断罪と弾丸 Judgement&bullet

@kaiji2134

第1話 揺らぎ

 夜の街を歩く黒井恵。

 彼はいつも通り無駄のない動きで周囲に目を配りつつ、黒いコートのポケットに手を突っ込んでいた。

 街灯の薄明かりが鋭い黒い瞳を一瞬だけ照らし出し、彼はひっそりと隠れるように歩き続ける。無精ひげの生えた疲れたような顔に、彼の持つ冷徹な決意が宿っていた。


 今夜の任務は重要な標的の排除。とある事件の目撃者、17歳の少女・佐倉有希だった。彼女は偶然にも組織の秘密を目にし、証言しようとしているという。黒井にとって「目撃者」はリスクでしかなく、特にそれが脆弱な未成年であっても関係はない。感傷など持ち込むべきではないのだ。

「こちら黒井だ。標的が居ると思われるエリアに到着した。標的への誘導を頼む」

 通信機の向こうから数秒の静寂が続いた後、低く抑えた声が返ってきた。

『了解。佐倉有希は建物の二階、東側の窓の近くにいる。こちらで佐倉有希の住んでいる建物のセキュリティをなんとかしよう。そうすれば十秒間は、お前の存在は消える』

「了解した。十秒あれば十分だ」

 黒井は通信を切ると、建物の入り口付近に目を向けた。わずかな光が漏れ出ているが、内部の動きは窺えない。

 しかし、セキュリティが解除されるその瞬間を待ちながら、黒井は静かに深呼吸をした。たった十秒、それだけあれば確実に標的に接近し、任務を完遂することができると自信を持っていた。


 耳に届くのは遠くで響く車の音と、自分の鼓動だけ。そして、待ち構える中、通信が再び入った。


『セキュリティを無効化した。十秒間だけだ、動け』


 その一言を聞くやいなや、黒井はすぐさま影から飛び出し、音もなく建物の階段を駆け上がった。全てが計算された動きで、彼の姿はまるで闇そのものだった。二階の東側の窓付近――標的がいる場所が近づくにつれ、彼の表情には一切の迷いもなかった。


 黒井は、無駄な音を立てることなく二階の廊下にたどり着き、東側の窓の近くへと足を運んだ。目の前にあるドアが、彼の標的である佐倉有希がいる部屋だった。彼は一瞬、耳を澄ませて中の気配を探る。微かだが、誰かが部屋の中で何かを動かす音が聞こえた。


「あと数秒……」

 と心の中で呟き、彼はドアノブに手をかけた。

 だが、ドアを開けた瞬間、部屋の奥で彼を睨むように立っている少女の姿が目に飛び込んできた。彼女は怯えた様子で後ずさりし、必死に何かを叫ぼうと口を開く。黒井はその行動を読んで、すぐに一歩前へ踏み込む。


「騒ぐな、何も感じる間もないように終わらせる」

 黒井は冷徹な眼差しのまま、コートの内側に隠していたグロック18へと手を伸ばした。彼の指がグリップを掴むと同時に、意識はすべて標的である少女に集中する。

 だが、彼の行動を見た佐倉有希は本能的に後退し、壁際に追い詰められていた。


「無駄な抵抗はするな。お前に逃げ場はない」


 冷ややかに告げる黒井の声が、少女の心に恐怖を刻み込む。

 しかし、その刹那、廊下の向こうから再び近づく足音が聞こえ、黒井は一瞬だけ視線をそちらに向けた。

『黒井、何をしている!早く片付けろ!』

 通信からの指示が彼の耳に響く。


「分かっている……」


再び標的に向けてグロックを構え直すと、黒井はわずかな迷いも消えた表情で引き金に指をかけた。その瞬間、少女の目に涙が浮かび、かすかに震える声で叫ぶ。


「どうして……こんなこと……」


 その問いに黒井は一切の返答をしない。彼にとっての任務とは、感情も躊躇も必要のない、ただ冷徹に遂行されるものに過ぎない。

 しかし、わずかな後悔と痛みが胸の奥底に生じるも、それを振り払うように一気に引き金を引こうとしたその時、

 突然後方から鋭い物音が響き、黒井は反射的に振り返った。廊下の奥に影が見え、誰かがこちらに向かって全速力で駆け寄ってきていた。警戒心を高め、すぐさま再びグロックを構える。


