ツカマエタ

戸成よう子

第1話

対象者名 鞠川 誠二

職業 製造会社社員

年齢 二六歳

住所 N市西南町3-12-5

電話番号 ……


 足音が聞こえたので、慶太はデスクに無造作に置かれた書類から慌てて視線を逸らした。主のいないデスクの上は、以前の混沌とした状態を一応留めてはいるものの、幾らか片づけられているようだ。

 湯気の立つコーヒー・カップの乗ったトレイを手に戻って来た茂野冬美が、こちらを見て、ああ、と言いたげな表情を浮かべた。

「それ、読んでくれていいんですよ。どうせ、目を通してもらおうと思ってたんだから」

 茂野は一見、年齢不詳。実際は三七歳だと蓮野から聞いたことがある。蓮野が事務所を立ち上げた時からのスタッフで、部下というより片腕のような存在だろう、と慶太は考えていた。

 地味だが、品のいいウールのパンツ・スーツに身を包み、ヒールの音を響かせてこちらへ近づいて来た茂野は、見たところいつもと変わらないように思える。卵のようにつるりとした皴一つない顔にも、やつれた様子は微塵もない。それでも、よく見るといつもより少し化粧が濃い気がしたし、声にも幾分張りがなかった。やはり、彼女も心配しているんだろう、と慶太は思う。

「これが、例の?」

「そう」ファイルごと、デスクから資料を取り上げ、こちらへ差し出す。「蓮野が行方不明になる前に手掛けてた依頼」

 おそるおそる、慶太はファイルを受け取った。ありきたりなプラスチックのファイルに、依頼書を含む数枚の資料が挟んである。

 慶太はぱらぱらと資料をめくった。依頼書を電子化しているところもあるが、この探偵事務所では未だに紙に手書きというスタイルを取っている。電子化しようが、ほとんどの依頼者は対面で調査を依頼してくるので、どうしてもこうなってしまうのだ。

 先ほどの続きを読む前に、慶太は茂野から話を聞くことにした。

「この件を調査している最中に、いなくなったんですか?」

 茂野は頷いた。「調査に出たきり戻って来なくて、翌朝来たら、デスクのそばに鞄とコートが置いてあったの」

 既に何度も聞いた話だったが、慶太は口を挟まず耳を傾けた。

「てっきり、深夜に戻って来たんだと思って、連絡しようとしたけど、応答がなくて。その日一日中、事務所で待ちながら何度も連絡したけど、駄目だった。以来、向こうから連絡と言えるものはなく、行方を晦まし続けているの」

 努めて、だろう。淡々とした話し方で茂野は語った。

「こんなこと、前にもあったんですか?」

 尋ねると、茂野は首を振った。「いいえ。もちろん、一晩中飲んでることくらいはあったけど。行方を晦ますどころか、連絡せずに休んだことすらないんです」

 途方に暮れて、慶太は閉じたファイルに視線を落とした。「そうですか」

「その時、事務所に残されてた鞄が、こちら」

 彼女はそう言うと、薄汚いショルダー・バッグをデスクの引き出しから取り出した。とはいえ、中身については既に聞かされている。「確か、スマホ以外の身の回りの品は、みんな入ってたんでしたね」

「ええ。財布に、手帳、着替え、傘。食べかけのガムや、半年前の領収書、以前なくなったと騒いでた調査資料がぐしゃぐしゃになって押し込まれてたりもしたけど。特に変わったものはなかった」

「スマホはどうしたんでしょう」

「さあ。蓮野はよく、スマホをズボンの後ろのポケットに入れていた。今も、そうしてるのかもね」

 目をしばたかせながら、茂野は言う。本当は彼女も参りかけているに違いない。

 蓮野裕也がいなくなって、もうすぐ一週間。――茂野はそつなく彼の留守を守っているらしいが、それももう限界かもしれない。

「事務所のほうはどうですか? 色々大変なんじゃ――」

「大丈夫」と、茂野はこちらを遮るように言った。「受けた依頼はなんとかこなしてるし、新しい依頼は今のところ受け付けてない。手伝ってくれる人も呼んで、どうにかやってる」

「でも、この依頼は――」

 慶太の手の中のファイルに、茂野はさっと素早い視線をくれた。

「ええ、そう。それだけは、手をつけられなくて。もしかしたら――」そこで言葉を切る。

 蓮野の失踪と何か関係があるかもしれないから。

「そういえば、警察にはまだ何も?」

 その問いに、茂野は首を振った。

「このまま彼が帰ってこなければ、いずれ連絡しないといけないけど、連絡したところで、警察が積極的に何かしてくれるとは思えない。だって、成人男性だし、事件性もないんだもの」

 確かにそうだ。警察への相談以外の、失踪届を出す、などといったアクションを取るとしたら、それは事務所ではなく、彼の身内がすべきことだろう。遠方に住む彼の両親か、あるいは遠縁にあたる自分が。

