晨星のノーマッド 外伝
北上悠
序章『終演(It's Over)』
人間らしさとは何か、考えたことはあるだろうか?
もちろん人によって様々な意見があるだろうし、とてもじゃないがそう簡単に答えを出せるような代物でもない。
だけれど、少なくとも、
教室の中にいる美知には、クラスメイト達の周囲に、カラフルな大小無数のキューブが浮かんでいるように見えていた。
規則性を持って整理されていることもあれば、乱雑に散らばっていることもあるそのキューブの量や密集度を、日高は相手の思考の
このキューブの数が少なくて、乱雑に散らばっているということは、そのまま思考が上手くまとまっていないことを表し、考えていることが
そういう意味では、この教室にいる人間の多くは極めて無造作な思考回路をしていた。
どれも断片的な思考が無数に存在し、それでいてその断片的な思考で完結してしまっている。
そのキューブの密集度や数は、むしろ獣のそれに近い。
――ただ一人、美知の前に座る男子生徒という例外を除いて、だが。
彼、
だが彼は会話する相手に合わせて、わざわざキューブの
美知も最初は、真弥にも自分と同じような能力があるのか、とも思った。
だが彼の場合は、美知のように他人のキューブを『模倣』しているわけではなく、元からあったキューブを排除して
まるで手探りで相手のことを知ろうとしているかのように。
真弥の思考力と相手に合わせようとする優しさは、美知にとって誰よりも人間らしいものであるように見えた。
「ねぇ日高さん、聞いてる?」
そんな声が物思いに耽っていた美知を、現実へと引き戻した。
実際には会話など全く聞いていなかったのだが、会話相手が射程内にいるなら美知は実際に会話をする必要すらない。
ただ『模倣』した相手の思考に従えばいいだけだ。
「もちろん。あの俳優が不倫してたことが許せないって話でしょ?」
「そう! マジでありえなくない?」
わざわざ美知の席の前に三人の女子生徒が集まり、そんなことを話していた。
「つーか、別に好きな俳優でもなかったんならどうでもよくね?」
頬杖をつきながら、一人が興味なさげに言った。
周りには空色のキューブが浮いている。
「うわぁ、その反応はドライすぎるでしょ〜」
今まで黙って頷きながら話を聞いていた三人目が、愛想笑いを浮かべた。
「もう! 好きじゃなくても、なんか裏切られたって感じがして嫌なの!」
彼女の側には、赤色のキューブか乱雑に浮いている。
「その気持ち、分かるわ〜!」
文句を垂れる女子生徒に共感を示す女子生徒の側に浮いてるのは、黄色のキューブだ。
「ね、日高さんはどう思う?」
そう聞かれた直後、美知の周りに浮かんでいるキューブが女子生徒たちの傍に浮いているのと同じ黄色に染まっていく。
美知はそんな不思議な状況を周囲の人間に悟らせることなく、苦笑しながらこう答えた。
「そうだね、うん。あたしもそう思うよ」
そんな今朝の会話が遥か昔に感じるほど、美知は切羽詰まる表情で、背中の中程まであるおさげの髪を揺らしながら、息を切らして木造の階段を駆け上っていた。
彼女――日高美知は今、二階建ての建物の中にいた。
その元はペンションだった古びた建物は電気が通っておらず。
周囲を背の高い木々に囲まれているために、まだ四月半ばの五時頃というにもかかわらず、酷く薄暗かった。
美知が階段を一段上るごとに、傷んだ木を踏んだ時特有の、軋むようなイヤな音が鳴るが、彼女は一切足を止める気配がない。
というより――背後から絶えず聞こえるぐちゃぐちゃという粘液質な音がそれを許さない。
美知は少しも速度を緩めずに首だけ振り向いて、後ろから追ってきている追跡者の姿を見やった。
それは不定形の黒い泥の塊のような姿をした、生物と認識していいのかどうかさえも分からない『ナニカ』。
一階と二階の中間にある踊り場の上に取り付けられた窓から降り注ぐ、僅かな光を反射してテラテラとした光沢を放つ様は、コールタールや重油を彷彿とさせる。
怪異としか形容できないその存在は、体から生やした触手を手足のように器用に使って、自分の体を引きずりながら美知を迫ってくる。
まるで潰れた蛙のようなその気色悪い姿に、美知の背筋にうすら寒いものが走った。
