第一章『美知との遭遇(Thaumazein)』

「昨日、クラスの男の子から告白されてしまったのです……」

 目の前に座る、後髪を肩口で切りそろえた小柄な少女が、教会の神父に懺悔するかのように神妙な顔つきでそう口にした。

 もっとも懺悔室はお互いに顔が見えない構造になっているし、真弥自身が懺悔室に行ったことがあるわけでもないので、実際にそんな顔をしているかどうかは分からない。

 ただ――もし人が懺悔をするのなら、そんな表情をしているのだろうなと、なんとなく思ってしまうほど、その小柄な少女――深山真弥みやましんやの実の妹である、深山唯みやまゆいの表情は陰鬱なものであった。

 余程思い詰めているのか、テーブルに並べられた朝食にも一切手を付けていない。

 こういう時に限って、両親は朝早くから仕事に出てしまっていて、家には真弥と唯以外には誰も残っていない。

 いや……それすらも一種の結果論で、実際に両親がこの場にいれば唯はそんなことを口にしなかった可能性だってある。

 兎にも角にも、唯の話を聞いてみなければならないと真弥は思った。

 話さなければ、言葉を交わさなければ……唯が何を考えているのかなんてこと、真弥には何一つ分からないのだ。

「じゃあどうしてそんな浮かない顔してるんだ? もしかして、そいつのことが好きじゃなかったのか?」

「別に、そういうわけじゃないのです……」

 唯はブルブルと震えるように首を振るだけで、それ以上何も言おうとしない。

 その様子は怯えた小動物のようで――真弥には唯が、なにかを酷く恐れているように見えた。

 真弥自身は多少かじった程度で、決して心理学の専門家というわけではない。

 それでも、何かを感じているということを知ることくらいのことはできる。

 例えば唯は今両手を机の下に隠している。

 それは自分の本心を悟られたくないと思っているというサインで、目を伏せているのは何かしらの罪悪感や後ろめたさなど、相手に隠したいことがあるからだ。

 だが、心理学を学ぶことで理解できるようになるのは、相手が何かを抱えているということまでである。

 ――人の心をカバンに例えるなら、相手の持っているカバンの大きさは分かっても、その中身や抱えているものの重さまで知ることはできない。

 だから唯が本当に恐れていることが何なのか、何をそこまで頑なに隠そうとしているのか。

 真弥には、その全てを理解することなんてできない。

「……無理して学校に行かなくてもいいんだぞ?」

 相手が何に悩んでいるか分からない状態の真弥に掛けられるのは、気休めにもならないような、当たり障りのない薄っぺらい言葉だけだった。

 ――いつからだっただろう? 真弥が自分で自分のことを偽善者であると、『優しい人』になりたいと思うようになったのは。

 真弥がそんなことを考えていることを唯が知るはずもなく、唯はただゆっくりと首を振って自分は学校に行くという意思表示をする。

 本当に大丈夫なのかとか、その告白した人物に会えるのかとか、思うところは幾つもあった。

 だがこういう時の唯は強情で、普段は優柔不断でも一度決めたなら絶対に変えようとしないことは誰よりも真弥がよく知っていた。



 本日の五月市はもう三月だというのに、日差しは暖かでも風はまだまだ冷たく、早朝の通学路は未だに肌寒さが残っている。

 とくに通学路は住宅街の中を縫うようなルートになっていて、この時間は日陰に入りやすくて余計に風が冷たく感じられる。

 歩き始めてからもうすぐ十分近く経つとにもかかわらず、体はちっとも暖かくならない。

 それに……唯は未だに静かなままで、その沈黙がどうにも気まずかった。

「おはよう、唯ちゃん! 深山くん!」

 そんな沈黙に一石を投じたのは、真弥にとってよく聞き馴染みのある、元気な少女の声だった。

 声のした方へ真弥が体を向ける。

 そこには明るく微笑んでいるのにどこか儚げに見える――そんな不思議な雰囲気の少女が、真弥と唯に向けて、ひらひらと右手を振りながら立っていた。

「おはよう、六川むつかわ

 六川灯里むつかわあかり――真弥と同じ晨星学園の二年生であると同時に、中学生の頃の同級生である。

 その頃から今日に至るまで、肩まで届く緩いウェーブの掛かったサイドテールが、彼女のトレードマークだ。

 今年になってお互いにクラスは変わってしまったものの、真弥にとって六川は今でも交流のある、たった二人しかいない数少ない友人と呼べる人物の一人だ。

「六川さん……おはようございます、なのです」

 いつものような元気はないが、唯も無視するようなことはせず、小さな声で挨拶した。

「唯ちゃん元気ないけど、何かあった?」

 唯は話すのを躊躇うように口元を横一文字に引き結んだまま何も言わないので、六川は困ったような顔で首を捻った。

「ん〜話してくれないと分からないよ? 話したくないっていうなら、無理には聞かないけど……」

 唯は首を横に振ると、意を決したように閉ざしていた口を開いた。

「実は昨日、クラスの男の子から告白されてしまったのです」