 慶太は頷き、もう一度ファイルに視線を向けた。「わかりました。ひとまず、これに目を通してみます」

「お願いします。コーヒー、ここに置くね」

 茂野がコーヒー・カップを置いたテーブルの椅子に、慶太は腰を下ろした。「手帳も読んでいいですか? バッグの中に残されてた」

「もちろん、どうぞ」

 じゃあ、わたしはあっちで仕事をしてるから、と言い残して、彼女は立ち去った。しばらくして、パテーション代わりの観葉植物の向こうから軽やかにキーボードを叩く音が聞こえてきた。

 慶太は雑念を追い払い、ファイルの中身に集中しようとした。思考の邪魔をしているのは、なぜ、どうして、といった疑問の切れ端だ。

 蓮野裕也。――四十過ぎの冴えない中年にして、慶太にとっては年の離れた友人のような存在。説教臭いことは言わず、いつも自分を卑下するジョークばかり飛ばしている。のんべえで、お喋りで、いい年をして独身で。典型的な駄目人間のようでいて、茂野のような優秀な女性に惚れ込まれる何かを秘めていて。したたかだが、人の好さを持ち合わせた、嫌いになれないキャラクター。

 今頃、どうしてるんだろう。どこで、何をしているのか。なぜ―― そんなとりとめのない問いが、無限に心に湧き上がってくる。

 まとわりつく羽虫のようなそれを頭から追い、慶太は再びファイルを読み始めた。


依頼者名 鞠川祥子

依頼内容 行方不明になった対象者の捜索

備考 行方不明期間は約一カ月。勤務先から出勤してこないと連絡を受けて発覚。置き手紙等はなし。借金、なし。恋人、なし。二年前に離婚。


「茂野さん、ファイルありがとう」

 立ち上がって近づきながら、そう声をかけると、茂野は仕事の手を止めて振り返った。気がかりそうな目が、こちらの顔を見上げている。「どう、やれそう?」

 慶太は目を逸らさないようにしながら、曖昧に頷いた。

「僕でよければ。依頼内容は割とありきたりだし、手帳も、ぱらぱらと読んだ限りじゃ、調査に支障や問題らしきものはなかったようだし……」

「そうなんです」溜め息交じりに、茂野は言う。「特に問題は見られなくて。犯罪ややくざ絡みといった、危険な調査じゃなかったはずなの。だから、蓮野が何かに巻き込まれたなんて考えにくいんだけど」

 そうは言っても、実際にそれは起きている。もちろん、蓮野がただどこかで飲んだくれているだけ、という可能性もまったくのゼロではないが。

 慶太はおずおずと言った。「その、本当に僕でいいんですか。バイトしたことがあるといっても、僕、浮気調査の手伝いぐらいしかしたことないんですけど」

 と、頼りない実務経験を口にすると、茂野はこちらを安心させるように微笑んだ。

「大丈夫。というより、この件を誰かが引き継ぐとしたら、わたしかあなたしかいないと思う。蓮野の失踪については、今のところほかの人には知らせてないわけだし。他の調査員がこのことを知ったら、動揺するでしょうから」

 慶太は茂野のその言葉を咀嚼した。――つまり、自分が引き受けようとしているこの調査は、蓮野からの引き継ぎであると同時に、蓮野の行方不明調査でもあるというわけだ。

「わたしがやりたいのは山々だけど、所長代理の仕事が結構忙しくて。とても、時間を作って調査にあたるのは無理。だから、あなたにお願いしようと思って来てもらったの」

「わかってます。ただ、僕も経験不足は否めないので――」

「心配しないで。どうしても解決してほしいとか、完璧な仕事をしてほしい、なんて、そこまで望んではいないから。わたしだって、あなたの経験不足ぐらい承知してる。でも、やらないよりはやったほうがずっとまし。そうでしょう?」

「まあ、そうでしょうね」

 茂野は熱を帯びた口調で続けた。「間違いなくそう。それに、あなたも自分のことをそんなに過小評価することはないと思う。経験が足りない、ってのは、できない、ってこととは違うもの」

 慶太はしばらく考え込んだ。それから、ふっと表情を和らげると、

「説得上手だなぁ、茂野さんって。そういえば、蓮野さんが以前、言ってた気がします。あいつはほんと、俺を操縦するのが上手いんだ、って」

 茂野は口に手を当てて、柔らかい笑い声をあげた。「蓮野がそんなことを? 光栄だ、と思っておいたほうがいいんでしょうね」

「褒め言葉だと思いますよ」

「ありがとう」

 やがて、茂野の顔から笑みが引き、口元が引き締まった。「とにかく、返事は急がなくていいから。これは正式な依頼じゃない。どうせ、蓮野がこのまま帰らなければ、この調査は中止にしようと考えてるんだから。だからこれは、依頼というより、わたしからの個人的な頼み。そう捉えてもらって構わない」