残り数段を一段伸ばしに駆け上がって二階に着いた美知は、何処か隠れるところはないかと周囲を見回す。
偶然というべきか、運命というべきか――廊下の右側にある、手前から見て二つ目の客室の扉だけが、入ってくれとでもいうかのように開いていた。
美知はその中に転がり込むように入り、泥の塊の侵入を阻むために内側から施錠する。
ホラー小説や映画なら、ここで閉じこもるのは間違いなく悪手だろう。
この建物の中には美知と、先程の生き物かどうかすら怪しい不定形の怪異だけしか存在しない。
その上、唯一の脱出口である一階の玄関に降りるための階段に向かう道も占拠されてしまっている現状。
少なくとも一度はやり過ごさないとこのままでは逃げるに逃げられない。
――ただ怖かった。
蟲のような何を考えているか分からない存在に感じる嫌悪感とよく似ているが、それ以上に逃げなくてはならないと本能が警鐘を鳴らし続けている。
あの泥の塊に対する気持ち悪さや、どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのかといった気持ちでどうにかなってしまいそうだ。
もちろん今更その理由を知ったからといって、そんなものが何の役にも立たないことを美知は知っている。
怪異には人の思考を模倣する超能力を持った美知を排除するという、世界の免疫機構としての性質しかないのだから当然だ。
それでも何故、どうして自分がこんな目に合わなくてはならないのか……やはり、そう思わずにはいられなかった。
今この瞬間も、部屋の外からずるずると大きなずた袋を引きずるような音を立てて、怪異が近づいてきている。
その事実は恐ろしくて堪らないし、逃げ場のないこの状況はこれ以上ないほどに絶望的だ。
だが美知が考えているのは、これから自分がどうなるのか、ということではない。
美知が考えているのは、彼――深山真弥が今頃何をしているのだろうか、ということだ。
お風呂に入っているだろうか?
明日に向けて予習をしているだろうか?
――それとも、もう寝てしまったのだろうか?
美知はこんな状況でもそんなことを考えている自分に心底呆れながら、自嘲の笑みを浮かべる。
「ははっ……あたし、どうしてこんな時にあの人の事を思い出してるんだろう? 教室で何回か話したことがあるだけなのにさ……」
その理由は、美知自身にも分からない。
ただギュッと胸が締め付けられるような感覚がする。
なのにその感覚が不快ではないことに、美知は一人驚いていた。
今まで美知が他人から『模倣』した感情の中でもっとも近い感覚は……『切なさ』であろうか。
美知のこの他人の思考を『模倣』する能力は、生まれつきのものである。
一見便利そうに見えるかもしれないが、美知の能力はそれほど都合のいいものではない。
能力の射程は五メートル。
範囲内に入った生物の思考を例外なく全て『模倣』し、自分の知らない筈の知識——人や場所の名前、自分の物ではない思考の奔流が無差別に頭の中に流れ込んでくる。
その中には些細な事で一喜一憂するどうでもいいような思考もあれば、この世全てを呪う呪詛めいたものまである。
しかしこの能力の欠点は、能力の解除や射程を狭めたりといった制御が一切できないことにある。
射程内の全ての生物の思考が無差別に流れ込んできて、膨大な情報量に頭がパンクしそうになる。
その中でも人間の思考を『模倣』することは、美知にとって特に苦痛だった。
人間よりも素早く思考できる生物は数あれど、人間以上に複雑な思考ができる生物は存在しない。
それは他の生物の思考を処理するより、人間の思考を処理する方が何倍も労力が掛かるということを意味していた。
『模倣』した他人の思考、それを知った自分の思考――そして実際に出力される、それとは正反対の言葉。
矛盾した事実がいくつも同時に存在することに脳の処理が追いつかないのか、吐き気や頭痛といった症状が現れる。
はっきり言って、美知のこの能力は現代社会で生活するのに致命的に向いていなかった。
美知のいる部屋の扉のすぐ前で這いずる音が止まると、部屋の外にいる怪異は唐突になんの音も発さなくなる。
