第2話 黒い決断

 車はの静かに夜の街を進み、黒井は次の任務に向けて覚悟を固めていった。彼は心を凍らせ、すべての感情を削ぎ落とすように深く息を吐く。

 しかし、胸の奥にある消し去れない小さな痛みには、気づかないふりをしていた。


 車内で手元の資料に目を落とす。標的は「暁律」、二十歳前後のミュージシャン。彼女が組織に不利益な行動をしたのは確かだが、詳細は知らされない。

 黒井は運がない女だ、と冷たくつぶやき、ファイルを閉じた。


「暁律が居るライブハウスには、すでに工作員が配置されています」

 と、運転している男が言う。

 黒井は無言で頷いた。

 この男は組織内でも信頼できる数少ない仲間の一人で、今回の任務にも深く関わっているらしい。ライブハウスは既に閉鎖され、暁律は孤立している。

「なら、逃げ場はないということか」

 と黒井は短く応じた。


 車が止まり、黒井は静かに降り立った。冷たい空気が漂う夜の闇に紛れ、ライブハウスへ向かう。ドアには無音で開閉できる細工が施されていた。準備は完璧だ。

 薄暗いライブハウスの奥、ステージ上には暁律が一人立っていた。彼女はギターを手にし、まるで何かを確かめるように目を閉じて深く息を吸っている。その姿には、何かしらの覚悟が宿っているように見えた。

 黒井は「銃を使えば騒ぎになる」と判断し、袖から静かに黒いナイフを取り出した。光を反射しない刃は音もなく標的に迫るために作られた、彼の相棒だ。

 しかし、ナイフを握る指先に微かな震えが走る。それは、標的を前にしてあるはずのない迷いだった。心の奥に潜む小さな痛みが、再び黒井を揺さぶっている。

「……終わらせるんだ」

 と、自らを戒めて歩みを進める。

 暁律が弦に指を置き、深い呼吸と共に音を奏で始めた。その旋律は彼の心の奥に響き、冷徹さで封じ込めてきた感情が浮かび上がってくる。それは失った家族への愛情や、復讐に囚われた孤独、そして長らく忘れていた温かな記憶であった。


「何をやっている、俺は……」

 黒井は自らに苛立ち、意識を取り戻そうとするが、身体が動かない。暁律の音楽が、彼を捉えて離さなかった。音の波が彼の中の何かを解きほぐし、抑えてきた過去の苦しみや苦悩が再び甦ってくる。

 その時、イヤホンから無機質な声が響いた。

『黒井、何をしている!今回の任務は失敗できないぞ!』

 冷たい指令が黒井を現実へ引き戻す。任務失敗は許されない、それが彼の生き残るための絶対条件であり、長年従ってきた信念でもあった。

 だが、目の前の暁律の姿とその音楽に、冷酷な態度を貫けない自分がいることを感じる。彼女が彼に向けたまなざしは、不思議と温かく、彼がずっと求めてきた「人としての温もり」を思い出させるものであった。


 イヤホンを通して、再び組織からの冷たい命令が響いた。

『黒井、応答しろ。任務を遂行しろ!』

 黒井は深く息を吐き、イヤホンを外して床に放り投げた。律に答えた。

「いまは、お前を殺すのは正しくないと判断した。それだけだ」

 暁律は黒井の言葉にしばらく沈黙した。だが、その瞳には微かな驚きと同時に、どこか安堵のような色が浮かんでいる。

「正しくない、と、判断した……」

 暁律はその言葉を繰り返し、小さく笑みを浮かべた。

 その笑みには皮肉ではなく、むしろ感謝の念すら込められているように見えた。

「それが、あなたなりの優しさなの?」

 黒井は眉間に皺を寄せた。

「優しさなんてくだらない感情じゃない。ただの判断だ」

 黒井は一瞬だけ律を見つめたが、すぐに目をそらし、低く呟くように言った。

「感謝なんていらない。俺が正しいと思ったからやっている」

 律はその言葉に軽く首を傾げた。

「その理由で十分よ」

「行くぞ。長居する理由はないからな」

「待って!」

 黒井は振り返り、苛立ちを抑えるような目で彼女を見た。

「何だ?」

 律はギターを振り返りながら、少しだけ迷うような表情を見せた。

「あれを……」

 黒井は短く首を振る。

「いまは、命のほうが大事だ。それを忘れるな。」

 律は黒井の言葉を受けて小さく頷いたが、その瞳には未だにギターへの未練が残っていた。 彼女にとって、それはただの楽器ではなく、これまでの自分を支え続けてくれた存在だった。