「警察………か、厄介だな。逃走ルートの誘導を頼めるか?」


 黒井はそう呟きながら、イヤホンに手を当て、待機しているはずのオペレーターに呼びかけた。静かな電子音が応答し、低く落ち着いた声が耳元に響く。


『了解、黒井。廊下左手に階段がある。それを駆け下り、東側の非常口へ向かえ。そちらは警備が手薄のはずだ』


 黒井はその指示に従い、警戒を怠らないまま廊下の左手へと視線を移す。

 だが迫り来る足音は止まらず、敵はすぐそこまで近づいていた。時間がないと判断した黒井は、グロックを片手に廊下を駆け出し、指示された階段を目指して疾走する。


 イヤホン越しの声が再び指示を出す。


『非常口まであと30メートル。目標地点には監視カメラがある、姿勢を低く保て』


 黒井は頷きもせず、淡々と息を整え、敵の目を掻い潜りながら計画通りに進行していった。


 黒井は姿勢を低く保ちながら、廊下の角を曲がり、指定された階段へと飛び込んだ。階段を駆け下りるたびに足音が響くが、背後の追手もまた彼の存在を捉え続けている様子だった。イヤホン越しの声が再び響く。


『階段を降り切ったら左へ折れろ。次の角を曲がれば非常口が見える。だが……』


「何か問題があるのか?」


『非常口の先にも数名の警察が配置されている可能性がある。時間を稼ぐか、別ルートに切り替えるか、判断は君に任せる』


 黒井は一瞬だけ思案し、時間を稼ぐ方を選んだ。非常口に突入する直前で立ち止まり、グロックをしっかりと構えて待ち構える。


 背後から迫る敵の気配がさらに近づいてくる。

 そして次の瞬間、角を曲がってきた警察官が黒井に気づいたが、その時には既に黒井が一歩先を取っていた。彼は躊躇なくグロックを構え、冷静に狙いを定める。


「……下がれ」


 その低く鋭い声に一瞬怯んだ相手を横目に、黒井はわずかな隙をついて非常口に向かって再び駆け出した。階段下の非常口が目に入ったその時、後方から銃声が響く。肩にかすかな痛みを感じたが、立ち止まらずに非常口を蹴破り、冷たい夜の風が吹き込む外へと脱出する。


 イヤホン越しの声が続く。


『よくやった、黒井。そこから東へ進めば、合流ポイントで待機中の車がある。急げ、時間がない』


「了解。こっちも無駄な時間は使わないさ」


 冷静さを保ちながらも、黒井は肩の痛みに耐えつつ、夜の闇に溶け込むようにして車へと向かう。彼の背後には依然として追手の気配があったが、もう振り返ることはなかった。彼の目指すべき場所はただ一つ、次の逃走地点だけだった。


黒井は肩の痛みに耐えながら、指定された合流地点へと全速力で走り続けた。夜の闇が彼を包み込み、足音を消すように静まり返った通りを進む。合流地点に到着する頃には、肩の出血が広がり、痛みが鈍く響いていたが、彼は気にせず車を探した。


「こちらだ、黒井」


闇の中から低い声が響き、車のドアが静かに開いた。黒井は一言も発さずに車内へ滑り込み、助手席に座ると、運転手がアクセルを踏み込む。車は音もなく夜の街を滑り出し、警察の包囲網を抜けていく。


「警察というイレギュラーがあったものの、あそこで俺が躊躇しなければ依頼を果たせた」


黒井は助手席で自責の念を抱き、歯を食いしばった。彼にとって、ほんの一瞬のためらいが依頼の未遂につながったことは、何よりも許しがたい失態だった。彼は、目的のためならば冷酷さを貫けると自負していたが、今回の一瞬の迷いがそれを覆した。


運転手はちらりと彼を横目で見て、静かに問いかける。

「お前が躊躇するなんて、珍しいな」

「いや、なんでもない。下らない話だ」

 黒井は小さく息をつき、窓の外に視線を投げかけながら低く答えた。

 彼の声には自嘲が混じり、その冷ややかな表情にかすかな痛みが滲んでいた。

 運転手はそれ以上触れるべきではないと感じ、話題を変えるようにアクセルを踏み込み、車を加速させた。


「次の依頼は、お前の迷いを無くせるいい機会になる」


 黒井は短くうなずき、今度こそ迷いなく任務を遂行することを心に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る