第17話

「はぁ~。アタシ、たまにアンタらが羨ましくなる時があるのよ。テスト勉強と終わらない宿題で忙しいってのに、底辺も極めると逆にお気楽になるものなのかしらねぇ、まったく、その楽観にはおみそれするわ。こっちは進級がかかってるのよ……」

「えへへ、それほどでもないと思うけどなぁ~」

「なんで嬉しそうにするのよこのバカ! 皮肉言ってるの! ひ、に、く!」

「ごめんね、わかったから怒らないでよー。あたしも勉強はキライだったし」


 夕緋の暴言を天然で軽く受け流すエリ。

 今日も路地裏は盛況だ。


「まったく、これだから低学歴の相手は嫌なの! アタシが今いる中学に入るのにどれだけ苦労したことか……ああそうだ、アンタ達、順番に学歴言ってみなさい」

「ん、ええっと、小学校中退? でいいのかな?」

「……同じく」

「すいません。私、わからないです」


 いかんせん記憶喪失中なので思い出せない。

 たぶんどこかの中学校に在学中だったのだろうけど。


「“わからない”は論外としても小学校中退ですって……? ある程度予想はできてたけど3人揃ってヒドすぎじゃない!? あーもう、ついてけないわ。まったく、知能指数(アイキュー)が20違うと会話にならないって言う説もあるけど本当ね」

「あは、そうだねぇ。じゃ、今度からはもっとやさしく話すことにするよ」


 夕緋の言葉を受けたエリがふわりとひとこと呟いた。

 やわらかな語調だったのであっさり聞き流してしまいそうになるもアイネは気づく。そして思う。


 ……え?

 エリさん、今、嫌味言いました?


 いつもは天使のように温和なエリさんがついに嫌味を……!

 夕緋の学歴煽りがよっぽど腹に据えかねたのだろうか。


 軽く衝撃を受けたアイネはチラッと沙知乃に眼をやった。

 すると彼女は持ち前の察しの良さでこちらの心情を読み取ったようで、


「エリはさ、ああ見えてなぜか頭が良いんだよ。だからアレは嫌味っていうより天然の上から目線だね」


 耳打ちするように小さく言った。


「頭良いって……え、えええっ! あのアホっぽいエリさんが!? そっちのほうがずっと衝撃なんですが!」

「うーん……“頭が良い”っていう表現は微妙に正確じゃなかったかも。“勉強ができる”とか“試験でいい点がとれる”って言った方がいいかな」

「ど、どちらにせよ意外すぎます……」


 驚きの事実を目の当たりにしたアイネが視線を元の場所に戻すと、怒った夕緋が今まさにエリの胸ぐらに掴みかかる場面だった。


「アンタも言うようになったわねぇ~! 小卒未満の最底辺が一体何様のつもりなのかしらッ!」

「わあぁ~、そんなに服を引っ張らないでよ破けちゃうって!」

「チッ……!」


 舌打ちしつつ、夕緋はエリから手を離す。

 エリは「も~」とか言いながら軽く息を整えると、またもやポロっと彼女らしからぬ発言をした。


「でもさ夕緋ちゃん、いくらテスト勉強が大変って言ってもだよ。授業をちゃんと聞いてさえいればそこまでヒドイことにはならないんじゃないのかなぁ」

「はぁ? また低学歴が生意気なことを……」

「でも実際、お勉強なんてザックリ言っちゃえば“そのまんま覚える”か“決まり通りに計算する”の2パターンしかないじゃん? “作者の気持ちを考えよう”みたいなヤツはフィーリングでなんとかなるし……。面倒くさいのはわかるけど、いったいなにが難しいの?」


 言って、エリはちょこんと小首を傾げた。

 

 お、おおお……。

 確かにこれは“勉強できる人”の発想だ。

 雰囲気はまったく変わらないのに、発言の内容がいつものエリとは一味違う。


「な……! そこまで言なら、これを解いてみなさいってのッ!」


 叫び、夕緋はカバンの中から算数だか数学だかの参考書を取り出すと、ババッと開いてエリの眼前に突きつけた。

 エリはそれを眺めつつぼやく。


「むぅ……。ごめんね、何が何やらさっぱり……」

「ほぉら、やっぱり出来ないんじゃないの!」

「やり方が書いてあれば良かったんだけどね……。あれ、よく見たら載ってるじゃん」


 参考書を地面に置いて広げると、確かにそこには解答への手引が記されていた。

 どうやら、左ページに解説、右ページに練習問題という構成の参考書らしい。


「へ~、こっちの記号とあっちの記号がかち合った時はこうするのかぁ……。で、ここがアレの場合はひっくり返す、と。えーっと、このにょろっとした変なのはどういう意味なんだろ? あ、前のページを見ればいいんだね……」