「そっか――それは難しい問題だね、好きでも嫌いでもダメ……か」

 傍から見ると、六川の返答は微妙に噛み合っていない。

 なんというか本来交わさなくてはならないはずの言葉を、二つも三つも飛ばしたような、違和感の残る、不適当な返答だった。

 だがそんな返答でも、言われた当人にとっては違う。

 その証拠に、唯はどうして分かったのか? とでも言いたげな顔で、六川の顔を見つめている。

 その表情を見れば心理学的に分析するまでもなく、六川の返答が唯の求めた正解に限りなく近かった、ということが分かる。

 たった数回の会話で相手の考えていることを当てる。

 六川のその特異な才能こそ、真弥が心理学を学ぶようになったきっかけだった。

 昔から六川は同年代の誰よりも人の考えていることを察することに長けていて、本人曰く。

 占いのようなもので、相手の悩みや困りごとといったものが、手に取るように分かるのだそうだ。

 それが本当かどうかなんて真弥には知る由もないし、どういう方法で人の考えを当ててるのかなんて、皆目見当もつかない。

 正直なところ、六川の占いという答えを、真弥は全くと言っていいほど信じていなかった。

 占いとは、元を正せば統計に基づく一定の相関関係から次に起こることを予測する科学。

 精度の差こそあれど、やっていることは株価の変動を予想するコンピューターなんかと同じだ。

 六川の占いというのも心理学の応用、もしくは他人の感情の機微に敏感であるという生まれ持った脳の構造によるものという理屈で、説明がつく。

 だがそれが科学的に説明できるものか、現代の科学では説明できない魔法のような何かなのかはあまり関係ないし、興味もない。

 重要なのはどんな方法かではなく、六川に唯の力になりたいという意思があるということだ。

「ん~、いっそのこと好きか嫌いかで悩んでいるわけじゃないって、本人に打ち明けられたら楽なんだろうけど……相手がどんな人なのかが分からないと、それも難しいよね」

「……告白してきたのが、六川さんなら良かったのです」

 唯は目を伏せながらも、僅かに頬を緩めた。

「え〜? じゃあもう付き合っちゃう?」

「はわわ⁉ これはそういう意味じゃないのです! その……ものの例えというか!」

「ふふっ、冗談だよ。唯ちゃんは可愛いなあ〜」

「はうっ⁉ 唯のことを騙したのですか⁉」

 唯は頬を真っ赤に染めながら、癇癪を起した子供のように、両腕をブンブンと振りまわしている。

 このまま放っておくと、無限に唯がいじられ続けるうと思うと、あまりにも不憫だ。

 そう思った真弥は、仕方なく二人のやり取りに口を挟んだ。

「六川、あまり唯を揶揄わないでやってくれ」

「ごめんごめん。唯ちゃん可愛いから、つい意地悪したくなっちゃうんだ」

可愛いものを虐めたくなる症候群キュートアグレッションか?」

 つい可愛いものを虐めたくなる衝動を指す語句を真弥が口にすると、六川ははにかみながら頷いた。

「そうそう、食べちゃいたいほど可愛いってやつ♪」

 そんなくだらないやり取りをしているうちに、唯は今朝の陰鬱な表情が嘘のように自然な笑顔を浮かべていた。



 途中で自分の中学へと向かう唯と別れた後、学校に着くまでの道すがら、真弥は隣を歩く六川に尋ねた。

「六川、一つ聞いても良いか?」

「いいよ、何でも聞いて?」

「結局、唯は何に悩んでたんだ?」

 そう質問した途端、六川がピタリと足を止めた。

 真弥もそれに合わせて、足を止める。

「深山くんはさ、人に告白された後のことって考えたことある?」

「ないな……そもそも、人から告白されたことがない」

 肩をすくめ、冗談交じりに真弥が答えると、六川は僅かに苦笑した後、すぐにその表情を曇らせた。

「告白して付き合って、そこで終わりってわけじゃないよ。自分たちがした行動には必ず周囲の反応っていう結果が待っていて……全員がそれを祝福してくれるわけでもないし、同じ人が好きだったって人が、たくさんいるかもしれない」

「それは……そうだけど」

 六川が話しているのは至極当然のことで――あまりにも当然のことすぎて、六川が何を言おうとしているのか、イマイチまだ理解できない。

 ただ一見関係ないような話をしてから本題に入るという話し方は、昔からの六川の癖だ。

 まだ中学生の頃、真弥が周囲の人間が信用できないと言ったときは、六川が『シュレディンガーの猫』を引き合いに出して、人の善悪なんて分かるものじゃないと言っていたものだ。

 六川は神妙な顔つきでさらに続ける。

「唯ちゃんはさ、告白を断ったり受けたりすることでクラスでの自分の立場が変わっちゃうことが怖かったんだよ」

「――それだけ?」

「そりゃ理由は一つじゃないよ。相手のこととか、自分の気持ちとか……根底にある悩みはほんとにシンプルなのに。そういう細かい積み重ねがたくさん集まってぐちゃぐちゃになって、自分でもよく分からなくなって……本当は簡単な問題なのに考えなくていいことまで考えちゃうことも、あると思うな」

