時に切り出しました。

 何がムカつくって、今私たちの紅茶をサーブしている魔法がヒロインによるものだということです。そんな細かな設定だけ記憶に残っていることが、とにかくむかつきます。ルー様もルー様ですよ!まだ私が婚約者だというのに、噂の立っている子爵家のご令嬢を屋敷にお招きするなんて、もう面と向かって私に喧嘩を売っているようなものではなくて?(生活魔法をかけるのは女主人の役割なんですのよ)


「先月、診察を受けてきました。何回か施術を行えば傷痕は消せるそうです。」


「き、消えるのか…!」


「そうです。私たちが婚約している理由が消えるのです…どうぞ、侯爵様にお伝えくださいませ」


 一思いに言い切ってルー様の顔を見ると、あの日のように顔を真っ青にして固まっていました。喜んでもらえると思っていたので不思議でしたわ。なぜなら先月、どうしてトラウマを刺激すると分かっていて毎回長期休暇のお茶会をこのローズガーデンにセッティングする理由を教えてもらっていましたから。

 こうすれば私が気分を悪くして茶会の時間が短くなると考えていたようなのです。そう教えてくださった侯爵家の魔法騎士見習いの方たちの意地悪な顔が、忘れられませんわ。


「では、ごきげんよう。卒業式後のパーティーは欠席しますのでエスコートは結構ですわ。ガーネット侯爵令息様、夏季休暇明けのタウンハウスでの交流も全てキャンセルでお願いいたしますわね」


 夏季休暇が終わった後も、あのつまらない学生生活に戻るつもりはありませんでした。もう卒業単位は取得し終えておりましたので、卒業までは自宅学習に切り替えて、卒業式まで一度も領地を出ないと家族には話してありました。


「リリー、待って」


「もう……待たないわ」


 引き止めようとする彼の手を振り払って、冷たく突き放して屋敷へと帰りました。

 これで良かったのです。

 これで、誰も不幸にならずに済むのですから。

 残りの休暇は屋敷に引きこもっておりましたが、家族は何も言いませんでした。ガーネット侯爵家がたびたび訪ねて来たようですが、私はどなたとも顔を合わせずに済みました。防御魔法だけならうちの方が得意ですので、私の部屋には防壁と防音の魔法を重ねがけしていましたので、何も聞こえずに済んだという方が正しいのかもしれませんね。雨の日以外は傷まなくなった背中の傷が、なぜか毎日シクシク痛むような錯覚に苛まれておりますが、あのまま学園で過ごすよりかは快適だったのだと考えております。



 ※※※



 そうやって静かに過ごすうちに、あっという間に明日が卒業式となっておりました。

 学生最後の晩餐を家族で楽しんだあと、珍しく父様から書斎に呼ばれました。向かい合って座れば、少し不安そうな顔をして話を切り出されました。


「リリー、ルイス君とのことだけど…まだ婚約解消できていないんだ。このままだと予定通り花嫁修行に行ってもらうことになるんだけど…いいかな?」


「良いわけないでしょう?全てを台無しにするつもりですか?」


 久しぶりに大きい声が出ましたわ。


「リリーは知らないかもしれないけど、侯爵家もこの八年間、ずっとお前を守ってくれていたんだよ?」


「その結果が『侯爵家を嵌めた伯爵令嬢』という汚名ですか?馬鹿馬鹿しい…早く婚約解消していただけるようにお伝えくださいまし」


「リリー、違うんだよ…その出所が王妃様だったから、侯爵様たちも面と向かって抗議できなかったようなんだよ…」


「それは……なおさら、解消すべきです」


「リリー…」


 ヒロインは子爵家の出ですが、今の王妃様の遠縁にあたります。まぁ…全てが、そうあるように収まっていくのでしょう。気がつくのが遅すぎました。

 幼少時、王家からも縁談が複数持ちかけられていたと聞いておりました。私のデビュタントの時からずっと流行のドレスの型が背中を露出するものだったことも、私に友人ができなかったことも、学校全体があの二人を祝福していたことも、つまりは…全てヒロインのために整えられた舞台だったというわけです。


『リリー』


『ルー様』


 お茶会で呼ぶ愛称が、呪いのようだと何度思ったか分かりません。二人で会えば会うほど、私の微笑みが彼の心を殺していっているのだと自虐しておりました。私の恋心はとっくの昔に枯れ果てて萎びていて…それでも見苦しく一滴の水を欲していることを、聡い彼は気が付いているのだと…そんな浅ましい私に同情しているのだと思っていました。

 正直なところ、前世だとか魔法だとか、今はそんなことどうだって良いのです。どんなことをしたって、私が必要としているものは、永遠に手に入らないんですから。それなのに、やはりあの時のように思うのです。


(それでも、前世を思い出してよかった。魔法が使えてよかった。私が、彼の幼馴染で本当によかった)



