投影

 雑居ビルの奥の奥に憧れの店を構えたのはいいものの、あまりに奥まったところにあるため看板を置いても客がドアにたどり着けず、彼女の店に客足はほとんどなかった。女主人は今日も店を開けるだけ開けると、自分のために酒を開けてつまみを作り出した。

 酔っ払ってふらついた頭で、穴だらけの耳に新しい穴を開けるため、彼女はカウンターに鏡を置いてそれを覗き込んだ。

 その途端、からんからん、と心地よい木製のドアベルが鳴るのに慌てて顔を上げる。


「いらっしゃい」


 体のシルエットを隠すゆったりとしたパーカーとジャージの客は、店の中を覗き込み、店の主人一人しかいないのをじっくりと確認すると中へ入って扉を閉めた。目深に被ったフードから幼く半端に開いた口が覗く。


「なんかお酒じゃないの、ありますか」


 声は女だった。


「十九歳? 生真面目だね」


 夜遊びに興味の出た女子大学生かと思って、女主人は飲み口を下にしたグラスを持ち上げながら大人らしく笑ってそう言った。ううん、と彼女がカウンターに近寄り位置の高い椅子によじ登りながら首を振る。


「違う」

「ウーロン茶とリンゴジュース、どっちがいい……じゃ、アンタ酒弱いんでしょう」

「リンゴジュース。弱いっていうか、未成年だもん」

「じゃあ十八?」

「十六」

「帰りなよ」

「嫌だけど」


 なんとも、ふてぶてしい十六歳だ。こんっ、とカウンターにジュースを注いだグラスを置いて、女主人は思わず自分の方にグラスを引き寄せた。


「アンタ金持ってんの?」

「千円札持ってきました」


 なら、まあ、いっか。女子高生の前にコースターを置き、グラスを置いてやる。彼女はちびっと口をつけ、顔を上げてくるりとしたつぶらな瞳に店内の妖しい灯りを反射させた。そのアンバランスさになんとなく罪悪感が湧く。


「お姉さん、名前は?」

「あら、口説かれてる?」

「私、透瀬」

「私はフミカ。透瀬って苗字?」

「ううん、下の名前」

「かわいいじゃん」


 透瀬が返事を返さずに唇を尖らせながらジュースを啜る。


「やぁだ、照れちゃってかっわいい」

「食い逃げするよ」

「やめて」


 くふふ、と小さな口が歯を見せて笑う。フミカはどうしようもなく表情を緩めてしまいながら、自分も彼女の正面に椅子を持ってきて腰掛けた。新しいグラスを持ち上げ、水を注ぐ。


「なんでこんな奥まったとこまで来たの? 危ないよ」

「フミカさんだって危ないじゃん」

「あたしは大人。屁理屈言わないの」


 彼女は少し笑みを残したまま、ふに、とためらうように唇を何気なく動かした。


「んー、奥の方が人がいないかなって思って。一人でゆっくり飲みたかったから」

「んん、じゃああたし話しかけない方がいい?」

「ううん、私、喋り相手に飢えてる」

「そ、好きに喋りなさい」

「相槌がないと嫌だよぅ」

「ふふ」

「あたしね、寂しくて、ここ来たの」


 彼女が明るい表情で言う。


「家族に愛されてるのに足りなくてさぁ、自分が生きてる意味が分からなくてさ、誰彼構わずに愛して! ってなっちゃう」

「苦しいね」

「援交しそう。あたし性欲強くてさ」

「へー、かわいい顔して」

「でも知らない人は嫌なの。フミカさん、誰か紹介して」

「あたしの友達、悪い大人ばっかりだからね〜。どうかしら」

「助けて」

「どう助けたらいい?」

「ここで雇って」

「とーせの高校はバイトいいの?」

「ダメだけど」

「じゃあダメね」

「さみしい」

「分かるよ」

「悲しい」


 彼女の声が震える。


「なんでか分かんないの。なんで足りないのかも、なんで悲しいのかも」

「悲しいのが分かったら、それで充分だよ」


 フミカは彼女の方を見ないようにしながら優しく言った。


「悲しいのが分かったら、悲しいって言えるでしょ。悲しいって言えたら、それ以上は分からなくていいよ」


 悲しいからね、と筋の通らない理由で彼女を説得する。


「でも援交はやめときな。いいことないよ」

「うん」


 透瀬はぼろぼろと泣きながら頷いた。


「話を否定しないで聞いてくれて、でも最後には止めてくれる人、私も欲しかった」


 フミカはそう言って、椅子から立ち上がり店のバックヤードに入った。ボックスティッシュを持って戻る。


「泣かないで。かわいい顔が台無しだよ?」


 透瀬がティッシュを取り、鼻をかむ。


     *


「いくらですか?」


 ジュースをゆっくりと飲み切って、透瀬が言う。本当の料金とは違うけれど、フミカは千円札を受け取って七百円にした。


「じゃあ三百円貰おうかな」

「わあ、もしかしておまけしてくれた? 絶対安い」

「んま、そういうのは、自分が大人になってから誰かに払いな。優しさのリレーってやつ」

「ありがとうございます」


 す、の形にぷっくりとした唇が愛らしく窄まる。フミカはカウンターから身を乗り出してその唇を塞ぎ、初めて近くで見る透瀬の目を見つめた。


「かわいいねぇ」


 ぱっ、と真っ赤になるまだあどけない顔を両手で包み、優しく撫でて離す。


「もうこんな深夜に出かけるなんてダメよ」


 空になったグラスを持ち上げ、フミカは透瀬の少しずれたフードを引っ張って目深にさせた。

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