 六川は少しだけ寂しそうな、あるいは悲しそうな表情でそう言った。

 その感受性の高さこそ、六川が儚げに見える理由だった。

 ――太陽というには暗く、月というには明るすぎる。

 かといって星というにはあまりにも近すぎる――例えるなら『電球』のような灯り。

 それが真弥から見た、六川灯理という人物の印象だった。

 だが六川がその表情を見せるたびに思う。

 自分には、あんな表情をすることは一生できないだろうと。

 心理学を学べば学ぶほど、自分にはあんな言葉をかけることも、あんな風に人のことを理解することもできないのだと、分かってしまう。

 真弥はそれが寂しかった。

 悔しいとか悲しいとかではなく。

 六川の、本当の意味で友人といえる人物の見ている世界を共有することができないということが、ただただ寂しくてしかたなかった。



 色素の薄い青色の空を、真弥は自分の席から、透明なガラス越しに眺めていた。

 外では騒がしくサイレンが鳴り響き、校門のすぐ側にあるバス停で停車したままのバスは、ピクリとも動かない。

 ここからでは何が起きたかは分からないものの、只事でないことなのだけは確かだった。

 だが真弥は、時折思う。

 それを本気で自分のことのように感じている人間が、一体このクラスに何人いるのだろうか、と。

「同じ人間なのにさ、みんな薄情だよねぇ」

 真弥の一つ後ろの席に座る、前髪を眉と同じくらいの高さで綺麗に切りそろえたおさげ髪の少女が、ふとそんなことを呟いた。

 物憂げなようにも、無関心なようにも見える奇妙な表情で窓の外に顔を向ける彼女の心境は、真弥には全く理解できなかった。

 それでも、その言葉に他人事の様なニュアンスが混じっていることくらいは分かる。

 彼女のそういう投げやりなところが、真弥は前々からどうにも苦手だった。

 苦手なだけで嫌いというほどではないものの、二年間の間に話したことはたった一度しかない。

 もっとも、その会話は殆ど真弥の勘違いで生まれたもので、それ以来気まずくてあまり話せていないかったが……この日、この時ばかりはあまり気分が良くなかったのもあって、普段の真弥と比べて些かぶっきらぼうに言い返してしまった。

「そういう日高はどうなんだよ、何か思うことでもあるのか?」

「ぜ〜んぜん? 別に見てても面白くもなんともないし、まったく興味ないよ」

 日高は頬杖をついたまま、飄々ひょうひょうとした態度で。

 本当に興味がないという点では、真弥よりもずっと薄情だ。

 しかしその発言は普段の日高と比べて直球で、曖昧に言葉を濁さなかった。

 ほんの少しの差ではあるが、人間観察が趣味とでもいうべき真弥にとって、それは大きな差異であるように見えた。

「今日は日高にしては珍しく、随分ハッキリと思った事を言うんだな?」

「あたしとしては、思ったことを口にしただけなんだけど……もしかして、今の発言って『失言』だった?」

 日高は机から身を乗り出し、まるで掘り出し物でも見つけたかのように無邪気な笑みを浮かべている。

 普段の日高からは想像できないほど食い気味に聞くるので、真弥は思わず僅かに身を引いた。

「え〜と、教室みたいな不特定多数の人間がいる場所でするには、不適切な言い方だった……とは思うよ」

 無駄に丁寧な説明口調に僅かながら気恥ずかしさを感じないでもなかったが、日高はそんなことを気にするような様子は全くなく――むしろ納得したかのように頷いた。

「なるほど。同族が損害を受けた時にどうでもいい、とか言っちゃうのはアウトか……うん、覚えておくよ」

「同族って……」

 まるで自分は人間じゃないかのような上から目線の日高の言い方には、さすがの真弥も苦笑いを浮かべるしかなかった。

「それはそれとしてなんだけど、あなたのことはなんて呼んだらいいかな? 苗字? それとも名前? あっ、敬称はどれがいい?」

 あまり話したことがないとはいえ、それは初対面でもない相手にするには少々不自然な質問だった。

 ここまで他人行儀な言い方をされると、真弥もつい癖で何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。

 まず前のめりになって話を聞いていることから、非常に真弥に興味を抱いていることが分かる。

 普段と比べて声のトーンも高ければ、言葉の節々に焦りというか、落ち着きのなさも感じる。

 例えるなら――そう、恋する乙女のような……。

 そこまで思ってから、数回話したことのある相手から好意を抱かれてると思うなんてどうかしていると、真弥は頭を振りながら自嘲した。

「日高の好きなように呼んでいいよ」

「ほんと⁉ じゃあ、じゃあ! 真弥って呼んでもいい?」

 日高の押しが強いので、つい頷いてしまう。

 その呼び方が周囲にあらぬ誤解を招くのでは? ということに真弥が気がついたのは、頷いてしまった後のことだった。

「それで真弥に聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「それは、別にいいけど……」

 語尾を濁しながら真弥が頷く。

「ん〜じゃあ質問なんだけど……さっきの真弥の同族が被害を受けたことをどうでもいいというのは良くないって理屈だと、そもそも人同士で争うのはおかしくない? それって、人類という種族全体で見れば、とんでもない損失だとあたしは思うんだけど……それとも、それによって起こる技術革新による文明の発展を思えば、その被害は大したことがないといえるのかな?」

「――は?」

 日高が何を話しているのか全く理解できず、真弥は思わず聞き返してしまった。

 もちろん言語は同じなので、理解できないはずがない。

 ――強いて言うなら、まるで別の生き物のような、人間の常識から大きく逸脱した価値観が理解できなかった。

 理屈ではなく、心がその価値観を理解することを拒んだというべきか。

「あれ。もしかしてあたしの認識が間違ってた? 人同士の闘争も別の群れとの縄張り争いと考えるなら、より強い群れが残った方が人類にとっては有益である……と言った方がよかったかな?」