 ※※※※



 卒業式の当日。

 開会と同時に自席にテレポーテーションで移動し、閉会と同時にまたテレポーテーションで自室へ移動しました。卒業パーティーは予定通り無視しました。別に出席しなくても卒業資格に響くわけではありませんので。なんて味気なく呆気ない最後でしょう。あとは簡単に荷造りだけすれば、一週間後には隣国へ引っ越しです。父様たちも伯爵位を返上して、みんなで隣国へ亡命するそうです。王妃様から目をつけられているとなれば、そうなりましょう…。母様の遠縁を頼っていくそうですので、ジリ貧の生活になることはないとみんな笑ってくれていましたが。


「……返しそびれてしまいましたわねぇ」


 枕元にずっと飾ってあった一冊の児童書の背表紙を撫でれば、あの日の林檎ジュースの爽やかな香りと味が蘇ります。返そうと思えばいつでも返せたそれを、未練がましく手元に置いていたのは……意地だったのかもしれません。

 もう必要ないからお返しします、そうメモを一枚挟んで、児童書にテレポーテーションをかけました。結構応用が利くんですのよ、この魔法。


「借りたものくらい、手渡しで返して欲しかったなぁ」


「……あなた、その悪癖まだ直っておりませんでしたのね。ご無沙汰しております。いいお天気ですわね?」


「そうだね、リリー」


 部屋を出ようと扉に手にかけていたのですが、二度と聞く予定のなかった声に振り返ることにしました。そこにはベッドサイドに佇む彼が、幼少期の仲の良かった頃の笑顔を浮かべておりました。


「おかしいですわね…その本に、続編はなかったように思うのですが」


「君を、攫いにきた」


 驚いて彼の顔を見つめれば、泣きそうな笑顔で見つめ返されました。

 彼の言葉が本心だったとして…全てが早急にハッピーエンドにまとまるには、心がそう簡単に追い付いてはくれません。どう言葉を返せばいいのでしょうか、戸惑いながら必死に正解を探る私に彼が優しく言いました。


「消すなら、全部僕にくれないか?」


「え?」


「傷痕も、思い出も、君の初恋も…全部消してしまうつもりなら、僕が君ごともらってしまってもかまわないだろう?……ごめんね、上手に守ってあげられなくて…たくさん傷つけて」


「……いいんですよ、私逃げるの上手いんですの。知ってるでしょう?」


「本当にね、今回は捕まえるのに苦労したよ」


 そう笑う彼は、どこか吹っ切れたような顔でした。


「君に、お願いしたいことがあったんだ」


「今なら、聞いてあげますわ」


 あの日から止まってしまった時間が、静かに動き出した気がしました。


「僕の婚約者になってくれないかな」


 私たちの会話は、やはりとてもありきたりなものでできているようなのです。


「私、浮気は許しませんわよ?」


 けれど、いつかきっと幸せになれると思うことにします。その頃には、この前世の記憶も完全に無くなっていることでしょう…もう必要のないものですから。

 彼に強く抱きしめられながら、この世界に魔法があって良かったと思いました。


「どこに攫われましょうか?」


「とりあえず、僕のベッドに飛んでもらえるかな?」


 そう嬉しそうに言うものですから、私は真っ赤になって彼の胸をポカリと叩きました。


「もう…意地悪ですわね」


 言い訳は、彼の部屋でゆっくりと聞いてあげることになりました。


 ヒロインと懇意にしていた理由を聞けば、別に懇意にはしていなかったらしいのです。何度も婚約者がいると断っても、距離感が近く周りもそれを後押ししていたようで外堀を埋められていた、と。そう言えば、ルー様を取り巻いていた方たちは、皆様王妃様の出身であるハーバル公爵家に与する貴族出身でした。

 ルー様もルー様ですが、私ももう少し"知ろう"としていれば、無駄に傷付くことはなかったのでしょう。


 侯爵家で雇っている魔法騎士の半分は、王家より寄越されていたのですが、私に関して噂を否定したり抗議すると、決まって騎士の派遣を取りやめる旨で脅されていたと。この王家の介入はあの事件後から始まったのですが、長年の魔物の脅威で疲弊している領民の負担が減ったことを考えると下手に動けなかったということでした。そして、この王家のやり方に眉を顰める貴族も少なからずいるというのです。

 私も社交を避けていたことで、味方を得る機会を自ら手放していたことを反省しました。


「色々目処が立ったから、僕らも君たちに付いていくことにしたんだ。だから、一緒に屋敷ごと隣国に飛ぶよ」


「……つまり、父様が私に花嫁修行を続行させようとしたというのは、全て折り込み済みだったということでしょうか?」


 確かにこんなにも鈍い私では、この国で侯爵夫人として王家と渡り合うには荷が重かったことでしょう。


「意固地になって、話し合いを放棄した私には、良い薬になったように思います」


「それは臆病になってた僕にも言えることだから、お互いに気をつけていこう」



 まだまだ埋まっていない溝を埋めていくために、私たちは夜通し話し合いました。

 ちなみに、伯爵領と侯爵領は王家直轄地として運営してもらうそうです。


「そのころには、王妃とその一族諸々は表舞台から姿を消しているんじゃないかな」


 今まで舐めさせられた辛酸を、倍にして返したということですので……多分、ルー様たち以外にも悪どいことを相当数していたのでしょうね。




 終

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