 そんな感じでしばらく独り言をつぶやいた後、エリは叫んだ。


「よ~し、わかった気がするよ! 夕緋ちゃん鉛筆!」

「……!」


 訝しげな表情の夕緋から筆記用具を受け取ると、問題集のページに書き込んでいく。


「エリさん、本当に解けるんですか? これ一応中学校の問題ですよね」

「ゆっくりやれば大丈夫だって。……ほらね!」


 “こたえ”のページで自分の解答が正解であることを確かめると、エリはパッと微笑んで夕緋を見上げた。

 彼女はエリから参考書を奪い取り、しかめっ面で凝視してから、


「む……。で、出来てるじゃない……」


 と、絞り出したような声で言った。

 本を持つ手が微かにわなわなと震えている。


「ね、ぜんぜん難しくなかったでしょ?」

「……」

「それで、夕緋ちゃんはこの問題のどこがわからなかったの?」

「…………」

「別の問題を一緒にやってみようよ! あたしが教えてあげるから!」

「(ものすごく小さな声で)ねぇ、アタシって、アンタ以下なの……?」

「ん? 今なんて言ったの夕緋ちゃん。……夕緋ちゃん?」

「エリさん、」


 アイネはエリの肩をトントンと叩いた。

 そしてこっそり耳打ちする。


「ほら、あんまりいじめると泣いちゃいますよ」

「え?」


 パッと夕緋に眼をやるエリ。

 すると彼女もすぐに状況を察したようで「どうしよ……」と小さな声で返答してきた。やはり悪気はなかったらしい。

 アイネとしても夕緋に気を使う義理はないのだが、エリいわく彼女も“友達”のひとりらしいので一肌脱いであげることにした。

 要するに、自然な形でエリを下げ、逆に夕緋を持ち上げることができれば良い。


「あー、エリさん、こっちの問題ってわかります?」


 参考書をパラパラとめくり、眼に入った文章問題を適当に指差す。


「文章題かぁ。どれどれ、ちょっとややこしいけど落ち着いて内容を考えれば……あ」

「はい、わからないですよねー。だってエリさん、“難しい漢字”は読めないんですもん」


 そう。

 エリは地頭が良いだけで勉強が好きなわけじゃない。

 むしろキライだと言っていた。

 つまり、計算問題を超速で理解することはできても、習っていない漢字は読めないのだ。

 そして当然のことながら数学の参考書には漢字の解説は載っていない。


「えぇっと……困ったなぁ。夕緋ちゃん読める?」

「そ、そりゃ読めるけど……」

「わー、すごいですね! 日々の努力のたまものじゃないですかぁ」

「え、そんなにすごいかしら?」

「すごいですって! ほら、だってこっちは小学校中退ですし? 夕緋さんの中学校でやってる範囲までの漢字を全て覚えるにはいったい何日かかるのやら……。ねえエリさん?」

「そうだねー。ねぇ沙知乃?」

「……え? あ、うん。……そうなんじゃない?」

「ね? ほら、みんな言ってますよ」

「そうよね……、アタシ、すごいのよね! 小卒未満の雑魚とは格が違うのよ……!」


 ここにきてなお煽ってくる夕緋に若干の苛立ちをおぼえつつ、しかしアイネはにこやかに言葉を繋いだ。


「では、せっかくですので、高、学、歴、の夕緋さんと一緒にみんなでお勉強会でもしましょうか? 沙知乃さんは語学、エリさんは計算、私は……社会科あたりなら協力できるかもしれません。さっき言ってた終わらない宿題とやらを少しでも片付けてしまいましょう」


 そういうわけで、今日は4人でお勉強をすることになった。

 確かに結構歯ごたえはあったが案外になんとかなるもので、夕緋は難しい漢字をエリに教え、エリはそれを元に文章門題を解き明かした。

 沙知乃は本好き特有の読解力で作者の気持ちを解説し、アイネは社会科の雑多な法律や条例を噛み砕いて説明した。


 そんなこんなでわりかし充実した時を過ごしていたのだが、参考書を眺めていた際、なぜだかフッと……アイネの瞳にとある単語が飛び込んできた。


 『幻楼会』


 その単語はページの隅っこに設置された小さなコラム欄の中に記されていた。

 なぜ気になったのかはわからない。

 けれどもどこか心惹かれるものがあったのだろう。

 アイネは吸い寄せられるようにコラムの行頭に眼を移した。


 ――幻楼会(げんろうかい)の三代目会長は、


「ねぇ、アイネちゃん!」

「わ! な、なんですか?」


 唐突にエリに話しかけられ、アイネはハッと我に返った。


「ん、どうしたのそんなに驚いて? こっちの問題でちょっと聞きたいことがあるだけなんだけど……」

「いえ、別になんでもありませんよ。ええっと、どれでしょうか?」


 コラムの続きも気になったが、まぁ後で見れば良い話だ。

 アイネは社会科の参考書に折り目をつけてエリのほうに向き直る。

 今は宿題を終わらせることに集中しないと。


 しかし、この事をアイネが思い出したのはその日の夜のことだった。

 当然ながら参考書は夕緋が持ち帰っているのでここにはない。


「あ……見逃しました」


 ダンボールの上に寝そべりつつ、アイネはつぶやく。

 エリと沙知乃が眠そうな顔で「どうかした?」と聞いてきたが、アイネはそれを軽くかわした。


 まぁいい。

 折り目はつけたし、次の機会があったら確かめよう。

 忘れるようならきっとその程度のことなのだろうし……。


 思い、アイネはゆっくりと眼を閉じた。

 深夜の都会。

 その中心に位置する狭い裏路地。

 雑多な騒音にまぎれて、エリと沙知乃の静かな寝息が規則正しく耳にとどいた。

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2024年12月29日 20:00
2024年12月31日 20:00
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