 などと、日高は不思議そうな顔でどこかズレた訂正を加える。

 当然のことながら、声をひそめることなくそんなことを話していれば、明らかに『異常』としかいえない発言に周囲の生徒もざわつき始める。

 真弥だってあまり感情的な人間とは言い難いが、それでも日高の『人は争って当然』とも取れる考え方には、忌避感を抱かずにはいられなかった。

「不謹慎ですよ、日高さん!」

 膠着状態に陥った日高と真弥の問答を遮ったのは、長くて綺麗な黒髪の女子生徒だった。

 辻上梓つじかみあずさ――このクラスの学級委員長で、自分から率先して厄介事を抱え込みに行く変わり者である。

「不謹慎? 別にあたしはふざけてないよ?」

 悪びれる様子もなく、日高は平然とした態度で屁理屈紛いなことを言う。

 だが真弥からは日高のその反応が、なにがダメだったのかを本当に理解していないように見えた。

「なら余計に悪いです! 人の命を何だと思ってるんですか!」

「何って聞かれても困るんだけどなぁ……同種の別個体?」

「真面目に答えてください!」

 根本的な価値観があまりにも異なる日高に、辻上は苛立ったようにカツカツと靴を鳴らし始める。

 辻上がこういう仕草をするときは、本気で怒っている時だ。

「あたしは真面目に答えてるつもりなんだけど……真弥はどう思う?」

 日高も相手が怒っているということは辛うじて理解しているのか、助けを求めるように真弥の方へと視線を向ける。

「分からない……けど、その考え方は『普通』じゃないよ」

 真弥はそう言わざるを得なかった。

 日高の考え方を感情的に認めたくないと思っている一方で、日高の理屈が正しいと一瞬本気で思ってしまったからだ。

 ただ――真弥はそれを認めたくなかった。

 それを認めてしまうということは、自分が他人のことをどうでもいいと思っている『優しい人』ではないと認めてしまうことに等しいからだ。

 自分自身、本当に酷い奴だと思う。

 正義感とか人間的道徳よりも、自分が『優しい人』でないことを認めたくないが為に、真弥はそう言ったのだ。

 それは相手に寄り添おうとする六川や、他のクラスメイトのために日高を注意した辻上のように『人を救いたい』と心の底から思っているわけではなく――真弥の善意に主体性がないということに他ならなかった。

 真弥にとって他人に優しくするという行為は、あくまで理想に近づくための手段であり、優しくすることそのものが目的ではないのだ。

 この目的と手段の倒錯を持って、真弥は自分がどうしようもない偽善者であると認識するに至ったのである。

 『普通じゃない』という真弥の回答に同意するように、隣で辻上が腕を組みながら頷いている。

 だが自分のために他人を否定する言葉に共感されたところで、真弥は少しも嬉しくなかった。

「……その言い方、真弥は自分のことを『普通』だと思ってるんだ?」

 日高は唐突につまらなそうな表情をしながら、冷ややかな声でそう言った。

「――ならその『普通』を、当たり前を、誰が保証してくれる? 自分が『普通』の奴だって、どうやって証明する?」

「それは……」

 当然ながら、そんなことができるはずもなかった。

 『普通』かどうかというのは、あくまでも他者からの客観的な評価に過ぎない。

 仮に自分で自分を『普通』と言い張ったとして、それがどれほどの価値を持つだろう?

 きっと、そこに価値など存在しない。

 あるのは自分を『普通』だと思い込んでいる、歪な思考だけだ。

「他人のことを『普通』じゃないと思うなら、自分が『普通』かどうかも同時に疑わないといけないんじゃない?」

 その相手の本質を突いた上で正解でも不正解でもないという論調は、六川の励まし方によく似ている。

 だが日高のその理屈はもっと冷徹で、相手を想う心が存在しない。

 だからこそ……真弥にはその理屈を、心の底から肯定することはできなかった。

「――日高の見解は『間違ってない』かもしれないけど、人としては『正しくない』よ……」

 その言葉を聞いた日高は俯くと、すすり泣くような声と共に小刻みに体を震わせた。

「……日高?」

 もしや今の発言が必要以上に日高を傷つけたのではないか? と不安に駆られながら、真弥は日高の名前を呼んだ。

 だが結論から言うと、真弥のその不安は杞憂に終わることになる。

「アハハハハハッ‼ 良いねぇその答え、ほんと最高ッ!」

 日高は先ほどのつまらなそうな表情とは打って変わって、まるで遊園地に来た子供のようにはしゃぎ始める。

「『間違ってない』のに『正しくない』! 非合理的なその矛盾こそ人間らしさってわけだ!」

 日高は一人で勝手に納得した様子で椅子から立ち上がると、自分の体を抱くような姿勢で恍惚の表情を浮かべた。

「はぁ〜♡ そういう曖昧なものを綺麗に言語化されるのたまんない♡ その上で理解できないギリギリのラインを責められたらっ! はぁ……もうダメ、しゅきぴ♡」

 日高のあまりの豹変ぶりに、真弥は——いや、真弥だけではない。

 周りのクラスメイトも含めて、あまりにも突飛なその反応に、誰一人として理解が追いついていなかった。

 それは気が強くて上級生にさえ意見することのある辻上が、引き攣った表情のまま一歩後ろに退がったほどだ。

 いつの間にか周囲の生徒は日高から距離を取っていて、真弥だけが日高の傍に取り残されていた。

 日高はステップを踏むように軽快な動きで真弥のすぐ隣まで移動すると、真弥と視線の高さを合わせるようにかがみながら、そっと頬にキスをした。

 あまりの衝撃に真弥の脳が完全にフリーズする。

 もはや周囲のクラスメイトのざわめきさえ聞こえてこなかった。

「これが人間にとっての親愛を伝える方法、で合ってたよね?」

 理解できないという点において、日高のことは怪異と呼んで差し支えないだろう。

 そして、他人から見れば一種の気の迷いと言ってもいいのかもしれないのだろうが、日高がどうしてそんな行動をしたのか、どういう経緯でそういう思考に至ったのか――真弥は彼女のことをもっと知りたいと思ってしまった。

