第30話 深淵

 暁律とマリアは廃れた路地を抜け、酒場『チェリー・パイ』へと再び足を進めた。

 薄暗い街並みの中、そこだけは妙に賑やかな空気を漂わせていた。

 酒場の看板はネオンがちらつき、かろうじて文字が読める状態だったが、それでもこの場所の存在感を主張していた。

「ここが『チェリー・パイ』ね……」

 暁律は呟きながら、酒場の看板を見上げた。

 扉を押すと、重い音と共に薄暗い店内の光景が目に飛び込んできた。

 中には、大小のテーブルに集まる様々な人間たち。酒を煽る者、低声で密談する者、そしてただ周囲を観察している者たちの姿が見えた。

 彼女達はゆっくりと歩を進め、カウンターへと向かった。

 その途中、いくつかの視線を感じた。

 どれも無関心のように見えながらも、暁律とマリアの存在を確かに警戒しているようだった。

 カウンターの奥ではサングラスをした男がグラスを磨いていた。

 暁律とマリアがカウンターの席に腰を下ろすと、男がグラスを置き、彼女をじっと見つめた。


「久しぶりね。律ちゃんにマリアちゃん」

 男は軽くサングラスを押し上げながら、独特な口調で話しかけてきた。

久しぶり、マスター」

 律は淡々とした口調で返しながら、彼の様子を探るように視線を向けた。

「今日はなんの用でワタクシの店にきたの?」

マスターはグラスを拭く手を止め、ゆったりとした口調で問いかける。

 その声には、わずかに探るような響きがあった。

「ちょっと聞きたいことがあるの」

 律が切り出すと、マスターは片眉を上げる。

「律ちゃんやマリアちゃんがワタクシに『聞きたい事』って何かしら?恋の悩み?オネエさんなんでも答えるワヨ」

 マスターは冗談めかした口調で言いながら、グラスを拭く手を止めた。

「だったらよかったんだけどね」

 律は軽くため息をつきながら、真剣な眼差しを向ける。


「X氏について知ってる?」

 その瞬間、マスターの手が止まる。

「X氏は彼の本名じゃないワ」

マスターはグラスを置き、サングラス越しに律をじっと見つめた。

「じゃあ、本当の名前は?」

 律が問い詰めると、マスターはゆっくりと首を振る。

「本名は……知らないワ。というか、彼が名乗ったことは一度もなかったの」

「それじゃあ、本名はなんなの?」

 律がもう一度問い詰めると、マスターは肩をすくめ、困ったように笑った。

「律ちゃんにマリアちゃん。簡単にそんなの簡単に推測出来るワヨ。笑いを堪えるのに必死だったもの……」

 マスターは笑いを堪えながら、グラスを置いて手を広げた。


「笑いを堪えるのに必死だったの?」

 律が冷ややかに問い返すと、マスターは少し困った表情を浮かべながら頷いた。

「あの人は極度の厨二病でね……」

 マスターは少し照れくさそうに肩をすくめ、グラスを再び拭きながら話し始めた。

「律ちゃんにマリアちゃん。アルファベットを考えればすぐにわかるわ」

「あ……''X''は一番最後。つまり、尾張……そういうことか」

 律が思いついたように言うと、マスターは静かに頷いた。

「そう、尾張ヨ。元々、普通の名前だったのけれど、自分の存在に対する不安や、自己過信が強すぎた結果、自分を特別な存在にしたかったデショ」

「尾張……それでその尾張はどんな見た目をしていたの?」

「とにかく普通で、つまらない男だったわ」

「それがなぜか『X』を名乗ることに?」

 律が興味深そうに尋ねると、マスターは軽く肩をすくめた。

「さあ?彼にとって、ただの『尾張』では物足りなかったんでしょうね。自分が普通で平凡な存在だってことに耐えられなかった。だから『X』を付けて、何か特別な存在になった気分になりたかったんじゃないカシラ」

