書き散らしファイル
日ノ竹京
眠り姫と王子様役
私はなぜ私がこれだけ大成できたかと問われたら、愛おしい彼女のおかげにするだろう。実際には彼女は全ての結果で、私が成し遂げたことに一切関わっていなくとも、まるで蝶の羽ばたきが台風を起こしたと言わんばかりの誇張を加えて嘘をつくだろう。ただそう思い始めたのはつい最近だから、もう引退した私にはそんな風にホラを吹く相手がいなかった。
私は今年で三十になる。職業は、たくさんの業種をいくつも渡り歩いてきた。今は無職ということになる。生きているだけで口座に過去の実績の残りかすが振り込まれるのは面白かった。
私は天井の高い広い部屋で一人布を縫ったり結んだりしながら、ちょっと顔を上げて制作中の“ベッド”を見た。
今はセットに凝っているから、舞台作家を名乗ることにしようか?
いや、舞台作家を志す人間に失礼だ。私はただの無職のおっさんである。
ふっ。
私はなんとか朝の気配の薄いのうちに仕上げを終えて、最後に“ベッド”を離れたところから見て最終確認をした。実際には、ハンモックだ。純白の透き通ったベールを重ねて天井から吊り、何重もの天蓋の中に隠したもの。全て薄いベールでできているのでふわふわと窓から吹き込む緩い風に揺れている。中に清らかな陽光を孕んで、綺麗だった。
私はその出来栄えに満足して、スタジオを離れた。全ての部屋、廊下の壁の一面はガラス張りになるように設計したこの家は早朝ながら充分に明るく、私は早足にリビングに向かった。さっさとこの空きっ腹を黙らせて、撮影を始めないと。
適当にパンを腹に詰め込み、私は急いで前記の彼女の部屋に向かった。彼女の部屋はリビングの真裏で、私の寝室とスタジオに挟まれている。私は眠る彼女に何か異常がないか確認し、彼女のおむつを清潔なショーツに変えた。人形に着せるような可愛らしいネグリジェを袖のないワンピースに着替えさせ、椅子に座らせて今や身長よりも長くなった艶やかな黒い髪を丁寧に梳く。
私は彼女を横抱きにして部屋を出、四段ほどの階段を登り、展望台のように小さな崖から半分張り出したスタジオに入った。先程完成したベッドに彼女を寝かせ、そうっと白い額を指の背で小さく撫でる。今更、王子様にはなれないことを確かめたりはしない。とは言いつつ、そう主役に興味はなかった。主役に生まれなかったことに喜びすら感じている。
私は一歩後ろへ下がって何重ものカーテンを軽く閉めると、後ろを振り向いて少し離れたところから彼女が眠る様を眺められる小さなスツールに座った。カーテンの隙間から、夜空のように深い色をした髪と乳白色の小さな手がベッドから出てだらんと下がっているのが見えた。その陶器のような指に力が通って自分に絡むのもいいけれど、その気のない彼女に僕ばかりが猛る方が落ち着くし、それが理想で、正解だった。
寒々しい人気のない海に力強く鋭い枝が被さり、鮮やかに色づいた葉を落とす。窓が切り取るその荘厳な風景すら自らの栄養にして、“ベッド”が風に優しく揺れた。床に水紋を作る長い髪と、白い手。小さく覗くそれが美しい景色の主役として君臨していた。
私はそれらから目を離さずに手探りでジーパンのボタンを外し、ファスナーを下ろした。
*
彼女の名前は、結花と言う。私と同い年で、交通事故に遭い眠り姫となってしまうまではわんぱくな保育士をやっていた。まだ離婚していなかった頃娘を迎えに行ったとき、エプロンの裾を水溜りにつけながら園児と一緒に泥団子を作っているのを見かけたことがある。輪になって屈み込み、誰も言葉を発することなく黙々と団子を磨く様子はいつ思い出しても愛おしくてたまらなくなるが、そういった言動ももう見れないと思うと、少し残念だった。ああ、思えば植物状態になった彼女は、名前の如く花を結んだのかもしれない。
こんな状態が人生の盛りとでも?