 それがどうしてなのか、真弥は自分でも上手く説明することができない。

 それがきっと、六川の言うところの『本当は簡単な問題なのに考えなくて良いことまで考えてしまう』ということなのだろう。

 六川ならどんな相手でもまずは知ることから始めるだろうなとか、日高が何を間違っているのかを教えてあげるべきだとか、きっとさまざまな理由があっただろう。

 だが強いて根底にあるものを挙げるのなら――何一つとして理解できない怪異のような存在に、今まで培った自分の心理学の知識がどこまで通用するのか試してみたくなったのだ。

 自分の理想を実現するための目標……。

 そう表現すれば聞こえは良いが、それは裏を返すなら日高を理想を叶えるための踏み台にしようとしていることに他ならない。

 それは真弥の目指す『優しい人』とは正反対の行為だ。

 それでも、もしそんな相手でも理解できるようになれば、少しでも六川に近づけるかもしれないと……そうすればこんな自分でも心の底から人を想えるようになるかもしれないと――真弥はそう思ってしまったのだ。



 「今日、クラスの女の子から告白されたんだ……」

 同じ部屋、同じテーブル、同じ人物、同じような会話……既視感の塊のような状況に唯は怪訝そうに眉をひそめた。

「それ、今朝も似たような話をしたのです」

「今朝とは状況が逆だけどな」

 くだらない訂正を付け加えながら苦笑すると、真弥は深いため息を吐いた。

「もしかして、その人のことが好きじゃなかったのですか?」

「好きとか嫌いとか以前の問題だな……は」

 真弥がそう言うと、唯はますます表情を曇らせる。

って……一体どんな人だったのです?」

 顔を伏せながら、今日の日高とのやり取りを真弥は思い出す。

 といっても直接会話したのは朝礼の前の数十分だけで――それ自体は真弥の生涯の中でも二度としないような奇妙な体験だったのだが……。

 それ以降の日高は、真弥から見ても一見『普通』であるように見えた。

 授業は至って真面目に聞いているし、要点をしっかり押さえていて質問する箇所も的確だ。

 だが今日一日、日高を観察して気がついたこともある。

 それは日高の『思考』という行為に対する異常なまでの執着だ。

 授業が終わってからもまるで何かに取り憑かれたように、ノートと教科書を交互に見比べては時折『なるほど、そういうことか』と呟きながらノートを書く様は、この学校で上位の学力を持つ生徒と比べても異様だ。

 日高のそれは問題を解く手段として『思考』しているのではなく――『思考』する手段として問題を解いているような、手段と目的が入れ替わっているような違和感がある。

 その最たる例は、学食のメニューを何にするか悩み続け、悩みすぎて結局何も頼まずに休み時間を終えたことだろう。

 以上の点から日高は『思考』ないし、『知る』という行為そのものに対する強い執着があるということが推測できる。

 だがそんなことを唯に話しても仕方がないので、真弥は出来る限り一言で簡潔に纏める。

「一言で説明するなら……まぁ、変なヤツだったよ」

 急に唯が静かになったことを不思議に思って真弥が顔を上げると、対面に座る唯が箸で掴んだおかずを自分の口に運ぶ直前の不自然な姿勢で固まっているのが目に入った。

 口を閉じることも忘れているのか、ぽかんと口が開きっぱなしになっている。

「唯?」

 真弥が声をかけると唯はすぐにハッとしたような表情をして、箸で掴んでいたおかずを口の中に放り込んで咀嚼し始める。

 その様子は、驚いた拍子に突然動きを止める、ハムスターやウサギのような小動物を彷彿とさせた。

 唯は口の中のものを飲み込むと、慌てた様子でこう付け加えた。

「別になんでもないのです! ただ……お兄ちゃんが人のことをそんな風に言うなんて珍しいなって、思っただけなのです」

 確かに人間観察を半ば趣味にしてしまっている真弥も、側から見れば十分に『変なヤツ』だ。

 そんな真弥が言えた立場ではないだろうが、それ以外に的確に日高を評することができる言葉を真弥は思いつかなかったのだ。



 食事を終え、自室に戻る階段を登り終えた辺りで、真弥は何故か自分の部屋の電気が点きっぱなしになっていたことに気がついた。

 不思議に思いながら自室の扉を開けた瞬間、真弥はその選択をすぐに後悔することになる。

 もっとも、どのみち必ずこの扉を開けることになるのだから、それはもう避けようのないことだが――それも結果論……いや、流石にここまでくると運命と呼んでも差し支えないほどの収束率ではなかろうか。

 そんな支離滅裂なことを考えてしまうほど、意味の分からない光景だった。

 何故なら自室に居るはずのない人物——日高美知が、我が物顔で真弥の自室のベッドの上でくつろいでいたのだ。

「遅かったね真弥、晩御飯は美味しかった?」

 にへらと笑いながら、日高はそこに居ることがさも当然のように真弥の方に手を振ってくる。

 扉を開けて外に逃げようかとも考えたが、タイミング悪く唯が階段を登ってきている音が聞こえてきたので慌てて扉を閉めた。

 今このタイミングで日高を刺激すれば、妹にまで危害が及ぶかもしれないと思うと、真弥には扉を開けて逃げ出すという選択を取ることはできなかった。

 それでもドアノブだけは硬く握ったまま、真弥は思いつく限りの疑問を日高に投げつける。

「人の部屋で何してたんだ? というか、ここは二階だぞ? どうやって入ってきた?」

「質問は一つずつして欲しいな、気持ちは分からないでもないけどさ」

 ケラケラと笑いながら、日高は勢いよく上体を起こした。

「それじゃあ一つずつ答えてあげるね。まず一つ目の質問の答えだけど、ここにいれば必ず真弥が戻ってくると思ったから待ってただけだよ。べつにこの殺風景な部屋自体には用がないから、気にしないで」

