18教授の植物図鑑

消費期限を守りません

第1話 闇の使いと閃光弾

 僕は深淵に引きずり込まれた。比喩ではなく、強引に。


 骨に皮を張り付けたような細い指が、その形からは想像もできないほどの力で僕の腕を掴んでいる。


「お願いですぅううう。名前を、名前を書かないとぉぉぉぉ、あなたが死んじゃいますぅうぅうぅ」


「そんなわけあるか! いいから離してくださいっ! 僕は幽霊を信じていないんです!」


「あぁあああぁあああ、お願いですぅうう」


 鬼、いや悪霊のような形相で尚も少女は僕の腕を引っ張り続ける。幽霊なんかよりも人間の方がよっぽど恐ろしいというがまさにその通りだ。

 心霊スポットに行くときも、気を付けなければならないのは奇妙な現象や得体の知れない何かより、奇妙な人間や得体の知れない人間の方だ。憑りつかれて殺される、なんて科学的根拠のない死因より、撲殺、殴殺といったより具体的な死の方が心霊スポットには渦巻いている。


 そしてまさに今、学校という怪談にはうってつけの場所で、僕は幽霊にではなく人間に襲われていた。しかもこの女。その華奢な見た目に反して恐ろしい力で僕の腕を引っ張っている。

 

 もしかしたらコイツ、人間ではなく幽霊や化け物の類なのではないだろうか。


「お願いですぅうう。この入部届にサインするだけでいいですからぁあああ」


「しません! ていうか、被害届にサインしますよ。離してください!」


「悪霊が! 悪霊があなたの後ろに!」


「悪霊はアンタでしょ! ていうか力強いな!」


 ドン、と背中を押され、そのまま少女と転ぶような形で暗い教室の中に飲み込まれる。振り返る暇もなく、ぴしゃりと扉は閉められ漆黒のような暗さが僕の視界を覆った。


「フフフ、入りましたね。我々の研究室へ」


 聞き覚えのある声が頭に降ってくる。しかしその口調は先ほどまでのなよなよとしたものではなくハッキリとしている。まさに水を得た魚。いや、彼女の場合、洞窟のコウモリとでも言うべきだろうか。


「ずっとあなたを待っていたんです。あなたは闇に選ばれしもの。そのお顔を見たとき、すぐに気づきました。運命は、我々を導いたのだと」


 艶のない恥ずかしい台詞が闇に響く。僕は痛くもない頭を抱えた。


 二限終わり。講義室を出た僕は、朝ごはんを入れていない空っぽの腹をさすりながら少し離れた食堂へと向かっていた。ウチは日本でも三番目の生徒数を誇るマンモス大学。当然、昼時の食堂付近には多くの大学生で賑わい、その人口密度は瞬間的に渋谷のそれを上回っている。


 この空腹状態では長蛇の列に並ぶ余裕はない。そう判断した僕は、理系棟よりは人混みのマシな文系棟の食堂を使おうと思い、東エリアへ歩き出した。


 そしてこのような事態に陥ったのである。


 僕が頭を抱えたのは頭痛のためではない。大学生にもなって、このような台詞が出せることに羞恥心を感じたからである。


「勘弁してくれよ。生きてきた中で幽霊よりもアンタが一番怖いよ」


「フフフ。怖いだなんて光栄だわ。わたしもあの方たちのお仲間になれたってことかしら」


 何かに憧れるような声色で彼女がそう言う。薄っすらと見えるその両手は聖母のように祈りを捧げている。オカルト研究部に聖母とはこれ如何に。


 しかし、そんなことはどうでもよく、僕の空腹はそろそろ限界に達していた。このまま強引に外に出ても良いが、大学初日に揉め事は起こしたくない。

 彼女が研究室の先輩でない確証なんてない。気まずい空気を研究室という狭い空間で卒業まで享受せねばならないなんてご免だ。勿論、十中八九向こうが悪いが、穏便にこの場を抜け出せるのならそれに越したことはない。


 いっそ名前でも書いてやろうか。


 そんな考えが頭を過ぎり始めた。高校と違って、大学の部活動では幽霊部員など珍しくない。むしろオカルト研究部なのだから幽霊部員は必要不可欠ではなかろうか。


 なら書いてこの場を抜け出そう。そう思った時だった。


「おいオカ研! そこまでだ! 観念しろ!」


 怒号と共に、何かが教室の中で弾けた。


「gyぁあああ」


 聖水をかけられた悪魔のような悲鳴が響き、少女が床でのたうち回る。勿論、僕も例外ではない。暗闇で急に光を投げ込まれるのは一種の殺傷行為だ。


「我ら光学研究部。闇に与する輩どもを成敗しに理系棟から参上した。皆の衆! こいつら全員に光を浴びせてやれ!」


 隊長格のような男の号令と共に後ろに控えていた男たちが大砲のようなライトを一斉に照らす。たちまち十メートル四方の教室は眩すぎる光に包まれた。


「gyぁあああああああ」


 再び苦しむような悲鳴が教室のあちらこちらから上がる。暗闇で分からなかったが、どうやら教室には彼女以外にも部員がいたらしい。今は光で見えていないが。


 天国かと見まがうほどの光は容赦なく教室を照らし続けた。このままでは本当に冗談抜きで天界に召されることになる。そう直感した僕は、ゴロゴロと床を転がり、何とか反対側のドアから脱出した。


