雪椿
長井景維子
一話完結です。
午後3時を回っていた。今年最初の雪が街に薄化粧をしてゆく。駅から家へ帰る途中で何度も傘に積もった雪を払い落とした。水分を含んだ大粒の牡丹雪はまだ水気の残る路面に落ちた途端に消えて、私は白い息を吐きながら、駅から続く長い路地を脇目も振らず歩いていた。
「おばちゃん、この子猫、もらってくれませんか。」
突然背後から小さな子供の声がして、振り向くとランドセルを背負った小学生が傘もささずに子猫を抱えて佇んでいた。男の子だった。私は驚いて、
「まあ、傘もささないでかわいそうに。」
と言うや否や、その子に傘をさしかけて、頭に積もっている雪を手袋をはめた手で払い落としてやった。少年は人懐っこそうな笑顔を浮かべて、
「ありがとう、おばちゃん。」
と言うと、子猫を私に見せながら、
「この子をもらってもらえませんか?」
と、消え入りそうな声で遠慮がちに呟いた。私は、
「君、おうちはどこ?おばちゃん、傘さしてるから送って行ってあげる。風邪引くわよ。」
「家は……。遠いんです。」
「じゃあ、そこの喫茶店であったかいおしるこ食べよう。おばちゃん、ご馳走するわ。凍えたでしょう、かわいそうに。猫はこの紙袋に入れなさい。」
と言うと、私は目配せして、子猫を持っていた百貨店の紙袋に隠した。なぜ、こんな急にこの少年に親切にしたくなったのか、自分でも不思議だった。タオルハンカチをバッグから取り出すと、少年の雪で濡れた髪を拭いた。喫茶店のドアを開け、子猫の入った袋を目立たないように手に提げたまま中に入ろうとした。喫茶店は空いていた。
「あったかいね!さあ、ここはおしるこが美味しいけど、なんでもいいわよ。何か温かいもの頼みなさい。」
少年ははにかんだ笑顔を見せ、服についた雪を玄関の外で払い落としてから、私の後に続いて中に入り、奥の二人がけの席に座った。メニューを見ていると、
「僕もおしるこがいいです。ありがとう、おばちゃん。」
子猫が紙袋の中でミャーと鳴いた。私は店のマスターに、
「ごめんなさい。この中に猫がいるの。ご迷惑かけないようにしますから、この袋のまま持っていていいですか?」
と聞くと、マスターは驚いていたが、
「ええ。何かダンボールでも持ってきましょうか?蓋ができればいいかな。ちょっと待って。」
と言うと、奥へ入って行った。マスターは1分もしないうちに、手頃な段ボール箱を持って現れた。ちょうど子猫が入って少し余裕があるくらいの大きさの箱だ。
「ひどい雪ですね。これは積もりますね。」
と言いながら、箱の中にティッシュを敷き詰めてくれた。
「ありがとうございます。すみません。」
「いえいえ、いつもお世話になってるからおやすいご用ですよ。さて、これでいいかな。ご注文は?」
「おしるこ二つ。」
私は注文すると、少年に、
「食べてて。おばちゃん、家に急いで帰って、車持ってくるから。君を家まで送るわ。」
「僕、家には帰りません。」
「どうしたの?お母さん、心配してるよ。」
マスターは聞こえないふりをしていたが、ちょっと驚いたように少年を見た。子猫は薄茶色のトラ猫の子で、少年は私の質問には答えずに子猫の頭を撫でていた。
やがて、おしるこが運ばれてきた。マスターは何も聞かなかったように、ただ、
「熱いのでお気をつけて。」
とだけ言うと、伝票を置いて、カウンターの奥のいつもの定位位置に戻り、新聞を読み始めた。少年はいただきます、と言うと、ふうふうしながら熱いおしるこをすすり始めた。私は2年前に亡くした息子のことを考えていた。生きていれば今年ハタチになるはずだった。小さい頃はこんな風に素直な子だったなあ、と思いながら少年を見つめた。少年は視線を感じてふと顔をあげ、不思議そうに私を見た。私は、
「美味しい?あったまるでしょう?」
と微笑んで、自分もおしるこの蓋を開けた。
「なぜ、お家に帰らないの?」
「おばちゃんの家に連れて行ってください。僕、お母さんいないんです。」
私は驚いて口をポカンと開いたまま、お箸を落としそうになった。
「そう。困ったわね。うちに来たいの。おばちゃん、いい人だからいいけど、変な人について行ったらダメよ。」
