御主人様は悪い子~悪戯大好き王子の真意は想い人な家庭教師へのメッセージだから~

吉澤雅美

第1話 御主人様は王子様

「御主人様……どこにいらっしゃるんですか!」


 私は懸命に御主人様であるレイモン殿下を呼ぶ。

 宮廷は広く、一日がかりでもすべての部屋を見て回ることはできない。

 御主人様を見逃したのは、確かこの辺のはず……。

 柔らかな麦色の長い髪をかきあげつつ、周囲を見回す。


「あらら、アデリーヌ、どういたしまして?」


 ぎょっ。

 少し声が高かったか、息が切れているのがばれたか。

 

 キメの美しい大理石の大階段に、裾がふんわり膨らんだ公爵夫人の深緑のドレスが映える。

 腕には色とりどりのバラの大きな花束。


「いいえ、ラヴァリエ公爵夫人、お目汚し失礼いたしました」


 私は深々と頭を下げ、お仕着せのメイド服の脇をつまんでカーテシーの真似事をする。カーテシーは身分が上の方々に対する最上の礼だ。

 パリッとノリの効いた真っ白いエプロンのフリルが頬に触れる感触は、それと縁遠いのだけれど。

 

「あなたも大変ねえ。あのレイモン様では」


 は、はは、ははは。

 面を伏せているのを良いことに、やりきれない笑いを漏らす。


 そして、顔を上げようとした瞬間だ。

 あのレイモン「様」が、柱の陰からこちらを向いて、アカンべをしているのが目に入った。


「秋バラが見事に咲きましたね……庭師に花束にしてもらいました。これを王妃様に……」

「あ、はい、お覚えめでたく」


 上の空で社交辞令を口にする。

 気持ちの良い初秋の午後、王妃様のご機嫌うかがいに参上したところなのだろう。


 私だって、もし今の立場でなければ……。


 ……そんなことを考えている場合ではない。 

 早々に公爵夫人との会話を切り上げて、レイモン「様」に、さっきサボった計算問題を最後までやらせなくては。


「お母様、早く行きましょう、アデリーヌなんかとお話しなさっても時間の無駄ですわ」


 まだ幼い公爵令嬢はピンクのドレスに象牙の扇か……いやいや、そんなことはどうでも良い。


 行って。

 お願いだから早く行って。

 

 目の隅に入ったのは、代々伝わる国宝級のタペストリー──金糸銀糸を織り交ぜて国の始祖たるルベールの雄姿を織り出したもの──を、あのガキ……いや、レイモン様がブランコにしている姿。まずい!


 子孫といえども不敬罪でお尻ペンペンでは済まされないだろうし、なにより私の首が物理的に胴体からサヨナラしてしまいかねない。

 タペストリーがぐらりと揺れた。


「ダメェ! 危ない!」


 公爵夫人も令嬢も目を丸くするような大声を私は出していた。

 同時に重い音がして、タペストリーが落下する。


「ああああ、御主人様、あぶなーい」


 無意識に一礼すると、私はメイド服をたくし上げて走った。


 タペストリーを止めていた横木が落ちる。


 シュルシュルシュルッ。


 それを目の端で追いながら、私は自分の体で小さなレイモンをかばった。


 がんっ。


 眼の前に火花が散った。

 横木に直撃された後頭部の痛みを堪えながら、御主人様の無事を確かめる。


「……お怪我は……ありませんか?」

「無い。ありがとう、アデリーヌ」


 レイモン殿下は、私の膝の上から澄んだ湖のような青い目で見上げた。

 髪は黄金の細糸のよう。


 悪戯いたずらさえなければまさに天使だ。


 ぺたりと座り込んで彼を膝に抱えたまま、つい、うっとり見つめてしまう。

 いや、いけない。


 彼の正式名称は、レイモン・ド・ラ・セントレ・エ・シエル。七歳。

 この国の国王夫妻の一粒種、大事な王子様だ。


「殿下、お立場をお考えください。今日のおふざけは度が過ぎます」


 私はレイモン殿下を立たせながら苦言を呈した。

 無駄なのは分かっているけれど。


「アデリーヌ、殿下ではない。御主人様と呼べと最初に言ったはずだ」

「はい……失礼いたしました」


 タペストリーの落ちる音と私が無作法にも上げてしまった大声で、人が集まってきた。


 男性は床に座り込んだ私に眉をひそめ、ご婦人方は口元を扇で隠して何ごとかささやきあう。

 視線が体を刺すようだ。


「アデリーヌ・ド・フレールサクレ伯爵令嬢、このタペストリーがどんな意味を持つか知っていますね?」


 ぴくんと肩が跳ねた。

 メイド服を着て無様に座り込んでいる私を「正式な」名前で呼ぶことが、どれほどの侮辱になるのかをこの男はよくよく承知しているのだ。


「ノルル家宰様、まことに申し訳ありません」


 私は立ち上がりながら返事をした。

 一応宮廷で働いている以上、身分にかかわりなく上司に敬意を見せなければならない。


「……私が至らぬために、このような事態を引き起こし……」


 レイモン殿下のせいだとは言えない。

 私の立場で御主人様を侮辱するようなことは、絶対に言えない。


「そもそも、なんで家庭教師であるあなたが、そんな格好をしているのです?」


 グサグサグサッ……。

 

