第36話

 温かいシャワーの熱を感じながら頭を整理した。

 

 なんで私は水嶋先輩の家にいるのか。

 そして、なんでお風呂に入っているのか。


 とりあえず、上がったらすぐに制服を乾かして、傘だけ借りて帰ろうと思った。


 体を洗い流し、お風呂から出ると丁寧に折りたたまれたパジャマと置き手紙が置かれている。


『これ着ていいから』


 勉強を前に教えてもらった時に綺麗だと思った文字が並んでいた。


 水嶋先輩は何を考えているか分からないし、時々、氷のように冷たい時もあるけれど、根はとても優しい人だ。

 じわじわと胸が温かくなり冷め切った体は外からも中からも温められた。


 置かれていた服を広げ、袖に腕を通すとちょうどいいサイズだった。

 水嶋先輩はこんなにも大きな服を持っているのかと驚きだった。


 シャンプーも服も水嶋先輩を抱き締めた時にしか感じない香りで、それがずっと鼻の奥に纏わりつくから、視界がぐるりと回る。

 

 そんな様子のおかしい私はお風呂の外に出て、椅子に腰をかけて足を組んでいる水嶋先輩の方を見た。彼女はひょこっと立ち上がって、私の方へ近づいてきた。


「ちょうどよさそうだね」

「服、ありがとうございます。こんな大きいの持ってるんですね」

「それ、お母さんのだから」

「えっ……」


 その言葉を聞いて血の気が引いていく。水嶋先輩のお母さんのことについては少しだけ聞いている。少し話を聞いただけでもお母さんのことが大好きなこともわかるし、そんな大切な人の服を借りるなんて申し訳ないと思った。


「申し訳ないので脱ぎます」

「なんでよ」

「だって、お母さんの服なんて大切なもの……」

「永野だから貸してるんだけど」


 申し訳なくて下を向いていた私はばっと顔を上げた。水嶋先輩は腕を組んでそっぽ向いている。


 彼女の優しさを無碍にする行動を取ったことに反省した。


「ありがとうございます。制服乾かしたら帰ります」

「制服乾かしておいたから」

「え!?」


 そんなことまでしてもらったかと思うと心苦しくなった。そして、私は急いで彼女の手を取った。


 水嶋先輩の小さい手を両手で包み込む。


 やっぱり……。


 自分の体も温めず、私の制服を乾かしていたなんて水嶋先輩は馬鹿だと思う。


「水嶋先輩、早くお風呂入らないと風邪引いちゃいます」

「わかったから」


 ぶんっと手を振られて払われてしまう。

 水嶋先輩はバスタオルやパジャマを準備してお風呂場に向かっていた。


「水嶋先輩、色々ありがとうございました。私、帰ります」

「そう」


 こちらに目もくれず水嶋先輩は棒立ちになっていた。


 帰る支度をしようとスマホの画面を覗くと衝撃の文字が並んでいた。


「運休……?」

「どうした?」

「風と雨で電車止まっちゃったみたいです」


 どうしよう……今日は母が仕事なので迎えには来てもらえなさそうだ。歩いて帰れば2時間くらいはかかってしまうだろう。


「そしたら、うち泊まってけば?」

「へ!? え!? はい!?」

「うるさいんだけど」

「いや、申し訳ないです。お父さんとかにも迷惑でしょうし……」

「お父さん仕事で帰ってこないから大丈夫」

「いや、でも……」

「こんな大雨の中、帰るなんて馬鹿だよ。別に気使わなくていいから」


 どうしようと思ってあたふたしていると頭をぽんぽんとされる。


「いいから早く髪乾かしな。私はお風呂入ってくる」

「は、はい……」


 コクコク頷いて返事をすると水嶋先輩はお風呂に向かってしまった。


 ドライヤーを借りて髪をふわふわと乾かしながら部屋を見渡す。やはり、先ほど玄関で感じた印象と何も変わらなかった。


 良く言えば手入れの行き届いた家。

 悪く言えば殺風景な家。


 水嶋先輩はこの家でどんな毎日を過ごているのだろう。

 そんなことが気になって仕方ない。


 母に部活の先輩の家に泊まると連絡を入れ、水嶋先輩を待つことになった。


 大して時間も立たず水嶋先輩は上がってくる。

 

 アイボリー色の無地な部屋着に、いつもの艶がかった髪は湿ってカールを描いている。

 無言で髪を乾かし、乾かし終わると家は静かになった。


「永野、魚嫌い?」

「いや、好きです。あんまり嫌いな食べ物ないです」

「そう」


 水嶋先輩はそれだけ聞くとスタスタと台所に行ってしまった。何をしたらいいか分からない私はぴっと背を伸ばして椅子に座っていた。その様子がおかしかったのか、台所から笑い声が聞こえる。


「もっとくつろいでいいよ」

「そう言われましても……」


 水嶋先輩は無言で近づいてきて、私の手を引いた。私はテレビの前に座らせられて、テレビが明るくなる。


「テレビ見てて」

「はい……」


 私は彼女に言われるままテレビに目を向けた。

 

