1章

第2話 塔内の私物

□□□□


 それから4年後。


「あー………。もうこんな時間になっちゃったよ……」


 うめき声のあと、ぱたりとなにかが床に落ちるような音がした。

 シリウスはペインティングナイフの動きを止め、キャンバス越しに顔をのぞかせる。


 そこには。

 いつもの、というか。

 毎日の、もはや宗教儀式のような状態のユディットがいる。


 緻密に織り込まれたラグの上にうつぶせに寝転がった姿勢は、まさに異教徒の五体投地。 そこからバタバタと足を動かすさまは、まだ息継ぎのできないバタ足に似ていた。


 まっすぐに伸ばした彼女の手が握っているのは分厚い本。このところのお気に入りである他国の旅行記だろう。


 そんなユディットは、窓から注ぐ夕日に照らされていた。


「早く帰りなよ。そろそろ1階のサンダースさんが上がって来るんじゃない?」


 サンダースというのは彼女の侍女兼護衛女官だ。


 シリウスはふたたびスツールに座りなおし、再度キャンバスに視線を向ける。

 もう少し塗りを厚くしたい。ただ色がまじりあうのは避けたいから、ぎりぎりを狙おう。


 左手に持っているパレットから油彩をペインティングナイフでとると、慎重にキャンパスに載せた。ザリッと削るような音が耳に心地よい。


「いやだよう。今日は帰りたくないよう」

「今日、じゃなくてユディットの場合、今日、でしょう」


「違うもん。今日は昨日以上に帰りたくないんだもん」

「ああ、そう」


「なんで理由を聞いてくれないのよ!」

「はいはい。わがままだなぁ。なんで?」


「シンプソン夫人が来るの! また礼儀がどうのマナーがどうの食事の仕方がどうのって言われちゃう! あ! そういえばダンスのおさらいをしてない!」


 語尾はユディットが足をばたつかせる音に濁る。それだけではなく床がそれに伴って振動するのでシリウスは天井を仰いだ。これは細かい作業は無理だ。


 シリウスはテーブルにパレットを置くと、その上にペインティングナイフを乗せた。


 ちらりとテレピン油と古布を見たが、細かい振動と「ヴァアアアアアアアアアア」というまるで16歳の宮中伯令嬢とは思えない声が室内に充満してきたのでため息をつく。細かい片づけは後にしよう。