「新しいドレスが間に合いませんで、一時的にこのメイドの衣装をお借りしております」


 ヒソヒソ、ヒソヒソ……。


 私は、恥ずかしさのあまり、頬が上気するのを感じた。

 

 逃げ出したい。

 ここから。

 メイド服から。

 伯爵令嬢という形だけの呼び名から。

 王子様の家庭教師という立場から。


「アデリーヌ、次は王国史の勉強だったかな?」


 何事もなかったかのように、御主人様が私に小さな手を差し出した。


「は、はい、そうでございます。御主人様」

「ノルル、そういう訳だ。アデリーヌを叱るのは後にしろ」

「はっ。殿下のお言葉とあらば」

「皆の者も立ち去れ。僕は見世物ではない」


 思いがけないレイモン殿下の強い言葉に、集まっていた貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていく。


「御主人様、ありがとうございます」


 二人だけ残され、私はレイモン殿下に礼を述べる。

 あの衆人環視の中から救い出してくれただけで、私は御主人様に感謝した。


「うん」


 御主人様は目をそらしながら、あいまいに答えた。


「御主人様が自分から勉強したいとおっしゃるとは、私は嬉しくて……」


 レイモン殿下が腰に手を当てて反り反ると、艶のある青い絹に金のボタンが、キラッと光る。


「アデリーヌ、あれはウソだ」

「えっ」

「……捕まえてみろ、アデリーヌ!」


 きっぱり宣言すると、レイモン殿下は階段を駆け下りた。


「……御主人様!」


 私はたんこぶのできた後頭部を押さえて、小さな御主人様を追いかける。


 私が裾を引きずるようなドレスを止めてメイド服にした理由の一つがこれ。

 七歳の男の子を追いかけるには、やや裾が短く、動きやすいメイド服の方が合っているのだ。


 広い宮殿は追いかけっこにちょうど良い。

 さっきまでいた大階段ではなく、正面の二重螺旋らせん階段は特別な造りで、上りと下りが別になっている。

 ここに逃げ込まれると最悪だ。


 声は聞こえるのに姿は見えない。


「御主人様、お願いですから……」


 後頭部はズキズキ痛む。

 私は泣きたくなった。


 本当にメイドなら、メイド仲間で連携して御主人様を捕まえられるだろう。

 でも、伯爵令嬢で家庭教師の私、アデリーヌはメイド仲間に入れてもらえない。


「御主人様、日が傾いてまいりましたよ」


 本当に泣いていたのかもしれない。

 眼の前がかすんできた。


「アデリーヌが僕を捕まえたら帰る」


 御主人様の声だけが響いてきた。


「……うっく、えっ……ひっく」

「アデリーヌ、どうかしたのか?」

「……ううう……」


 タタタと軽い足音がして、青い服が見えた。


「大丈夫か、アデリーヌ?」

「……」

「……どうしたんだ?」


 側に寄る気配。

 私はバネ仕掛けの罠のように御主人様に飛びついた。


「捕まえましたよ、御主人様」

「図ったな、アデリーヌ!」

「油断なさる御主人様が悪いのです。さあ、計算問題と王国史のお勉強を……」

「泣きまねとは、卑怯な!」

「まねじゃありません! 本当に泣いていたんです!」


 やっと捕まえた御主人様を抱き上げて、私は螺旋階段を上り、王子用の部屋まで連れて行った。


 重い。

 こんなことを繰り返していたら、腕がたくましくなってドレスに入らなくなりそう。


「あら、アデリーヌ、どこへ行っていたの?」


 声をかけてきたのは、王妃様付きの侍女だった。メイドとは違って、そこそこ立派なドレスを身に着けている。


「……ええ、いろいろと……」

「王妃様が殿下を探していらっしゃるわ。早めの夕食を御一緒にですって」


 え、では、計算問題と歴史は?

 

「王妃様の御用ですので」

「母上のところへ行く。降ろせ、アデリーヌ!」


 とんっと着地して、御主人様はくしゃくしゃになった上着を整えた。


 うう……腕がしびれている。


「勉強は明日だ」

「そう言って、いつも勉強なさらないではないですか。御主人様は悪い子でいらっしゃいます」


 ちょっと口が過ぎたかと思ったけれど、一日中走り回った後ですもの。

 怒るかと思ったのに、御主人様は上機嫌で、


「えっへん。僕が悪い子じゃないと、アデリーヌは仕事が無くなって困るだろう」


 どっと疲れた。

 悪い子なのは私のため? 御主人様の考えていることがわからない。

 この一言で私の思考は停止した。

 

 神様、お慈悲を。

 もっと御主人様をいい子にしてください。

「力」をくださらなかったのは仕方がないけれど、こんなのあんまりです。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

御主人様は悪い子~悪戯大好き王子の真意は想い人な家庭教師へのメッセージだから~ 吉澤雅美 @yoshizawa567

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画