 律は黒井の言葉に従って歩き出したものの、足元が重い。背後に置いてきたギターが頭から離れない。それは音楽だけでなく、自分自身を表現するための唯一の手段であり、これまでの人生そのものだった。


「大丈夫だって、自分に言い聞かせてるけど……」

 律は小さく呟き、ぎゅっと拳を握った。

 黒井は彼女の様子を感じ取ったのか、ちらりと振り返ったが、何も言わなかった。ただ冷静な目で律の歩調を確認し、前方へと視線を戻す。

「未練を抱えてる暇はない」

 黒井は前を向いたまま、静かに言葉を投げかけた。

「お前が生きていれば、また手に入るものだ。だが、死んだら終わりだ」

「ここで捕まるわけにはいかない」

「冷たい言い方するのね。でも、ありがとう」

 律がふと呟くように言った。

 黒井はそれに何も答えなかった。

 二人は路地裏を駆け抜け、暗闇に溶け込むようにして次の角を曲がった。足音が反響する狭い道で、背後から迫る追っ手の気配が一層近づいてくる。


「あと少しだ、持ちこたえろ」

 黒井が短く律に声をかける。

 律は息を切らしながらも頷いた。

「大丈夫……まだ走れる」

 その時、路地裏に追手が三人ほど狭い道の出口を塞ぐように立ちはだかり、無線で仲間に何かを伝えている。

「…………」

 黒井は一瞬立ち止まり、律に手を上げて制止の合図を送った。

「どうするの?」

 律が小声で尋ねる。

「まずは奇襲で相手の数を減らす」

 黒井は一瞬だけ律に視線を送った。

「お前はここで待機だ。音を立てずに隠れていろ。」

 律は驚いたように目を見開いた。

「でも、あなた一人じゃ───」

「いいから従え」

 黒井の声は低く冷たいが、その奥に律の安全を優先しようとする意志が感じられた。

 律は悔しそうに唇を噛んだが、やがて小さく頷いた。

「……わかった。」

 黒井は右手で黒いコートの内側に隠していたグロックを抜き、彼は目の前の追っ手をじっと見据える。

「戦いに綺麗事はない、死んだら負けだ……」

 黒井は低く呟き、視線を鋭く追っ手たちに向けた。彼の右手に握られたグロックがわずかに持ち上がり、銃口が静かに追っ手の中心を捉える。

 狭い路地裏に立つ追っ手たちは、まだ黒井の存在に気づいていない。無線でのやり取りに集中している彼らにとって、それは致命的な隙だった。

 黒井は呼吸を整えながら、一瞬だけ状況を確認した。三人の追っ手は出口を塞ぎ、無線で仲間とやり取りを続けている。その背後には律が潜み、自分の動きを待っている。

「……今だ」


 黒井は心の中でタイミングを見定めると、グロックの引き金を引いた。消音器付きの銃声がほとんど無音で響き、最前の追っ手の胸元を正確に撃ち抜く。

 一人目が短い呻き声と共に地面に崩れ落ちる。それに気づいた二人目が驚いて振り返るが、その動きは黒井にとって十分に遅かった。

 二発目の銃声。二人目の男も胸を押さえて膝をつく。

「何だ───!」

 三人目が慌てて銃を構えようとするが、黒井はすでに距離を詰めていた。

 無駄のない動きで相手の腕を払い、銃を弾き飛ばす。黒井の膝蹴りが男の腹に深く入り、呻き声を上げながら地面に倒れ込む。

 黒井は無線を奪い取ると、躊躇なくスピーカー部分を壊した。その冷静な動作には、一切の感情が感じられない。

 路地裏に再び静寂が訪れる中、黒井はゆっくりと立ち上がり、周囲を確認した。追っ手が増援を呼ぶ前に行動を続ける必要がある。

 「終わった」

 低い声でそう言うと、彼は律の隠れる影に向かって視線を送った。

 律は息を潜めていたが、黒井の声に促されるように影から出てきた。倒れた追っ手たちを見下ろし、言葉を失う。

「これが……あなたの戦い……」

 彼女の声には驚きと困惑が混じっていた。

 黒井は彼女の言葉に答えず、無表情のまま前を向いた。

「行くぞ。感傷に浸る暇はない。」


 律は黙って頷き、黒井の後ろに続いた。胸の奥で高鳴る鼓動を押し殺しながら、彼女は自分がこれからどう行動すべきかを考えていた。

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