 真弥の聞きたかったことはそうではないが、下手に刺激しないためにそれ以上深くは触れないことにした。

「二つ目の質問の答えは、普通にそこの窓から入ってきた。別に不思議な事でもなんでもない」

 日高は鍵が掛かったままの窓を示しながらそう言った。

 窓ガラスには割れていたりだとか、鍵が壊されているような形跡は全くない。

 かといってオートロックのある玄関から直接入ってきたとも考え難い。

 つまり日高は、未知の方法を使って、この限りなく完璧な密室に入り込んできたというわけだ。

「なら三つ目の質問だ、僕に何の用があるんだ?」

「それはねぇ、あたしが真弥ともっとお話したかったからだよ」

「はぁ?」

 日高の言葉は恐らく嘘ではない。

 それは一切緊張していない表情や立ち居振る舞いを見れば、すぐに分かる。

 しかし会って話がしたいという単純明快にして突発的な動機で、その家の住人にさえ入ったことを悟らせることなく侵入できるほどの高度な技術や道具を用意できるとは思えない。

 それ以前に、それらしい道具はこの部屋のどこにも見当たらないではないか。

「あたしは真弥のことが『スキ』。だから真弥のことをあたしにもっと教えて欲しいし、あたしのことも真弥にもっと知って欲しい」

 日高はベッドから身軽にピョンと飛び降りると、ゆっくりと真弥のいる部屋の入り口の方に歩いてくる。

「だからまず、真弥がどんな女の子が好みなのかを教えてほしいな」

 二歩ほど離れた場所で足を止めると、真弥も見たことがないほどに自然な笑顔を浮かべて日高は聞いてきた。

「もし言えば、その通りになってくれるのか?」

「もちろん! ほらほら、早く答えちゃいなよ~」

「なら――うちの妹みたいな身長の低い子が好みだって言ったら……日高はどうするんだ?」

 それは不法侵入するような人物にするにはあまりに挑発的で、唯に危害を加えられる可能性を考えれば本来避けるべき言動だ。

 だが相手が『思考』するという行為そのものに執着している日高であるなら、話は別だ。

 あえて不可能とも思えることを問いかければ、日高に一瞬だけ隙が生まれる。

 その隙を上手く突けば、唯の部屋に逃げ込んで鍵をかけるだけの時間を稼ぐことはできるはずだ。

 その後は警察が来るまで籠城することも不可能ではない。

 むしろそうでもしなければ、これほど距離が近くては扉を開けることはできても、外に出ることまではできないだろう。

 クラスの中でも運動が得意な部類に入る日高と、クラスでも下から数えた方が早いほど体育の成績が悪い真弥のどちらに分があるかは明白だった。

「——できるよ」

 しかし真弥の予想に反して、日高は不可能とも思える申し出をあっさりと承諾すると――なんの前触れもなくその場で溶解した。

 それは比喩ではなく、言葉通り日高の体がその場で液状に溶け出したのだ。

 にも関わらず、その粘液の塊は明らかに重力の法則に逆らいながら人型を保っている。

 それは一回りほど縮こまって、再びその姿を変えた。

 材質は粘液から肉へ――髪はもちろん、服のような繊維質も全て例外なく。

 変身する瞬間を見ていなければ本物と見分けることができないほど、普通の人間と遜色ない精巧な質感を持った人型へと姿を変える。

 それは数秒にも満たない、一瞬の出来事だった。

「いきなり実の妹を指名するなんて、もしかしてお兄ちゃんはシスコンさんだったのですか?」

 声、容姿、くすくすと笑う時の仕草……どれをとっても本物の唯と見分けがつかない程そっくりな『ナニカ』が、そこにはいた。

「お前……日高なのか?」

「さっきまでの姿が……という意味なら、遺伝子的には『日高美知』本人と完全に同一の存在なのです」

 理解できないという点において、日高のことは怪異と呼んで差し支えないのかもしれない。

 真弥は確かに今朝、そう思った。

 その認識は何一つ間違っていない、真弥は日高のことを少しも理解していなかったのだ。

 だが今この瞬間から『日高という人間を理解していない』という問題は、真弥が『日高が人間ではないことを理解していなかった』という問題へと変わっていた。

「お前は誰……いや、なんなんだ?」

 唯の姿をした怪異は、先ほどよりも素早く自身の体を変形させて再び日高の姿に戻ると、その反応を待っていたかの様にニヤリと笑ってこう言った。

「あえて名乗るなら、そうだなぁ……《姿なきものシェイプシフター》っていうのはどうかな?」

 目の前の怪異はそう言いながら、真弥の方にさらに一歩踏み出した。

 これ以上近づかれるとヤバイということは、本能的に分かる。

 だが真弥が最初に考えた隣の部屋に逃げ込むという手はもう使えない。

 この怪異が先ほどの様に液状化して窓から侵入してきたのだとすれば、鍵を掛けた部屋に籠城しても侵入を防ぐことができないからだ。

 なにより、唯をこんな訳の分からない怪異に引き合わせることができるはずもない。

「でもあたしはそんな無骨な名前よりも『日高美知』って名前の方が好きだな、特にってところがさ。あたしの名前は美しさを知ると書いて美知って読むでしょ? それって、とっても素敵な名前だと思わない?」

 怪異は後半歩でも前に踏み出すだけでキスができてしまいそうな距離まで近づくと、ドアノブに掛けていた真弥の手をそっと包み込んだ。

「——ッ‼」

 ゾクリと背筋に冷たいものが走る。

 鼓動は跳ね、額に嫌な汗が流れる。

 いつからバレていた? バレたらどうなる?