 スツールから立ち上がり、革製のエプロンを手早く外して手を見る。汚れはない。というか汚れるほど今日はそんなに進まなかった。まだ作業を続けたかったのに。


 キャンパスを横切って部屋の中央に移動すると、ようやくユディットが顔を上げた。


「もう少しここにいていい?」


 相変わらずうつぶせに寝転がったまま、彼女は愛らしく微笑んで見せる。

 だからシリウスもにっこり笑った。


「だめ」

「なんでよ! ひどいよ、シリウス! シリウスはあのシンプソン夫人のうっとうしさを知らないからそんな非道なことが言えるんだよ!」


「シンプソン夫人じゃなくても、ぼくだって言いたいよ。君、いちおう伯爵令嬢なんだよ? しかも年頃の。そんな恰好で駄々をこねるってありえないよ」


 両腰に手を当てて見下ろし、多少なりと「めっ」という雰囲気で伝えてみると、ユディットはムッとした表情で身体を起こし、座りなおしたのはいいが胡座あぐらだ。


 まあ、スカート部分が長いから素足が見えることもないし、なんなら彼女は年中ブーツだからそんな問題はないのだけれど。


「早く1階に行きなよ、ユディット。サンダースさんが待っているよ」

「ここ、居心地がいいんだよねー」


「そりゃそうでしょうよ。この部屋にあるほとんどのものは君がここに持ち込んだ私物なんだから」


 ため息交じりにシリウスは室内を見回す。


 初めてシリウスが来たとき。

 この部屋には簡易なベッドしかなかった。確かテーブルと椅子さえなかったはずだ。自分は床に皿を置いて食事をしていた記憶がある。


 窓には鉄格子がはまり、扉はただ板を釘で打ち付けただけのものだったはずだ。

 それがいまでは床にラグが敷かれ、ベッドには天蓋がつき、窓から鉄格子が外された。


 本棚が置かれ、棚が並び、花が飾られ、陶器で作られたいくつもの動物の置物が並んでいる。


「なんか女の子の部屋みたいになっちゃって」

「このラグもいいよねー」


「そんなにお気に入りなら持って帰って。僕はいらないし」

「なんでそんなこと言うのよ!」


「いや、ほんとに。特にあれ、持って帰って」


 シリウスが指さしたのは部屋の隅にもたれさせるようにして立てている案山子かかしだ。


 棒を十字にし、そこに藁をくくりつけて頭部と胴体部分とし、十字の横棒を腕に見立てている。その右手には木剣がしばりつけてあった。


 ユディットが槍の訓練用に使っているのだ。


「いるもん、あれ! イジェットくん!」

「名前つけるほど愛着があるなら持って帰ってって。それに訓練なら自分の屋敷でしてよ」


「家でもするし、ここでもするの!」

「夜中目が覚めたときに何回か悲鳴上げそうになるんだよ。集中して絵を描いているときとかに、いきなり床に倒れてきたときは真剣に心臓が止まるかとおもったし」


「いるの、あれは! 大事にしてるから捨てないでよ!」

「だったら新しい服を着せてあげて。君、突きすぎて服がやぶれて……。中から藁が出てるから余計に怖いし」


「えー……。もう、シリウスは細かいなぁ」

「いや、君がおおざっぱすぎるんだし。ってか早く帰って」


「あ! シリウスのお世話係のおばさんから伝言頼まれてたの忘れてた!」

「本当に? いま思い出したの?」


「嘘じゃなって! 本当なの。あのね」

「うん」


「食事の件なんだけど、いままでのパン屋さんより安くてここまで届けてくれるパン屋がいるから、そこに変更するって」

「へえ」


「味が好みじゃなかったらまた元に戻すから言ってって」

「わかりました。じゃあ、もう用事はないね。ほら帰るよ。立って」


「じゃーんけん!」

「なにそれ」


「じゃんけんして私が負けたら帰る」

「……はいはい。じゃあ、じゃんけん」


「ほいっ! …………あ」

「ほら、帰って」


「実は三回勝負でしたー!」

「ああ、もうっ! じゃんけん」


「ほいっ! ………」

「三回勝負で二回僕が勝ったらもうおしまいだよね。さ、帰っ……」


「今日は帰りたくないの!」

「あのねぇ。そういうの男の前で言うんじゃないよ、ユディット」


「なんで」

「誤解されちゃうから。ほら」


 シリウスは問答無用でユディットの両手首をつかむと、むんずと持ち上げる。

 想像以上の軽さで彼女は腰を上げた。


「あーあ……。シンプソン夫人に会わなきゃいけないのか……」


 まだぶつくさ言いながらも帰る気にはなったらしい。

 ユディットは本を拾い上げると、本棚にしまった。


「ユディットがお行儀よくしてれば問題ないんじゃない?」

「そこが大問題なの」


 まじめにこたえたユディットにシリウスは吹き出す。ユディットも笑ったあと、窓を指さした。


「見て。今日もきれいな夕日」

「ほんと、そうだね」


「やっぱりお父様に言って鉄格子を外させて正解だわ」

「まさか鉄格子を外すとは思わなかったけどね」


 シリウスは肩をすくめて苦笑する。


 あの日。

 突如現れた少女は次の日もいきなり現れ、手にした工具でもってサンダースさんとともに鉄格子を外した時には愕然とした。


 一瞬、鉄格子のない窓から飛び降りて死ねとでも言われるのかと思ったが。

 彼女は晴れ晴れと言ったのだ。


「やっぱりこの方が素敵ね」

 と。


「また明日も来るわね、シリウス」


 ユディットはそういうと、あの日と同じように。

 そして毎日同じように。


 いまでは彩色され、なんならよくわからない布でデコられた扉を開いてさっさと出て行ってしまった。

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