第2話 不幸な事故と使用人たちの裏切り

 しかし、屋敷には使用人の姿がどこにもなかった。


 プリムローズが玄関の扉を開けたとき、彼女の胸を覆ったのは、言いようのない違和感だった。広大な玄関ホールに響く自分の足音だけが虚しく、あの豪奢だった調度品の数々はどこにも見当たらない。代わりに、かつて絨毯で覆われていた床には、細かな埃が積もっていた。


 サロンへ向かうと、その違和感は確信に変わった。豪華なソファ、柔らかな絨毯、窓辺を飾っていた優美なカーテン――すべてが消えていたのだ。かつて歓談の場だったこの部屋は、ただの寒々しい空間と化していた。


 そして、そこにいたのは意外な人物だった。レストン伯爵の弟であるクリントとその妻ディアナ、そしてその息子スライである。


「クリント伯父様、使用人たちはどこへ行ったのでしょう?  それに……家令のラリーは?」

 プリムローズは声の震えを抑えながら尋ねた。


 クリントは冷めた目でプリムローズを見下ろしながら、表情一つ変えずに事務的に答えた。

「ラリーはすべての財産を持ち逃げした。それだけじゃない。執事たちも手を組んでいたようだし、他の使用人たちの何人かも協力していたに違いない。金庫は解錠され、中にあった貴金属や宝石は一つ残らず消えていたよ」


 淡々と語るその様子に、どこか人ごとのような無関心さが滲む。プリムローズの心にざわめきが走った。家令のラリーは祖父の代からこの屋敷に仕え、父からの信頼も厚かった。裏切るはずがない……そう思わずにはいられなかった。


「そんな……ラリーがそんなことをするなんて、あり得ませんわ。使用人たちも皆、良い人ばかりでした」


「やはり弟と同様、プリムローズも人を見る目がないな。私から言わせれば、レストン伯爵家の使用人など、どいつもこいつも失礼で無能な連中ばかりだったぞ。弟も狩りの最中に妻を射るとはな……なんとも間抜けで愚かなことだ」

 クリントは鼻先でせせら笑いながら、レストン伯爵を鋭く嘲った。


 間抜けで愚か――その言葉がプリムローズの胸に刺さる。クリントが言ったレストン伯爵夫妻の事故死とは――


 レストン伯爵夫妻は領地内で狩りを楽しむことを好んでいた。その日、いつものように二人は獲物を追い詰めていた。しかし、途中で伯爵が誤って妻を射抜いてしまう。驚愕した伯爵は瀕死の妻を抱え、急いで馬を走らせたが、焦りからか彼自身も落馬して命を落とした――という話だった。


 確かに両親が二人きりで狩りをするのは日常的なことだったが、プリムローズにはこの話がどうしても信じられなかった。父がそんな重大なミスを犯すとは思えない。さらに、両親の死後に起きた混乱と使用人たちの裏切り、財産の持ち逃げ――全てが悪夢に思えた。


「カーライルたちは油断しすぎていたのだろうな。狩りに行くなら使用人や猟犬を連れて大人数で行くべきだと、いつも言っていたのだが」


 クリントが目を細めて語ると、ディアナが続けた。

 

「まったくですわ。それに、使用人たちに家財まで持ち逃げされるなんて、一体どれほど信用ならない連中ばかり抱えていたのかしらね……。エルザ(プリムローズの母)の怠慢が原因でしょうね」


 ディアナの言葉には、レストン伯爵夫妻へのお悔やみの気持ちは微塵も感じられない。むしろ、あざけりの色が滲んでいた。


「私の両親を悪く言わないでください! お父様もお母様も、とても立派な方々でした!」

 プリムローズは気丈に反論したが、声がわずかに震えた。



「そのご立派なカーライルだがな、使用人を見る目はまったくなかっただろうが? この屋敷の維持費や税金も莫大にかかるというのに、金庫の中身まで持ち逃げされる始末だ。それにどうやらカーライルには借金まであったようだぞ。我が弟ながら、情けない」

 クリントは肩をすくめ、あくまで冷笑を浮かべながら答えた。

 

 その言葉に、プリムローズは驚愕した。


「……お父様に借金が……?」


「爵位を私に譲れば、負債や財産の整理もすべて引き受けてやろう。葬式も滞りなく手配する。それに、後期の授業料も支援してやる。あと半年で卒業だろう? せいぜい、良いところに嫁に行ってもらいたいものだ。レストン伯爵家の利益になるような家に嫁ぐんだぞ」


 プリムローズは、クリントの声に滲み出ていた傲慢な響きに身を震わせた。この伯父が自分を本気で助けたいと思っているはずがない。利用しようとしているだけだ。それは、クリントの顔に浮かんだ冷ややかな笑みが物語っていた。


 彼女は幼い頃から、この伯父が苦手だった。先代のレストン伯爵――プリムローズの祖父が、爵位を弟であるカーライルに譲ったことを、クリントはずっと根に持ち続けていた。その悪感情は、ことあるごとにレストン伯爵夫妻への嫌味や皮肉として現れた。そして、スライもまた父親に似て、プリムローズを見下すような態度を隠そうともしない。


「まったくだねぇ、父上の言う通りだよ」

 スライが不愉快そうな調子で口を開いた。

 

「叔父上たちは抜けていたなぁ。狩りの不注意で妻を射ったあげく、自分も落馬して亡くなるなんて滑稽だし、その後も大したものだ。使用人たちに財産を持ち逃げされ、家財まで根こそぎ奪われて、挙句の果てに借金があったとはね。まぁ、プリムローズ、君にとってはラッキーだったんじゃない?  僕たちがいるおかげで、学費くらいは出してもらえるんだ。感謝してくれてもいいんじゃないかなぁ?」


 その言葉が、プリムローズの限界だった。


「……学費など、ご辞退させていただきますわ!」


 プリムローズの声は震え、悔しさが胸を締め付ける。目に滲んだ涙を必死に堪えながら、彼女は毅然と言葉を続けた。


「私は学園を退学して、自分で仕事を探します。あなたたちに頼るつもりなど、これっぽっちもありません!」


 プリムローズの瞳に宿る決意の光が、クリントたちに向けられたのだった。

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