 マリアは少し考えてから口を開く。

「普通すぎる自分を変えたくて、名前だけでも特別に見せたかったってことね」

「その通り。でも、結局それは表面的なものでしかなかった。彼の中身は、最初から何も変わってなかったんだけどね」


「じゃあ、その空虚さを埋めるために彼は何をしていたの?」

 律が尋ねると、マスターは少し間を置いてから答えた。

「尾張はその空虚さを埋めるために、何でも手を出していたワヨ。今回は一番手を出してはいけない物に手を出してしまったみたいだけどネ……」

 マスターの言葉に、律とマリアは互いに顔を見合わせた。空気が一層重くなる。

「一番手を出しちゃいけない物?」

 律がその言葉に引っかかるように尋ねると、マスターはグラスを静かに磨きながら、ゆっくりと答えた。

「そう。尾張が手を出したのは、『二階堂透』だったわ」

「『二階堂透』?」

 律とマリアが声を揃えて驚く。


「そう、二階堂透よ。噂でしか聞いた事ないけど……彼は心の隙間に入り込むのが上手いらしいワ」

「心の隙間に入り込む?」

「……私は一度、二階堂透に会った事があるから分かるわ。あの心の奥底に触れてくるような声……」

 マスターの言葉に、マリアは少し遠い目をした。

「彼の声は、ただの言葉じゃないのよ。まるで、相手の痛みや寂しさをすべて理解しているかのように響く。最初は気づかないかもしれないけど、だんだんその言葉が心に深く染み込んでくる。そして気づいた時には、もう逃げられないの」

 マスターは静かに言葉を続けた。

 律は真剣な表情で、マスターを見つめながら言った。

「でも、尾張もそのことに気づかなかったの?」

「尾張は、心の隙間に取り込まれていたわ。自分の弱さを誰にも見せたくないという思いが、逆に彼を二階堂に引き寄せたのよ。自分を特別な存在だと思いたかったから、二階堂の言葉を信じた。それが間違いだったの」

 マリアは少し思案してから、

「それなら、尾張がその空虚さを埋めるために手を出したってことは、どういうことなんだろう?」

 と尋ねた。

 

「尾張が求めていたのは、ただの変化じゃないわ。彼は自分の存在を証明したかった。ただの人間ではなく、何かもっと特別な存在でありたかった。そう、ヒーローみたいにね」

「ヒーローになりたかった……」

 律が呟くように言うと、マスターは静かに続きを話す。

「でも、ヒーローになれるわけではないのよ。自分が本物のヒーローだと信じ込むことで、他人の支配を受け入れてしまった。ただのヒーロー願望にすぎないことに気づかなかった。二階堂透の言葉にすがってしまったことで、彼はさらに自分の空虚さに取り込まれていった」

 マリアが静かに口を開いた。

「だから、尾張は二階堂に支配され、最終的に自分を失ってしまったのね」

 マスターは深く息をつき、グラスを拭きながら言った。

「尾張がどうなったか、ね……いい事を教えてあげるワヨ。彼のアパートの部屋の鍵をあげるわそこに行ってみなさい。そこに行けばあなた達が知りたい事が分かるかもしれないわ」


「え?」

 律とマリアは同時に驚きの声を上げた。

 マスターは静かにカウンターの奥から、小さな鍵を取り出し、カウンターの上に置いた。

「でも、勝手に入るのは……」

 マリアが戸惑いがちに言うと、マスターは肩をすくめた。

「もう誰も使ってない部屋よ。家賃も滞納してるし、管理人もほとんど放置状態。警察沙汰になったりはしないわ。むしろ、誰かが確認しないといけないくらい」

 律は眉をひそめた。

「警察沙汰にならないって……尾張、どこに行ったの?」

 マスターは短く笑った。

「さあ?少なくとも、ここ何週間も姿を見てないワネ」

 律とマリアは再び顔を見合わせた。不安が胸をよぎる。

「……行ってみよう」

 律が決意したように鍵を手に取る。

 マリアも静かに頷いた。


 尾張のアパート。その部屋に、何が残されているのか――二人は確かめるしかなかった。

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