[006] 知識の壁

サザウ国ディル領。

 ポッコ村を含むサザウ国内陸部のサト川周域、並びに海に接した港町を幾つか治める。

 その規模はサザウ国第三位に位置する。現領主はコヴ・ヘス・ディル。


 ディル領は他領に比べ、とりわけ発展しているわけではない。


 国境に面しているわけでもなく、王都への中継領という立ち位置がその大きな要因であろうか。

 特産と呼べるものも少なく、内陸の未発展が河川流域という強みも、サザウ国の主産業である海運の発展もあり活かしきれていない。


 サト川の川幅、水量も大型荷物を運送するには少ない。


 主産業は海運用の水資源、材木、豆や麦などの農産品。

 ポッコ村で牧羊が行われていたのは、現領主の意向による近年の試みの一つである。



 幢子の「毒餌」は運良く、目論見の効果を発した。


 翌朝を待たず、狼の群れは村を駆け回った。その足音に眠気も雲散し、村人と衛士、そして幢子は胸を高鳴らせ警戒した。


 やがて「毒餌」食らいつく生々しい咀嚼の音が木霊こだまする。

 最初は勢い良く競っていたその音も、悲しげな泣き声が混じり始め、狼の足音も慌ただしく乱れ始める。


 陽が昇る時刻。

 家屋にぶつかるなど、粗暴に走る狼が現れた様子であったが、村人の家屋から悲鳴が上がることはなかった。やがて、その足音も何処かへと去っていく。


 足音の気配を見計らって衛士がまず戸を開く事になっている。


 教会の戸の内鍵を外しリオルを含む衛士が飛び出すのを、幢子とエルカが見送り支度する。


『故郷で家族が待っている』

『さあ、勝利を掴み取れ』

 その時、幢子は初めて、詩魔法を目にする。


 魔法というモノが存在する世界なのだと、それを実感し再観測する。

 自分の知らない様々な常識が、この世界には数多あるのだと、内心、喜びすら感じる。


 戸が開かれる。

 教会内に朝陽が溢れる。それは幢子がこの世界で初めて迎える朝であった。


 倒された農具、狼の毛がまばらに擦り付けられた家屋の壁。

 飛び込んでくる狼の姿はなかったが、村内で弱り、動けなくなった状態の個体が7匹確認された。


 その多くは口から乾いた血の跡が確認でき、近くには食い荒らされた「毒餌」が確認できた。

 恐らく、鋭い刃物と化した黒曜石を深く飲み込んだ個体もいるのだろう。


 最早、死を待つかのように、抵抗を見せず、また誰もそれを助ける術を持たない。


 衛士の散策によって、間もなく、村外周で活発に走る狼を二匹、また村の中で弱った状態と同様の、横になり気力を失った状態の狼が三匹発見された。


 累計十二匹。

 いずれも、詩魔法によって強化を得た衛士たちにより、難なく無事、処理された。


 周囲の散策は陽が昇りきり、住民の外出が解禁された後も行われる。


 村人同伴の元で発見された豆の畑作地に走り回る一匹。

 サト川隣接地、ちょうど黒曜石の採集が行われた辺りに弱り動けなくなった個体が一匹と、走り回る個体が一匹。これも間もなく駆除。


 十五匹を数え、その錯乱状態から、群れは崩壊し離散したもの、と推測された。


 勿論、数日の警戒と毒餌の配置は行われる。

 幸いにも「狼、十五匹の分」の毒餌の材料は再び手に入ったのだ。

 これは、幢子の指南の元、村人によって積極的に行われた。


 泣きながらその作業を必死に行う婦人の姿があった。エルカはその背中にそっと寄り添う。

 先日、四歳の子を狼の群れによって亡くしたその親であった。

 泣きながら狼から引き裂いた臓物と肉に木槌を打ち付ける。そうする事でやっと前に進むことができたのだろう。

 エルカはその気持ちが判った気がした。


 目的が生まれ、衛士や自警団によって討伐を待つしか無かった時よりも、建設的に、前向きに。


 幢子はそれを「知識の壁」と言った。

 夜、教会で床につく前に、エルカにそう話したのだ。


 自分たちに強い思いやいきどおりがあっても、知識が無く、道も示されねば何もできないと。

 知識がなければ、その「知識がない」という事柄すらも気づくことができない。


 エルカにとってそれが身に染みた。

 その日の朝、自警団の面々が狼を前に満身創痍となった事が目に浮かんだ。


 自分にも十分な知識がなかったのだ。

 詩魔法を扱うこと、詩魔法を扱われること。


 それが衛士の負傷にも、事態の困窮にも繋がってしまった。

 自分の知識があれば、そのための準備をする期間を設けられたのだ。予防もできたのだ。


 泣きながら肉片を叩く子の親の背をさすりながら、エルカはその「知識の壁」の意味を噛みしめる。


 そしてリオルもまた、それを感じていた。


 河内幢子という存在は、「自分たちの知らないもの」であるのではないかと。

 勿論、一介の派遣衛士隊の隊長に過ぎない自分には貴族社会の「知識」という物がどのようなものかはわからない。だが、知りうる限りで、感じる範囲で、「河内幢子」は自分の知る貴族とは別物のように見えた。

 隊員の負傷、最悪、殉死を覚悟した昨日の一幕を、自分にはこの様に覆せただろうか。


 いやできまい。

 ただ詩魔法に頼った「討伐」しか、頭になかったのではないだろうか。


 リオルの目の前で河内幢子は、まるで確かめるように、なたで薪を割っていた。

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