 そういうことなら、少し気が楽だ。「わかりました。じゃあ、考えてみます」

「調査を始める気になったら、また連絡して。ただし、あまり長くは待てないけど」

 明日中に連絡する、と慶太は告げた。「それと、蓮野さんの手帳をお借りしていいですか? まだあまり読み込んでなくて」

「構わないけど、借りっぱなしは困る。他の調査の内容や、個人情報が書かれてるかもしれないから。後日、蓮野のデスクに返しておいてくれる?」

「わかりました」

「いい返事を期待してます」

 そう告げて、茂野はくるりと椅子を回し、再びキーボードを叩き始めた。



 事務所のあるビルを出ると、そこは少し肌寒い、夕暮れの裏通りだった。

 ここ、N市は一応、県内で最も栄えている観光都市だ。そのため日が暮れたからといって人通りが途絶えるということはない。むしろ、駅前の目抜き通りなどは昼間とは違った顔を見せ、そこに集う人々で賑わいを見せるとさえ言える。有名店やカフェ、ファッション・ビルが建ち並ぶ通りから横道に逸れると、そこはグルメ・ストリートと呼ばれる一帯で、昼となく夜となく明かりのついた店先や、屋台の暖簾越しに、ラーメンや焼き鳥といったB級グルメの匂いが辺りに立ち込めている。

 そしてまた、別の通りには、夜だけ明かりの灯る店や、けばけばしいネオンの瞬くホテルがひしめき、この街の別の顔を覗かせている。通りを行く人々も、グルメ目当ての観光客とは様相の異なる、後ろ暗いところのありそうな者や、一目見て気質じゃないとわかる者たちだ。大方は、不規則な生活で肌荒れしたキャバ嬢や、そのキャバ嬢と腕を組む客、中年サラリーマンのグループ、カップル、風俗店のボディ・ガード、送迎ドライバー、などなど。

 そして、その中に、慶太たち探偵事務所の調査員もいる。

 ネオンの光が当たらない、薄暗い場所に身を潜め、道行く人々に目を光らせる―― アルバイトとはいえ、そんな仕事を自分がすることになるとは、数年前まで思ってもみなかった。

 慶太をその道に引き入れたのは、無論、蓮野だ。蓮野と会うのは、実に子供の頃以来だった。遠縁の彼は、法事でたまに訪れる田舎で顔を合わせるだけの存在だった。うっすらとしか覚えていないが、その頃の彼は常にふて腐れて酒を飲んでばかりいる、あまり関わりたくないタイプの人だった。両親や近しい親戚も、彼に冷ややかな視線を向けていた気がする。慶太もまた、直接言葉を交わすことはあまりなかったが、なぜかそれほど彼のことを嫌だと感じた記憶はなかった。その頃から、自分はむしろ、堅苦しい両親や、当てこすりばかり言う親戚たちのほうに嫌悪感を覚えていたのかもしれない、と思う。

 それから何年も経ち、大学に入ったばかりの頃。偶然、蓮野と再会した。駅前で彼のほうがこちらを見かけ、声をかけてきたのだ。

 偶然とはいえ、お互いさほど驚きはなかった。慶太はN市の生まれだし、蓮野もまたN市で暮らし始めて長かったようだから。栄えているとはいえ、たかが地方都市だ。偶然出会うことはそんなに大した確率ではない。

 それより、子供の頃以来会っていないのに、よく自分だとわかったな、と慶太は驚いたのだが、その理由は蓮野の職業故だった。彼は探偵事務所の所長で、自らも現役の調査員だったのだ。数年越しだろうと、人の顔を見分けるのはお手の物、というわけだ。

 久し振りに会う蓮野は、飲んだくれの鼻摘まみ者というかつての印象とは違い、ちょっと風変わりな経歴を持つ印象的な人物に思えた。実際、親戚の輪の中にいない時の彼は、明るくて楽しい人物だった。彼と話をするうちに、慶太はどんどん興味を覚え、やがて彼の事務所で働くようになった、というわけだ。

 あれから、約二年。――たまの小遣い稼ぎ程度に、ではあったが、調査員のアルバイトは続けていた。蓮野と再会したことも、仕事のことも、両親には伏せたままで。いつか話そう、というつもりもない。

 路地裏の喫茶店で、慶太は溜め息をつきつつ、視線を落とす。コーヒー・カップの横には、借りてきた蓮野の手帳がある。分厚く、汚れていて、ページの間に何枚も紙が挟んである。その紙が落ちるのを防ぐためか、ゴムバンドで留められていた。

 事務所でさっと目を通しはしたが、書き殴られた字が汚く、読みにくかったこともあり、じっくりとは読んでいない。一体、ここにどんなことが綴られているんだろう。蓮野の失踪後、これを読んだはずの茂野が何も言わなかったところをみると、さほど重要な発見はなかったのだろうが――

 ゴムバンドを外し、再び手帳を開く。それから、開いた手帳をテーブルに置き、背中を丸めてページをめくった。

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