初めてのお泊まり

第35話

 どれくらいそうしていたか分からない。

 日は暮れ、辺りは静けさと共に暗闇に包まれていた。


「もう、帰らないとですね」

「うん」


 水嶋先輩と繋がれていた手がするりと抜け落ち、急に冷たくなっていく。水嶋先輩はすたすたと階段を降りて第二音楽室に向かっていた。


 もっと長くこの時間が続いてほしい――。

 

 いつからこんなことを思うようになったのだろう。


 水嶋先輩と部活で合唱ができるだけで嬉しい。

 水嶋先輩と話ができるだけで嬉しい。


 そう思っていた私は水嶋先輩とこういう二人の時間がもっと続いて欲しいと、今までの生活では満足できなくなっている。


 水嶋先輩は荷物をまとめて、音楽室の扉で待っていた。急いで音楽室の外に出て、暗くなった廊下を歩いていく。


 なぜか無言。

 いや、基本的に私が話しかけなければ水嶋先輩とは会話が続かないだろう。いつも私がしつこく話しかけているから成り立っている関係なのだと思うと、胸がきゅっと苦しくなる。


「水嶋先輩……」

「どうした?」

「途中まで一緒に帰りませんか?」

「いいけど……?」


 首を傾げ、目を細めて私のことを見ている。


 急な誘いに彼女を困惑させているかもしれないけれど、今は自分のわがままを優先したいと思う。


「家はどっちの方なんですか?」

「学校から歩いて十五分くらいのところ。永野は?」

「青田駅から宮町駅まで電車に乗るので、徒歩も合わせると三十分くらいのところです」

「結構遠いところから来てるんだね」

「そうですね。でも、楽しいです」

「そう。じゃあ、校門出たら逆方向だね」

「あの、途中まで一緒に帰ってもいいですか? 水嶋先輩ともう少し話したくて……」


 今日は何故か水嶋先輩ともっと近くにいたいと思った。

 それが無言の時間でもなんでもいいから……。


 水嶋先輩は真顔のままで「いいよ」とだけ言ってくれた。


 昇降口から外に出ると少し土臭い匂いが漂う。

 

 指定靴がコンクリートを擦る音が二つ響く。


 水嶋先輩は相変わらず無言だ。

 

 横顔がとても綺麗で、首には白いヘッドホンがいつものように巻かれている。ヘッドホンのCMなんかに使えそうなワンフレーズだった。


 あまりにも私が見つめ過ぎたせいか、水嶋先輩がこちらを向いて不思議そうな顔をしていた。


「なんか顔についてる?」

「いや! 水嶋先輩ってすごく美人でかわいいなと思って……」

「はぁ? なに急に……意味わかんない……」


 水嶋先輩は髪をぎっと握って、顔を隠していた。


 明らかに不機嫌そうな声だったので、心臓がバクバクと焦り始める。褒めたつもりだったが、逆効果だったようだ。


「すみません」

「謝るなら最初から言わないで」

「すみません……」

「はぁ」


 何を話しても逆効果で、こんなことがしたかったわけではないのに、雰囲気が悪い方向に進んでいく。私の気分が落ちていくのと同じように何かが空から落ちてきた。


 じわじわとコンクリートを水玉模様にするそれは、だんだん地面を覆い尽くし、黒くなっていく。


 体温がぐんと下がって、ふわふわしていた意識が地面に叩きつけられた気分になる。


「永野、ぼさっとしてないで!」


 ぱしっと腕を掴まれて、彼女に手を引かれるまま私は走った。風が急に強くなり、目には何度も水滴が入ってきて、薄く目を開けるのがやっとだ。


 数分足らずで高層マンションのエントランスに着いて、肩を上下にさせるような呼吸を繰り返す。びちょびちょに濡れた制服の袖にぴとっと冷た過ぎる手が当たった。


「風邪引くから雨止むまで家にいなよ」

「え……? でも、急に迷惑じゃないですか……?」

「大丈夫」


 手はびっくりするくらい冷たいのに、私の腕を掴む手は力強くて、反抗することなんてできなかった。


 小綺麗なエレベーターに乗り、五階のランプが点滅する。水嶋先輩はエレベーターの扉が開くと、右に曲がって四番目の扉を開けていた。


 家の中に入ると真っ暗で、水嶋先輩がそろそろと歩きながらスイッチを探している。パチッと音がすると一気に光が灯り、綺麗過ぎる廊下が見えた。


「ちょっとまってて」

「はい」


 水嶋先輩はすっと靴下を脱いで家の中に消えてしまう。


 何もすることのない私は失礼を承知で、きょろきょろと玄関を見渡してしまった。


 こんなことを思ってはいけないのかもしれないけれど、という印象を抱いた。何かが飾られているわけでも、置物があるわけでもない。

 

 引越したばかりの家のようなイメージだ。


 しばらくすると水嶋先輩は戻ってきて、顔にぼふっと大きなバスタオルが乗ってくる。急に水嶋先輩の匂いに包まれて、くらっとした。


「それ使って」

「ありがとうございます」


 私は水嶋先輩の匂いに包まれたまま髪を拭いた。靴下を脱いで家に上がって、水嶋先輩を見つめる。


 濡れたせいでシャツが彼女の肌にぺたりとくっつき、薄紫色の下着がくっきりと浮き出ていて、何故か私が焦ってしまった。


 急いでバスタオルの濡れていない部分で彼女を包んだ。


「なに?」

「自分のこと先にしてくださいっ。私は大丈夫ですので……」


 雨に濡れて寒いはずなのに、じんと体が熱い。

 特に、顔が熱い。


「じゃあ、永野は先にお風呂入ってきな」

「いや、そんな図々しいので大丈夫です……」


 水嶋先輩はくるっと回って私の方にグッと近づいてきた。


「先輩命令――。今すぐお風呂入って」

「は、はいっ」


 先輩命令だから聞いたというよりは、これ以上水嶋先輩が近くにいると心臓がおかしくなりそうだったので、急いでお風呂に向かった。

 

 

 

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