ぼくらのテイムが切れたあと

水谷浩平

使い魔の孤独

序章1. クロ


 その廃墟は凍りつくくらい静かだった。

 誰の足音も、衣擦れの音もない。吹き抜ける風はひっそりと息を潜めるようで、かさり、と床に落ちていた枯葉をひとつ、ふたつと転がしただけ。

 ごくりと唾を飲み込んだのが大きく響いた。

 息をすることさえできなかった。

 沈黙が体を縫いつけてしまったみたいに、ぼくらはその場から一歩も動けなかった。

 崩れ落ちた天井からは、冬の陽が弱々しく降り注いでいる。空気中の埃はきらきらと反射して輝き、無機質な壁がひどくまぶしく見える。

 鼻をすすると、濡れた鼻先が冷たくなった。腐葉土のにおいがする。腐りきった木柱が湿気っているのを感じる。

 でも、それ以上に、鉄のにおいがひどかった。

 血のにおいが強烈に廃墟を満たしていた。


 またゆっくりと風が吹く。埃が舞い、落ち葉が転がり、そして、部屋の真ん中で倒れた死体の髪が揺れていた。まるでまだ生きているみたいに、シキの——ぼくたちのリーダーの髪が風になびいていた。

「シキ……?」

 ぼくの声が虚ろに響く。

「……ねえ、聞こえてる?」

 誰も答えない。

 ぼくの後ろでギンが唖然としているのを感じた。アカネだって動こうとしない。


 震える足でシキに近寄り、顔を近づける。

 眉間に皺を寄せながらも、どこか穏やかで、優しそうなシキの顔。

 眠っているみたいだった。

 仰向けで、大の字になって、太陽のまぶしさに目をつぶっているみたいに見えた。

 でも、そうじゃない。

 このまぶたは二度と開くことはない。その瞳に、ぼくを映すことは二度とない。

 死んでいる。

 はっきりわかった。

 そんなことは一目でわかった。割れた大理石の床は赤黒く染まっていたから。

 この廃墟に足を踏み入れた瞬間には気づいていた。血のにおいが充満していたから。


 いや、慌てて廃墟に駆け込む前から感じていたことだ。

「依頼人と話してる間、クロたちはここで待っててくれ」という言いつけを破ろうと決めた瞬間にはわかっていた。決定的になにかが失われたのだと。

「そんな顔すんなって。大丈夫、すぐ戻ってくるから」とぼくの顎を掻きながら交わした約束は、守られずに終わったんだと。

「あ、ついでに今晩の夕食にウサギでも取ってきてくれると嬉しいんだけどなあ。この前新しいレシピを教えてもらってさ。楽しみにしててよ」と言われたから頑張って捕ってきたウサギは無駄になったんだと。

 全部、廃墟に駆け込む前から知っていた。

 

 ギンが近づいてくる。

 ぼくと同じようにシキをじっと見て、やがて怒ったようになにかつぶやいた。

 でも、ギンがなんて言ったのか、ぼくにはわからなかった。

 もうギンの声はただの狐の鳴き声にしか聞こえない。

 それを指摘するアカネの声だって鳥のさえずりと変わらない。

 ぼくの声だって、ふたりには犬の鳴き声にしか思えないだろう。


 本当に、繋がりが切れたんだと思った。

 ぼくらの主人は死に、テイム魔法は切れた。 

 仲間同士を繋いでいた魔法は消えた。

 ぼくらを繋いでいたシキはもう、ここにはいない。

 血はまだ固まらず、触れた皮膚は温かいのに、風が吹けば髪も揺れるのに、いなくなってしまった。もうぼくの頭をなでてくれることもないし、黒い尻尾に櫛をかけてくれることもない。ぼくのお腹に顔をうずめることもなければ、手持ち無沙汰に肉球をいじってくることもない。


 ぼくたちをテイムした主人は死んだ。

 優しかったシキは死んでしまった。

 なんで? なんで? なんで?

 子どもの頃からずっとそばにいたのに。

 小さかった時からずっと一緒だったのに。

 いつまでも一緒だと思っていたのに。

 灰の中から生まれ変わったアカネをテイムする時も、化け狐だと見破ってギンを仲間にする時も、絶対離れないって言ってたのに!

 なんで?

 視界が滲んだ。喉が熱くなった。


 肺いっぱいになるまでシキのにおいを吸い込み、もう一生吠えられなくなるくらい喉を震わせて、感情のままにぼくは吠えた。

 ぼくの遠吠えはきっと、冬枯れの森の遥か先まで木霊していた。

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