 意味がないことはわかっていても思考の本流を止めることができない。

 それでも悲鳴だけはあげない――あげられない。

 もし声をあげれば、間違いなく唯はこの部屋まで様子を見にくる。

 その時この怪異が唯に何をするのか、真弥には見当もつかなかった。

 もちろん、それだけではない。

 目の前にいるこの怪異に、少しでも動揺していることを見透かされれば、話し合いどころではなくなる。

 その瞬間、真弥はたちまち交渉の主導権を失い――最悪の場合、いつ殺されてもおかしくない立場に置かれるだろう。

 だから少なくとも今、真弥は動揺や恐怖といったものをこの怪異に見せるわけにはいかなかった。

「凄いね。あたしに悟られないように、顔には出さないようにしながら逃げる算段を考えてたんだ? しかも妹ちゃんを巻き込まないために大きな声を出したり、無理に暴れたりもしなかった……『日高美知』が真弥のことを『スキ』だったのも、分かる気がするよ」

「……今、なんて言った?」

 この怪異は『日高美知』という名前を、一人称として敢えて使ったのだろうか? それとも……本物の『日高美知』という人物が別にいて、その話をしていたのだろうか?

 もし後者なら——『日高美知』という人間は、既にもうこの世の何処にも存在しないのではないだろうか?

 脳裏に嫌な想像が過ぎり、全身から更に嫌な汗が吹き出す。

「本物の日高は……どうしたんだ?」

 真弥はその言葉を半ば無意識の内に発していた。

「やめてよ。その言い方だと、まるであたしの方が偽物みたいじゃん」

 心底不快そうな顔で、怪異は握り潰さん勢いで真弥の手を握る手に力を込めた。

 少女のものとは思えない力で握られた手は、ミシミシと悲鳴をあげる。

 これ以上力を籠められれば、真弥の手など簡単に握り潰されてしまうだろう。

 だが苦痛に顔を歪めながらも、真弥はその言葉を撤回しようとは思わなかった。

 しつこいようだが、こんな状況で相手を刺激する様な発言をするのは完全に悪手だ。

 それでも真弥がそう言ったのは、そっちの方が『正しい』と思ったからだ。

 この怪異に為り替わられた日高に対して、同情や憐れみといった感情がないわけではない。

 だがその言葉を出力したのは日高を想ってのことではなく、この怪異を否定することの方が人として『正しい』反応だと思ったからだ。

 真弥は目の前の怪異のことを『思考』するために問題を解いていると評した。

 その因果関係の逆転は真弥にも同じことが言える。

 何故なら真弥は『優しい人』になりたいから人に優しくしているのだ。

 それが六川灯理に憧れた理由であり、同時に真弥が偽善者である理由でもあった。

 真弥には『誰かのための善意』というものが理解できないが故に、心理学や哲学といったものを学んだ。

 少しでも理想の人間に近づけるように努力し続けた。

 そうすれば自分のような人の善意を信じられない人間でも、六川のように『優しい人』になれると思ったのだ。

「——それでも……本物の『日高美知』は別にいたんだろ?」

 遠まきに本物ではないと断言された怪異は、真弥の右手から手を放し髪を振り乱しながら自分が如何に本物らしいかを主張する。

「違う! 本物なんて最初から何処にもいなかった。だって『日高美知』は他人の思考でしか物事を考えられないんだよ⁉ あたしは誰の思考を借りなくても自分で考えることができる! なら、あたしの方が『本物』よりもらしくないとおかしいじゃん⁉」

 叫ぶように、吐き出すように……その怪異はシャツがくしゃくしゃになるほど強く自分の胸元を掴みながら捲し立てる。

 その言葉の意味は真弥には分からない。

 ただ感情に任せて話しているからか、怪異の理屈には致命的な欠陥があった。

「……仮にそうだとしても、日高が僕のことを好きだったっていうのは本当なんだろ? なら日高は考えられなかったわけじゃない。考えなくていい環境にいただけだ」

 怪異は呆然とした様子で二歩ほど後ろに下がると、力なくその場にへたり込んだ。

「……なんで、どうしてそんなひどいこと言うの?」

 人と同じ姿をしているその怪異は、目元を覆いながら――おそらく人と同じだけの温かさを持っているであろう液体で頬を濡らした。

「きっと『日高美知』も同じことを思ったと思うよ」

「あたしだってなりたくて偽物になったわけじゃないッ! 目が覚めたら自分がどんな怪異なのかもわからなければ、『日高美知』の記憶があっても本物の『日高美知』になれないっていうなら、あたしは自分を自分でなんて呼べばいいのさ⁉」

