エミルと『百の導』

わだち

第1話 出会い


「そこの猫~!止まりなさい~!」




十数年の人生で初めて聞いたセリフに思わず振り返ると、今歩いてきた市場街を、叫び声の主であろう男性がこちらに駆けてきているのが視界に入った。


道行く人をかき分け、必死の形相で進む男性の先に、小さな逃亡者が映る。


そちらに焦点を合わせると、小さな白い果物を咥えた黒猫が人々の足の間を器用に避けてこちらに向かってきていた。



刹那、脳裏に二つの選択肢が浮かぶ。


他の人たち同様、端に寄って道を開ける、もしくは僕と向こうの男性で挟み撃ちにする。


端に寄って猫に逃げられたちゃったら…

でも、無理に捕まえようとして…


などと考えていると男性と目が合う。


「すみませんっ!そこの少年っ!その猫を捕まえてくれませんかっ!?」


息を切らして駆けてくる男性が杖を持っている手をあげて合図を送ってきた。



迷っていたが頼まれてしまっては性格的に断れない。


「は、はい!わかりました!」


手をあげて返事をすると、跳ねるように駆けてくる黒猫を正面に腰を低くして構えた。


両手をそっと顔の前にあげ、タイミングを計る。


軽快に駆けてくる猫。


あとちょっと…


猫が間合いに入る。


今だっ!



次の瞬間、猫の両脇に狙いを定め手を伸ばす。


僕の両手が猫の体を捉える寸前、


スピードを緩めた猫は、地面を蹴って一気に跳躍すると僕の手、頭を踏んで飛び越えていく。



一瞬、思考が止まるも、駆けてくる男性の表情と手と頭に微かに残った感触で現状を把握した。



やばい…

脳裏に浮かんだ最悪が現実になってしまった…


すぐに、猫の背を追うべく振り返ると、僕で華麗な跳躍を決めた黒猫は遥か先。


いや、まだこの距離なら追いつける…!


すぐさま、足を引いて地面を蹴ろうとしたその時——


ドンッ!


背中に強い衝撃を受け、バランスを崩す。

次第に視界が影で染まっていき、遠くに猫の背中を見ながら地面に激突した。






————————————————


「すみませんでした、怪我は大丈夫ですか?」


そう言うと、男性は濡れたハンカチで僕の額を拭う。


まだ少しだけ痛みはあるが、かなり視界は戻ってきた。



先ほどの追走劇の続きですが…

飛び越えられた僕が猫を追いかけようとしたところに、男性が勢い余って激突。

二人で一緒にバランスを崩してその場に倒れこみ、その隙に黒猫は逃亡。

下敷きになった僕は硬い地面に頭を強打し、一瞬意識が飛んだ。



ということで——


今はこうして道端のベンチで回復中というわけだ。


「はい、だいぶ回復しました。それより、こちらこそごめんなさい」


そうして重たい頭を下げると、男性は一瞬きょとんとした表情を見せた後「あ、いえ、私の方は大丈夫ですよ」と胸の前で手を振った。


「どうして、猫なんか追ってたんですか?」


「ん?泥棒ですよ泥棒。口に咥えていたでしょう?白い果物」


かなりマシになってきた頭で、数十分前の出来事を思い返して頷く。


「はい、咥えてましたね」


「市場の果物屋です。ここ一月ほど、毎日盗まれているらしくて…」


「え…毎日ですか…」


一月って三十個近くも…



「はい…店の人間もどうにか対処しようとしたらしいんですけど、さっき見た通り、すばしっこくてすぐ逃げちゃうですよ」


なるほど…

一瞬のうちに視界から消えたあの猫の身のこなしを体験してからでは、簡単に捕まえられないのも頷ける。



「それでーどうするんですか?」


「ん?どうするとは?」


僕の言葉に首をひねる男性。


「猫のことですよ。追いかけて捕まえないと」


「そうは言っても、逃げた先は見当もつきませんし、少年、あなたは通りすがりに巻き込んでしまっただけですから、この後は私一人で…」


「いえ、逃がしてしまったのは僕の責任でもありますし、手伝います、手伝わせてください」


ここまで話を聞いてしまうと、そうですか、後は頑張ってください、なんて丸投げはできない。


顔を寄せて強く訴えると


「わかりました。それではお手伝いをお願いしましょうかね」


男性は納得したように首を振った。


「やった!あ!僕、名前、エミルって言います」


そういえば、自己紹介がまだだった、と名前を言って手を差し出す。


「そう言えば自己紹介もまだでしたね。私、ロイドと申します」


そう言うと、ロイドは片方の手袋を外し僕の手を取った。



「さて、頭の痛みのほどはどうですか?」


身だしなみを正しながらロイドが言う。


そういえば、もうかなり回復してるや。

「問題ないです」


そう答えると、ロイドが勢いよく立ち上がり、笑顔で振り返る。


「では、行きましょうか。エミル」


「はい!ロイドさん!」




二人はベンチを後にし、市場の果物屋へと向かっていった。

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