「に、逃げなきゃ」


 向こうの方では、まだ怒号と共に薄っすらと男たちが立っているのが見える。彼らは全員、サングラスのようなものを着用していた。恐らく彼らの目には悶えるオカルト研究部の姿が映っていることだろう。


 追撃されては敵わない。そう思った僕はふらつきながら離れた教室へ転がりこんだ。


 そこは教室というよりかは物置のような部屋だった。だいぶ前から使われていないらしく、埃と湿気を含んだ古臭い匂いが鼻をつく。山積みになった段ボールが窓の光を塞いでおり、ほんの少し差し込む光線が埃被った床のタイルを照らしていた。


 ひとまず僕は扉を閉め、もたれるようにその埃被った床に座り込んだ。チカチカとしていた視界がようやくゆっくりとその点滅をおさめていく。扉の向こうで微かに怒号の混じった声が聞こえる。まだ、光学研究部の「浄化」が続いているのだろう。もしかしたらあれ、死人が出るんじゃないか?


 せり上がった空気を溜息と共に吐き出し、僕はゆっくりと辺りを見回した。山積みの段ボール。煙突のように立った無数のロール紙。タイヤ部分が埃だらけの移動式ホワイトボード。まるでここは、忘れられた物たちが傷を舐め合う場所のようだ。


 そんな「物」たちの姿を見回す内に、僕は視界の端に妙なものを捉えた。


 キノコである。


 それは教室の片隅で、当然のようにタイルの隙間から生えていた。人工物に囲まれたこの空間で、それは先ほど浴びた光線のように強い存在感を放っている。傘を高く掲げ、胸を張るように生えるそれは、随分と誇らしげにも見える。


 僕はゆっくりと扉から背中を離し、それに近づいた。見たことない形と色である。勿論、僕はキノコの専門家ではないし、シイタケやシメジといったおおよそ有名なものしか知らない。

 とは言え、そんな素人の僕でさえ強烈に感じるほど、そのキノコは植物とは考えられないほど鮮やかで、毒々しく、不気味な姿形をしていた。


「なんだよこれ」


 触る勇気など勿論ない。ただ、根源的な恐怖によるものなのか。いわゆる怖いもの見たさかどうかは分からないが、不思議と僕はその得体の知れない存在から目を離すことができなくなっていた。それが、悲劇を生んだのかもしれない。


 ガラガラガラ


 突然、扉を開ける音がした。


「‼」


 視線を扉の方へスライド。と、同時に盛大にしりもちをつく。「ブシュッ」と、何かを潰したような音が尻の方から聞こえるが気にしている場合ではない。


 すぐに瞼を閉じ、顔を両腕で覆う。頭を過ぎるのは先ほどの閃光弾。二度も食らうのはご免だ。


 しかしいくら待っても鋭い光は襲ってこなかった。


 不意に硬直した腕が緩む。


 するとその声は、ドアの方から投げかけられた。



「あの、大丈夫ですか?」


 

 さっきまで聞いていた飢えた猛獣のような声ではなく、本当に身を案じている優しい声音が僕の耳に入った。


 オカルト研究部と光学研究部によって、警戒心は過去最高になっている。しかし彼女の声は赤子でも撫でるかのように優しくその心を解きほぐした。


 張りつめていた糸が緩んでいくように、視界を覆っていた両腕をゆっくりと下す。


 彼女はカメラを首からかけていた。肌は陶磁器のように白く、瞳はルビーのように深い紅を湛えている。そして窓から入る小さな風に、彼女の銀の髪はサラサラと揺れていた。


 美人だ。


 そう思った瞬間、僕は盛大にクシャミをした。


「ぶえっくしゅん!」


 フワフワと胞子状の何かが僕の辺りを漂っている。なんだ、これは? 胞子のような、小さな粒だが。

 ハッ、と何かに気づき、嫌な音がした自分の尻をゆっくりと上げる。ああ、間違いない。どうやらしりもちをついた瞬間に、あの変なキノコを潰してしまったらしい。


「は、は、ぶ、ぶえっくしゅん!」


 吐き出した空気の塊にキノコの胞子たちがぐるりと揺れる。こんなにクシャミをしたのは春先以来だ。きっと彼女にはハウスダストアレルギーなのかと思われているに違いない。


 情けないクシャミが教室中に響く。



 こうして僕の光に満ちた大学生活が始まったのである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る