無価値令嬢となりました。完璧大公の愛妻となりました……?

蒼月ヤミ

0 プロローグ(エレオノール)

 部屋に入った途端のことだった。


 背後で、軽い音と共に扉が閉まったかと思えば、目の前にいた彼の腕が、顔の左右で自分を閉じ込めている。さらさらとした長く美しい金の髪の間、すぐそこにある彼の真っ黒な瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。




「エレオノール。貴女は、自分の夫のことをもう少し理解した方が良いでしょう。……そうすれば、いかに今後のことに対する必要な話し合いとはいえ、私以外の男と部屋に二人きりになろうなどと思わないでしょうから」




 優しい声音。さらりと長い灰色の髪を撫で、掬い上げた彼は、こちらに目を向けたまま、その髪に口付けを落とす。穏やかな表情でありながら、ぞくりとするほどの視線。


 知らず生唾を呑み込み、「ですが、あれはクロヴィス様がいらっしゃらないから、仕方なく……」と、しどろもどろに言葉を紡ぐ。言い訳染みた、しかし真っ当な理由。家の主人がいなければ、その妻が代わりに客人をもてなすのが道理だろう。


 何せ相手は、この国の王太子なのだから。


 だと、言うのに。




「待たせておけば良いのです」




 そう、彼は当然というように言い切った。




「王太子だろうと、国王だろうと。私に会いに来たのですから、私がいなければ待つのが筋でしょう。……夫人。貴女の夫は、貴女が思うよりもずっと心が狭く、嫉妬深く、気が短いのですよ。どうかそのことだけでも、覚えておいてくださいね」




 にっこり、と彼は笑う。天使と呼ばれるほどの、それはそれは、綺麗な顔。けれど。


 その柔らかな口調とは裏腹に、空気が張り詰めているように感じるのはなぜだろうか。




「……御冗談を」




 普段とは違う夫の様子にたじろぎながらも、エレオノールはそう言って笑みを浮かべて見せる。自分よりも十歳も年上の、この美しく優美な夫が、嫉妬するわけがないと、そう思ったから。


 自分ならば、まだしも。


 クロヴィスはエレオノールの言葉を、やはり笑みを浮かべたまま受け止める。小さく、息を吐いた。




「……冗談、ですか」




 ぽつりと呟いたかと思うと、彼はそのままの表情で、エレオノールの額に軽く口付ける。親しい者の信愛を示すようなその行為をくすぐったく思いながら受け入れていると、彼はゆっくりと、エレオノールの耳元へと顔を寄せた。囁くように、「やはり」と低く呟かれて、その熱い吐息に、背筋がぞわりとした。




「きちんと教えてあげた方が良いようですね。二度と、冗談などと言えないように」




 「私としては、大歓迎ですが」と言う彼は、心の底から楽しそうな顔をしていて。その表情につられて笑みを浮かべそうになりながら、ふと気付く。


 こちらに向けられた、彼の真っ黒な目。いつもは穏やかで、優しい光を浮かべているというのに。




(……なぜかしら)




 そう、エレオノールは心の中で呟く。


 優しく微笑む彼のその美しい容貌の中。ただその黒い目だけが、獲物を前にした獣のように、薄暗い光を灯していた。

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