第20話 もう一人の乗客
私はその日のうちに外出許可を貰い、市場の古着屋で質素なワンピースとマント、スーツケースを買った。
お金は貯めていたお給金から出した。
王妃様は金貨をくださったけれど、こんなところで使うわけにはいかない。
庶民は銅貨、せいぜい銀貨だ。銅貨二十枚で銀貨一枚、銀貨二十枚で金貨一枚になる。
西隣のヴェルセラ王国までは定期の駅馬車が出ている。
私はそれを利用するつもりだった。
なるべく目立たず……。
御主人様にも気付かせず……。
「国境越えの証明書だよ」
マルク男爵が、封筒に入ったそれを渡してくれた。
落とさないように、革袋に入れたお金と一緒に首から下げる。
長い髪は邪魔にならないように三つ編みにした。
フードをかぶれば、もう別人。
メイド服は畳んで、きちんと整えたベッドの上にドレスと並べて置いておいた。
メイド服を着て学んだことはたくさんある。
クララ、別れを言えなくてごめんなさい。
メイド長のジェルレーヌ、厳しくてちょっと意地悪だったけど、あなたのおかげでメイドらしい振る舞いを学べたわ。
料理長、御主人様の悪戯に悩まされた者同士、仲良くしてくれてありがとう。栗のケーキ、美味しかったわ。
王妃様、お世話になりました。
書き物机の上に置いてあったマロニエを一個ポケットに入れた。
そして大好きな御主人様……どうかシャルロット公爵令嬢と仲良くしてください。お二人は本当にお似合いです。ひどい悪戯もなさったけれど、芯から悪い子では無いのは、アデリーヌがよく知っております。
スーツケースを買ったけど、中身は肌着だけ。
心の中で運んでいく思い出のほうがずっと多い。
私は裏口から外に出た。
(あの螺旋階段をもう一度見たかったわ)
何度も追いかけっこをした思い出の階段。
ひゅううーと木枯らしが吹き、私はマントをかきあわせた。
私は市場の外れの、乗り合い馬車の始発駅まで歩いた。ほとんど入ってないはずのスーツケースがやけに重い。
粗末な身なりの人たちが馬車を待っている。
貴族やお金持ちは自分の馬車で移動するから、乗り合いの駅馬車なんかに乗るのは貧しい者に限られる。
「よう、女一人でどこまで行くんだい?」
「ヴェルセラ王国まで」
セントレ・エ・シエル王国は治安が良いから私だけでも旅ができる。でも、ヴェルセラ王国ではどうだろう?
「奇遇だな。俺もだ」
「あらまあ!」
「俺は花火職人で冬至の祭の花火をあげるために行くんだ」
「私は家庭教師なの」
「へええ、じゃあ学問があるんだな」
花火職人は自分の頭を指さした。
「俺はこっちは空っぽでよ」
「私はアデリーヌと言います」
「俺はジャック」
花火職人のジャックは背中に大きな荷物を背負っている。
「これは花火の材料だよ。火薬と同じ」
「背負ってて危なくありませんの?」
「混ぜる前は安全だよ」
大した技術だわ。
私に学問があると言っても学者に成れるわけじゃなし……。
「運が良ければ、私も花火を見られるかしら」
「さあな」
話していると、六頭立ての大きな馬車が来た。
「ヴェルセラ王国行きだ! 荷物は後ろに! 余計な物を馬車の中に持ち込むな」
御者がぶっきらぼうに言い、客たちはそれぞれの大荷物を馬車の後ろの棚に乗せた。
落とさないでね。
スカートをたくし上げて馬車に乗ると、中は人いきれで暖かかった。乗客はいっぱいに乗って十人ほどだろう。長椅子が固い。
「お若い方、隣に済まないね」
「いえ、どうぞ」
ジャックの反対側にはしわくちゃな老婆が座った。
「私は占い師でね」
「私は……」
「家庭教師」
占いが当たったわけではない。さっきのジャックとの会話を聞いていただけ。
馬車がゆっくり走り始めた。
聞いていた以上に揺れがひどい。
「おまえさん、いいところの生まれだね。品がある」
「ありがとうございます」
生まれ育った伯爵家を捨てて、
「良いことがあるよ、とても良いことが……」
占いのお礼は払いませんわよ。
先に何があるか分からない今、節約第一ですわ。それに揺れで舌を噛まないように御注意あそばせ!