言葉をなんとなく繋ぎながら、どうしたものか考えた。そして、少年の顔をまじまじと見た。どこかで会ったことのある顔をしているような気がして来たが、すぐに思いつかないので、知らない子だということに間違いはないようだった。
「お父さんは?連絡できる?」
「お父さんもいません。」
私は警察に連絡することも考えたが、とりあえず私の家に連れて行って、熱いお風呂に入れてあげたかった。おしるこを急いで食べ、お会計を済ませると、マスターに言って車を取ってくる間、少年を店に待たせていてほしいとお願いした。
「猫やら色々今日はすみません。」
あとで何かお礼をしようと思いながら、家に急いで帰り、車で少年と子猫を迎えにきた。何か面倒なことになりそうだとも思えたが、少年の存在が、亡くなった息子にかぶさって、できるだけのことをしてあげたいと言う思いを抑えられなかった。路面はだんだん白くなって来ていた。ワイパーが凍りかけて、なんどもウォッシャー液をかけながら進んだ。少年を後部座席に乗せて、私は雪道での運転に夢中だった。
猫の鳴き声が聞こえ続けていた。私は、ふとバックミラーを見た。そして言葉を無くした。後部座席に座っていたはずの少年の姿が消えていた。ランドセルごといなくなっていた。猫だけが段ボールの箱の中で鳴いている様だった。
「坊や、どこ行ったの?」
私は車を路肩へ停めたかったが、雪の中でそれができず、とりあえず家へ帰った。そして、もう一度後部座席を見た。心なしか、少年の座っていた後に、座席が濡れている様だった。きっと体についていた雪だろうとも思えたが、私は背筋が寒くなった。
「幽霊!」
車から降りたという可能性はなかった。不可能だった。幽霊に違いなかった。
「猫!どうしよう。」
でも、この猫は飼ってあげなきゃ。車の中で、ふと横を見ると、赤い椿の花が一輪手折られて、助手席に置いてあった。不思議なことに車の中なのに、その椿の花には雪が被っていた。私は直感であの子のお母さんが来たんだろうと思った。すると、涙が溢れて来た。私の息子も今頃、天国で寂しい思いをしていないかしら。困ってないかしら。あの少年の様に母のところへ行かずに他の人のところへゆくなら、椿の花一輪、置いて行ったお母さんの気持ちはよくわかる。
そうか、お母さんがあの子の霊を連れて行ったのかもしれない。私はその椿の花をどうしようか悩んだが、いつもお世話になっているお寺の住職を思い出した。お願いしよう。
私は猫を乗せたまま、雪道をお寺に向かった。私の息子も眠っているお墓のあるお寺だ。椿の花に積もった雪はいつしか溶けていた。
住職に全てを話し、赤い椿の花を供養してもらった。そして、男の子の話に住職は、
「貴方の亡くなった息子さんに変わって、貴方のところに来たんでしょう。血縁がなくても、たとえこの世で縁が無くても、ふと迷って声をかけたのかもしれません。でも、不思議なことです。赤い椿の花には女の人の霊が住んでいる様に思いますが、私にもよくわかりません。ここに置いていきなさい。ここなら大丈夫ですよ。私は霊は怖くもなんともないですから。猫も私が預かりましょうか?」
「いえ。猫は私が飼ってみます。あの子のたっての頼みです。寒そうだったので、お風呂に入れてあげたかったのですが。」
「お風呂には幽霊は入りませんよ。おしるこを食べて、車に乗せてもらっただけで、嬉しかったでしょう。椿の花と猫。ううん、不思議な話です。」
子猫は段ボール箱の中でお腹を空かせていた。私は住職によくお礼を言って、息子のお墓に雪の降る中手を合わせて、家に帰り、猫に温めたミルクをやった。子猫はミルクを飲み、ようやく私に懐いてきた。ちょっと困ったなあ、と思ったが、少年の願いを叶えることが、息子のためになる様な気がして、私はこの子猫を可愛がって育てることにした。
庭の椿の木に赤い花が咲いていた。雪が被っていた。私はそれには気付かずに、猫を抱きしめた。夫が帰ってきたら、今日起こったことを全て話そう、そう思った。
終わり
雪椿 長井景維子 @sikibu60
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