 急な出来事が起こりすぎて頭はふわふわとしている。

 

 とりあえず、状況整理をしたいのに頭が熱で焼かれているのか働かない。


 しばらくすると、何かが焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。その匂いに胃が刺激され、先程まで活動を忘れていた内蔵が「お腹が空いた!」と訴え始める。


「永野おいで」

「はいっ」


 水嶋先輩に呼ばれて、彼女の方へ向かうと食卓には美味しそうなご飯が並んでいた。


「これ……」

「永野来るならもう少し具材ちゃんと用意しておけばよかった」

「水嶋先輩って何でもできるんですね」

「なんでもね……。永野はまだまだ私の事分かってないね」


 肩を押され席に座らせられた。

 食卓にはおひたしと焼き魚とご飯と味噌汁が並んでいる。美味しそうなご飯に目までも刺激され、食欲をそそってくる。


「いただきます」


 手を合わせてお辞儀をして水嶋先輩の作ったご飯を口に運んだ。


「おいしい……」

「そう」


 水嶋先輩は美しい所作でご飯を口に運んでいく。一方で私は貪るようにご飯を食べてしまっていた。


 食べる時間はあっという間で彼女の作ってくれた料理はあっという間に消える。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせてもう一度お辞儀をすると水嶋先輩は嬉しそうに微笑んでいた。


「なんか不思議な感覚」

「へ?」

「こうやって誰かとご飯食べたの久しぶりだからさ」

「そうなんですね……」


 水嶋先輩のお父さんのことについては詳しく知らない。ただ、今日も忙しくて帰って来ないということは、水嶋先輩は家に一人の日が多いのではないかと簡単に想像つく。

 

「あの、片付けは私がやります!」

「じゃあ、お願いしようかな」

「ありがとうございます! あと、水嶋先輩って何か好きな食べ物とかありますか?」

「急になんで?」

「今度、今日泊めてもらったお返ししたいなって」

「いらないよ」

「それなら、何かできることありませんか?」


 こんなにいろいろしてもらってばかりは嫌だ。お風呂も服も貸してもらって、ご飯も食べさせてもらった。

 

 私も何か先輩にしたい。


 必死になって彼女に話しかけていたから、知らない間に距離が信じられないくらい詰まっていた。


「なんでもいいの?」

「はい! なんでもいいです!」

「それなら、また泊まりに来てよ……」

「へ?」


 思わぬ回答が返ってきて腑抜けた声が出る。


「嫌ならいいから」

「いやっ、むしろ迷惑かなと思って……」

「私がお願いしてんだから気にしないでよ」


 ふいっと顔を背けられてしまった。


「すみません。あっ、片付けします……」


 私は急いで片付けをした。

 先輩とまた気まずい雰囲気になってしまった……。

 

 そんな暗いことを考えながら洗い物をしていると、九時を過ぎていることに気が付く。眠くなってもおかしくない時間なのに目が冴えていてそれどころではなかった。


 何故か水嶋先輩と横並びでソファーに座っている。蛇口をしっかり捻ったはずなのに、遠くからぽちゃぽちゃと音が聞こえる。


 気が付かれないように横目に彼女を見るけれど、まっすぐ真顔でテレビを見ていて何を考えているか分からない。借りた服からはずっと水嶋先輩の匂いがふわりと香って思考が停止していく。


「そろそろ寝ようか」

「はい……」


 おどおどとしていると水嶋先輩に手を引かれる。

 手がふんわりと温かい。

 

 水嶋先輩の部屋の扉の前に立たされると、水嶋先輩は私に背を向けて、リビングに歩き出す。


「水嶋先輩……?」

「私の部屋のベッド使っていいから」

「水嶋先輩はどうするんですか?」

「私はソファーで寝る」

「そんな……私がソファーで寝ます!」

「客人をソファーで寝かす馬鹿がどこにいんのよ」

「でも……」


 水嶋先輩はくるっと振り返って、私の方は見てくれない。目線を下に落としていてなにも話してくれない。

 

 その様子を見て焦りからか、とくとくと心臓の音が大きくなっていく。それを誤魔化すように私も俯いてしまった。


「一緒に……寝る……?」

「えっ……?」


 がばっと顔を上げると、目が合う前に背中を向けられてしまった。水嶋先輩が今どんな顔をしているのか分からない。ただ、最近まで私を避けて逃げてしまう先輩が、今は背を向けただけで手を伸ばせば届くくらい近くにいる。


 私は深呼吸をして、ゆっくりと手を伸ばして彼女の裾を掴んだ。


「一緒に寝てくれませんか……」

「……うん」


 水嶋先輩は私の横をすっと通り過ぎて部屋の扉を開けていた。私もさっきは寂しそうに見えたその背中を追いかけて部屋の中へ足を踏み入れた。

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