「大事なものを手放しちゃいかんよ」
「……」
好き好んで手放すわけじゃありませんわ!
馬車は王宮のある都市部を抜け、延々と畑の続く郊外へ入った。
お尻が痛い。
これがいつまで続くのかしら。
馬も大変ね。私たち重いでしょう。
いくつもの駅を過ぎて、夕方、小さな町に着いた。
「みんな降りろ。ここで一晩過ごして、明日の朝、馬車を替えてもらう」
言われるがままにゾロゾロと乗客は馬車を降りて駅舎に入る。ここで一晩過ごすのだ。
駅馬車の客目当ての物売りが来る。
「パンがあるよー」
その声にお腹がキューッと鳴った。
でも、パンを買う前にやっておかなければならないことがある。
「私の荷物!」
「そら、おまえさんのだ!」
「ありがとう」
私はスーツケースを渡してもらった。
「ヴェルセラ王国へは行くのよね?」
「ちゃんと料金を払っていれば、な」
あらら、スーツケースが揺れている。どうしたのかしら?
ぱかん! とスーツケースの蓋が開いた。
「あー、苦しかった」
夕闇の中、明るい金髪がのぞいた。
のんきな声をあげて出てきたのは……。
「ご、ご、ごご(しゅじんさま)!」
心臓が口から飛び出そうとして、胸の中を跳ね回っている。
両手で口を押さえて飛び出さないようにしてるけど!
「アデリーヌ、ここからは車内に乗せてくれ」
「いいえ、朝まで馬車は出ません」
一国の王子が護衛もなく、こんなさびれた町に居るなんて!
どうしよう。
「おい待て、この小僧は無賃乗車だ!」
御者が鬼の形相で怒鳴る。
「すぐにお支払いします。残りは取っておいてください」
私は銀貨を一枚握らせた。
足りてちょうだい。
「後払いはもう一枚」
足元を見られているのね。
私が最初に払ったのは、銀貨半分だったのに。
もう一枚払った。
「見逃してやろう」
ホッと息をつき、恐る恐る、
「あの、引き返していただけませんか? ちょっとこの子は理由があって……」
「無理だね、これは駅馬車なんだ。できるわけないだろう!」
頭ごなしに怒鳴られて、そういうことに慣れていない私は、返す言葉がみつからない。
おまけに、御主人様が、
「帰る気は無い! アデリーヌを追い出すような宮廷からは逃げ出してやる」
ああ、御主人様の悪戯から逃れられると思ったら、最大強度の悪戯ですわ。
王妃様はじめ、宮廷の皆様がどんなに心配していらっしゃるか!
「この馬車の行き先はヴェルセラ王国だな」
「盗み聞きされましたね」
「聞こえたんだ」
御主人様は防寒着を着ていらっしゃらない。
「失礼ですが……」
私は自分のマントで御主人様の小さな身体をくるんだ。
ピタリと寄り添う。
私の胸に御主人様のぷにぷにのほっぺたがぎゅうと押し当てられる。
どきん!
これまでに経験したことのない強烈な気持ちが沸き起こった。誰に対しても抱いたことの無い、激しい感情。どう説明すればよいのでしょう……。
「アデリーヌはあったかいなあ」
そりゃそうでしょ、スーツケースの中でずっと揺られていたんですもの。
そう思いながらもその無謀な行為がいとしくて、私は御主人様を抱きしめる。
「はくしょん!」
「風邪をひかれませんように」
「うん」
すきま風だらけの駅舎で一晩過ごすのは厳しいかも。
最後に売れ残ったパンを買い、パサパサのそれを半分こする。
「御主人様、大きい方をどうぞ」
だが、御主人様は反対にした。
「子どものほうが小さくて当たり前だ」
「そういう訳には……」
御主人様は譲らない。
「申し訳ございません。いただきます」
美味しいです。
宮廷で食べたどんなパンよりも。
「アデリーヌ、泣いているのか?」
「いいえ、気のせいでございます」
空腹は満たされたけれど、どうしよう。
ここはいったんヴェルセラ王国まで行って、王家か侯爵家の乗り心地の良い馬車で送り返してもらったほうが安全かも知れない。
ひっそり宮廷から消えるはずが、御主人様と一緒の逃避行になるとは、思いもかけませんでしたわ。
神様、明日は良き日になるのでしょうか?
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