はぁ。
つまらないブラックジョークから透かし見ても、彼女は綺麗だった。私は吹き込んできた涼やかな風を吸い込んで気分を入れ替え、スツールから立ち上がる。彼女を始めの通り抱き上げ、元のベッドに運ぶ。家に呼ぶ介護士がやりやすいように上下が分かれたパジャマに着替えさせ、布団をかけてベッドを整えた。
もう少し喋るなら、結花は、その美しくお人好しな様子から恋人がいないときなどないほどよくモテた。しかも、なんと幼稚園生のときからだ。私が彼女への恋心を自覚したのは確か中学生の時だったが、その嫉妬や苦しさは身を焦すようだった。まあ、彼女が幸せならいいとポジティブな感情に入れ替わるのも早かったけれど、私は気心知れた親友であったから、恋人と別れたという泣き言を聞くたびに心の底に押し込めたはずの欲望が目を覚ますのは辛かった。
僕なら、泣かせたりはしないのに。私なら結花を一生幸せにするのに。
幸せにするとほざいて、その頃から私は眠る彼女を犯そうとする狂人と海辺のサナトリウムに閉じ込めることを想っていたのだろうか?
きっと思っていただろう。
ぴぃんぽぉん、と間延びしたインターホンが家に鳴り響く。入浴介護を頼んだ、スタッフたちだろう。私は彼らを迎え入れ、結花の部屋へ案内した。結花の体調を見、スタッフたちが専用の浴槽を部屋に運び入れて彼女を入浴させる。普段は私が温めたタオルで体を拭いて済ませているが、時々はしっかりと体を清めた方がいいだろうと定期的に利用していた。せっかく美しい長い髪も、脂っぽくなってしまうから。
私は結花のベッドに座り、スタッフたちが結花の身体にボディタオルを滑らせるのを眺めた。介護士の一人が女性で、変なことを心配する必要はないのだけれど、結花の近くに人がいる限り、私は彼女のそばを離れることができなかった。彼女が口説かれるのが我慢できないからというよりは、苦しんで、愉悦に浸るためだ。
……違うな、彼女のどんな表情も、たとえ苦しくても見逃したくないだけだったのに。
僕は、……僕は結局、いつも自分勝手だ。
ぼうっと眺めている間に入浴が終わり、結花は濡れた体を拭われると私が渡したネグリジェに着替え、丁寧に髪にドライヤーをかけられた。凛とした顔立ちの広い額にさらりと前髪が流れ、愛らしさを纏う。毎度のことだが、スタッフは長い髪を全て乾かすのにもたもたと苦戦していた。だが結花が気高い姫然とするこの光景が私は好きで、ゆっくりと見つめていた。
最後に元通りベッドに眠らせ、スタッフたちが片付けをして引き上げていく。私は彼らを見送って、結花の部屋に戻った。
彼女は私の全ての根源に関与している。家を作れるようになった意味も、作り出したもので稼いだ意味も、この人生の意味も、私が出した答えを辿ればどこかに彼女の足跡が、声の名残が、私をそうっと歪ませた痕跡があるだろう。だから、たとえ私が目指していたのが途中まで別のものであっても、その全ては彼女に還元される。
私の全ては、彼女に捧げている。
結花。
小さく囁き、前髪を絡ませるように額を近づける。
今日は僕は、一日、スタジオにいるからね。起きたら、廊下を左に行って外へ逃げるんだよ。正面の道を曲がらずに行ったら、交番があるからね。
頭のおかしい兄から逃げなさい。
最愛の妹__が気の抜けるいびきをかき始めて、私は思わず笑ってしまう。
ごめん、結花。
僕はそうっと彼女の髪を撫で、紅潮した赤い唇を塞いだ。
君が目覚める日が来るまで、もう少し、
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