 思うままに言ったかと思えば、怪異は項垂れながら嗚咽を漏らすだけで一切の身動きをしなくなった。

 しかしこの怪異の言い方は、どこか引っかかる物言いだった。

 もし意思を持って『日高美知』に為り代わろうとしたなら、こんな取り乱し方はしないはずだ。

「もしかして、お前は日高に成り代わろうとして殺したわけじゃないのか?」

「わかんない。考えられなかった頃のあたしのことを、あたしは何一つ覚えてないんだから……」

 怪異は『日高美知』によく似た曖昧な返答をする。

 だがその瞬間、真弥にも目の前にいる存在が何なのか分からなくなってしまった。

「……だから自分は悪くないって、お前はそう言いたいのか?」

 法律では心神喪失状態の人間を罪に問うことはできない……とされている。

 日高美知を取り込んでこの怪異が知恵を得たのだとして、知恵を得る前の罪を問うなど現代で動物裁判をやるようなものだ。

 もちろん目の前にいるのが、人間ですらない怪異であるということも、先ほどの変身を見せられて嫌というほど理解しているつもりだ。

 彼女は人を喰う怪異で、可哀想でもなんでもないと言ってしまえばそれまででしかない。

 だがその涙も体温も、『普通』の人間と同じだけの暖かさを持っているはずなのだ。

 彼女はどんな人物にも変身できるという人とは違う身体的特徴を持っていただけで、本人も望んでそんな力を手に入れたわけではない。

 そのせいで自分が何者かも分からなければ、勝手に偽物として扱われたのだから、彼女にとってそんな能力なんてなかった方がよかったまである。

 そもそも自分がどうやって生まれたのかを正確に説明できる人間が、この世界にどれだけいるのだろう?

 世の中には生まれてから全ての記憶を持っている人間もいるそうだが、そんな例外でもなければ自分がどうやって生まれたのかなんて知るわけがない。

 ――分からない。

 『コレ』は、どう定義するのが正解なのだろうか?

「……間違ってないのに正しくない、か」

 目の前の少女が悪いわけでも『日高美知』が悪かった訳でもない。

 それは例えるなら一種の事故のようなもので、きっと誰にもどうすることもできないことだったのだろう。

 『仕方がなかった』の七文字で片付けられないことは真弥も重々承知しているつもりだが、誰も悪くないという無彩色の残酷な現実が、ただただやるせなくて仕方なかった。

 しかしこの怪異を許していいのかどうかは、また別の問題だ。

「それでも、僕には君のことを許すことはできない」

 それが、真弥が熟考した末に出した結論だ。

 仮に事故であったとしても、この少女が『日高美知』を殺したという事実は決して覆らない。

「——けど、君が『日高美知』の偽物かどうかはまた別の話だ」

 『日高美知』と同じ容姿をした怪異は、どうしてと問いかけるような表情でゆっくりとその顔を上げた。

「『テセウスの船』っていう、有名な哲学の問題がある」

 何も言わずに怪異は真弥のことを見据えながら、次の言葉を待つ。

「大雑把に言えば船を修理する過程で全ての部品を取り替えた場合。それは『テセウスの船』といえるのか? っていう思考実験だ」

 正確には『日高美知』の問題は『沼男スワンプマン』と呼ばれる問題の方が定義は近いのだが、その本質は変わらない。

 この場合は根幹となる設計図……つまり遺伝子や記憶が全く同じなら、それは同一存在と呼べるのか? という箇所が論点となる。

「この問題にはいくつかの回答があって、例えばテセウスが乗った船なんだから、どれだけ部品が変わろうとそれは『テセウスの船』とする考え方。仮に元の日高美知をオリジナルの日高、今目の前にいる方をアナザー日高と呼ぶとして、このパターンの回答なら遺伝子情報……つまり設計図が同じならその本質は変わらないってことになる……ただし設計図が同じでも構成する部品が異なるならそれはもう『テセウスの船』ではないとするパターンの回答の場合、オリジナルの日高と違ってアナザー日高は変身能力を持っているから『日高美知』ではないと考えるのが妥当だ」

 そう言うと怪異改め、アナザー日高は傷ついたような表情で目を伏せた。

「――だけど『テセウスの船』の論点はそれがテセウスの船かどうかっていう一点に集約されている。どんなパターンの答えでも、それが偽物かどうかは論点にないんだよ」

「それってどういう……」

 意味がよく分からないといった様子で怪異は呆然としている。

「どれだけ姿形が似ていようと、それだけで偽物になっていいはずがない。もしオリジナル以外は全て偽物だっていうなら、この世界にはもう贋作しか残っていないよ」

 真弥は自嘲の笑みを浮かべながら、そう吐き捨てた。

 何故ならその贋作の筆頭は——偽善者である自分自身なのだから……その言葉を飲み込みながら真弥は俯く。

「そっか……じゃあ真弥もあたしと同じだね」

 目の前の怪異の少女は、そっと真弥に手を伸ばしながら優しく微笑みかけた。

 アナザー日高……いや、日高が何を思ってそんなことを言ったのか真弥は知らないし、それがどういう意味なのかを聞くつもりもない。

「そうだな……ほんと、そうだ」

 ただ泣くでもなく、怒るでもなく。

 力ない微笑みを返しながら真弥はその手を取った。

 自分でもよく意味の分からないような言葉に対して抱く感情として、それは間違っているのだろう。

 それでも――その言葉が真弥はただ嬉しかった。

 真弥には他人から『優しい』と言われることよりも、自分と同じ偽物であると言ってもらえる方がずっと嬉しかったのだ。

 それはどれだけ偽物の善意だろうと偽物の姿だろうと関係がない疑いようのない事実であり、間違いなく嘘偽りのない本物の感情だと断言できた。

 ならこの場の二人にとって、それ以上の事実はもう必要なかった。

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