第31話 202号室
夜の街を歩きながら、律とマリアは無言だった。
マスターから受け取った鍵が、律のポケットの中で冷たく沈んでいる。
「……本当に行くの?」
マリアが小さく尋ねる。
「ここまで来たら、もう引き返せないでしょ」
律は淡々と答えたが、内心では緊張していた。
二人が向かうのは、尾張が住んでいたという古びたアパート。
場所はマスターから教えられていた。
目的の建物は、想像以上に荒れていた。
外壁は黒ずみ、ひび割れが目立つ。
薄暗い廊下には電球が切れたままの天井灯が並び、湿った空気が漂っていた。
「なんか……嫌な感じ」
マリアが腕を組む。
「……同感」
律は短く返し、尾張の部屋があるという二階へと足を向けた。
202号室。
扉の前に立つと、室内からの気配はまったく感じられなかった。
律はポケットから鍵を取り出し、慎重に鍵穴に差し込む。
カチリ――鍵が開いた音が、静寂に響いた。
律とマリアは一瞬だけ顔を見合わせ、それから息を呑んで扉を押し開いた。
――異様な臭いが、二人を迎えた。
湿気と埃、そして何かが腐ったような、かすかな鉄臭さ。
「……最悪」
マリアが鼻を押さえる。
律は足元を注意深く確かめながら、部屋の奥へと進んだ。
中は荒れ果てていた。
カーテンは閉め切られ、家具は乱雑に散らかっている。
机の上には、空のペットボトルとインスタント食品の容器が積み重なっていた。
そのとき――部屋の奥、テレビの画面が砂嵐になっているのが見えた。
扉を開けて入ると、それを見ていた人物を見つける事が出来た。
「――誰?」
律が思わず声を漏らす。
部屋の奥、ちらつく砂嵐のテレビの光に照らされながら、誰かが椅子に座っていた。
乱れた髪、痩せ細った体、うつむいたままピクリとも動かない。
マリアが警戒しながら、一歩前に出る。
「……尾張?」
反応はない。
静寂の中、テレビのノイズ音だけが響く。
「………」
律とマリアは、互いに目を見合わせた。
その瞬間――
尾張が首を下げたと同時にテレビからビデオが2本排出された。
「ビデオ?しかも2本?」
律が反射的に呟く。
テレビの前のビデオデッキから、黒いカセットテープが2本ゆっくりと吐き出される。
尾張は首を垂れたまま、まるで糸が切れた操り人形のように微動だにしない。
マリアが慎重に前へ進み、テープを手に取る。
「……タイトルがないわね」
ラベルは剥がされている。まるで、何かを意図的に隠すかのように。
律は尾張を見つめたまま、背筋に走る冷たい感覚を振り払おうとする。
「一本ずつ再生してみましょう」
律は小さく息を呑みながら頷いた。
テープをもう一度デッキに押し込むと、テレビ画面が一瞬暗転し、やがて映像が映し出される。
画面には、ミュージシャン時代の律の映像が映っていた。
「……これ、私じゃない?」
律が思わず声を漏らす。
画面の中の律は、ステージの上でギターを抱え、マイクに向かって歌っていた。
「……なんで?」
映像の中の律が、こちらに向かって話しかけていた。
『黒井のために生きたいなら、復讐なんてするべきではないわ』
律の呼吸が止まる。
「……何?」
映像の中の自分が、まるでこちらの心を見透かすように語りかけてくる。
『あなたは本当は銃じゃなくギターの方を手に取りたいんじゃないの?』
映像の中の自分が、淡々と続ける。
マリアが息を呑んだのが分かった。
「律……」
律は画面を睨みつけた。
映像の中の自分は、あの日と変わらない姿でギターを抱えている。
『ねえ、思い出して。黒井はそんなこと望んでた?』
「……っ」
律は目をそらした。
「次は2本目ね……」
マリアが緊張した面持ちで、そのテープをしっかりと握りしめ、静かにデッキに差し込んだ。
画面には、看護師時代のマリアと医師時代のジェイムスの映像が映っていた。
「……やっぱり次は私だったわね」
マリアが小さく息をつき、少し苦笑いを浮かべる。
律はその姿をじっと見守りながら、画面に集中した。
映像の中で、ジェイムスが真剣な顔でマリアに話しかける。
『君は本当に、あの人を救いたいのか?』
ジェイムスの問いに、マリアは無言で立ち止まる。その顔に浮かんだのは、かすかな迷い。
「いまさら私がそんな言葉に動揺すると思う?」
マリアが画面の中の自分に語りかけるように呟いた。
律はその言葉に少し驚きながらも、視線を画面に戻した。
映像の中で、ジェイムスはマリアを見つめながら、静かに言葉を続ける。
『君は、他人を救うことにどれだけの意味があると思っているんだ?』
ジェイムスの冷徹な問いかけに、マリアはほんの少しだけ視線を逸らし、そして深く息を吐いた。
「面白い事を言うわね。よく私たちのことを''過去を知っている''と思うわ」
「過去を知っている?」
「そうよ。このビデオは私たちの過去をただ流してるだけよ。聞き流せばいいわ」
マリアは冷静に言い切ると、再びビデオの映像を見つめ、律の反応を待った。
「本当だ……画面さえ見なければただのビデオね」
律は冷静に、しかしその言葉には確かな不安が滲み出ていた。
彼女はビデオの映像から目をそらし、ただの映像であることを自分に言い聞かせるように、視線を空に向けると、3本目のビデオが排出された。
「また…次が来たわね」
律は少し疲れた様子でその言葉を漏らす。
彼女は一度深呼吸をしてから、3本目のビデオテープを手に取った。
今回はさらに不安と緊張が高まっていたが、彼女はそれを押し殺すように、マリアとともにデッキにテープをセットする。
「これが最後のビデオかもしれないわね。確認してみましょう」
マリアが静かに言い、律は黙って頷いた。
再生ボタンが押され、またもやテレビの画面が一瞬暗転した後、映像が映し出される。
テレビの画面に映し出されたのは、見覚えのない風景――
金髪の男と黒井と思われる人物が画面に映し出された。
背景は薄暗く、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせている。
二人の間に交わされる会話は不明瞭で、画面がかすかに揺れながら進んでいく。
金髪の男は、鋭い眼差しで黒井を見つめている。
その顔にはどこか冷徹な表情が浮かんでいて、ただならぬ雰囲気が漂っていた。
『黒井……初めてで最後の友達』
というその言葉は、どこか感傷的でありながらも、その裏に隠された冷徹な意図が見え隠れしている。
金髪の男はその問いに答えることなく、ただ冷ややかな笑みを浮かべる。彼の目には、黒井が反応することで何かを試すような意図が込められている。
『君達はどう思う?この言葉の意味を』
金髪の男の言葉が空気を支配していたが、その後、何の前触れもなくテレビの画面が暗転した。
映像は一瞬で停止し再び沈黙が訪れる。その瞬間テレビは停止してしまった。
そして、二人は再び無言のまま、暗転したテレビ画面を見つめ続けた。
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