美知が警戒しながら扉の方を睨みつけていると、突然扉から枯れ木のような太さの触手が部屋の中に侵入してきた。
「ヒッ⁉」
その不思議な感覚のことも忘れて、美知は小さく悲鳴を漏らした。
その声がこの泥の塊に聞こえたかどうかは定かではない。
だがその声に反応したかのように、その触手の先端がぐにゃりと——まるで粘土細工のように、十円玉より一回りほど大きい、白いガラス玉のような形状に変形する。
最初はそれがなんなのか分からなかったが、美知は嫌でもすぐにそれの正体を理解することになる。
そのガラス玉だと思っていたものが回転して、黒い楕円形の模様が美知の方に向けられたからだ。
「――ッ⁉」
まるで瞬きでもしているかのように、そのガラス玉全体を覆う薄い膜を瞬かせながら――というより、実際そうなのだろう。
見間違えるはずもない。
あれは『目』だ。
それも元々あったものではなく、今この場で新しく造った体組織である。
現実にも分裂できるほど高い再生能力を持つ生物はいる。
だが自分の意志で感覚器官を丸ごと一つ造りだす生物など、聞いたこともない。
その姿はまさに、人類の理解の外側――怪異と呼ぶに相応しい異形だった。
しかし例え正体不明の怪異であろうと、その目的を知ることは美知にとってそう難しいことではない。
あの怪異の頭上には、人間の頭二つ分ほどのサイズがある大きなキューブが浮いている。
日高の頭上にもある赤黒い色のそれが、何よりも雄弁に物語っていた。
大きなキューブがたった一つだけしかないということは、この怪異が獣以下の思考能力しか持たず、美知を絶対に捕食するという醜い本能を全力で向けていることを表していた。
美知自身、この能力の恩恵を全く受けていないといえば嘘になる。
特にこの怪異のように、本能に類する敵意や劣情といったものを向けられた時の嫌悪感は一般人の比ではない。
だがそれだけの代償と引き換えに、この能力があれば自分で考える必要もなければ、絶対に人と衝突せずに済む人生が約束される。
そんな風に他人の真似をすることでしか人と接することができない美知に対する皮肉のように、この能力の名前は
ただ何にしても、
扉の前にいる泥の塊が触手を引き抜いた後には、まるで精密機械で開けたかのような穴がぽっかりと開いていた。
溶かされているとか、齧り取られたとか、そんな次元の話ではない。
その穴だけを開けるという現象から分かるのは――この泥の塊は自分の体の一部として、有機物を完全に取り込むことができるということだ。
これから訪れる自分の末路を想像して、美知はいてもたってもいられずにスマホのライトを頼りに周囲に何か武器になりそうなものはないかと探しはじめた。
ほとんど投げ捨てるかのように机の引き出しをむりやり開け、開けられる引き出しがなくなれば足元まで探す。
しかしそうして見つけられたのは、何処にでもあるような懐中電灯と、マッチ箱だけだった。
懐中電灯が役に立たないのは言わずもがな、仮にマッチでこの建物に火を放ってあの化け物を撃退できたとしても、それではこの部屋から出ることのできない美知も当然助からない。
映画やドラマの主人公のように、自分の身を犠牲にしてでもこの泥の塊を道連れにするような覚悟や動機が、ただの女子高生である美知にあるはずもなかった。
嗚咽を漏らしながらも、美知は武器を探す手を止めない――止められない。
その間にも泥の塊は扉を取り込みながら、刻一刻と美知の方に迫ってきている。
後から後から溢れてくる涙で視界が滲む。
ぼんやりとスマホのライトの光が見えるだけで、美知にはすぐ目の前になにがあるのかさえ分からない。
涙に反射した光がクリスマスの時期になると駅前に飾り付けられるイルミネーションのように見えないこともないけれど、美知にはそれを意識できるような余裕はなかった。
もう自分が息を吸っているのか、吐いてるのかさえ分からない。
それでも、そんな状況でも、美知が考えているのはやはり深山真弥のことだった。
今すぐ彼に会いたい、会って話がしたい。
たったそれだけ、贅沢でもなんでもないほんの些細な願い。
――ならどうして他の人ではダメなのだろうか?
どうして、こんな状況でも彼のことを考えているのだろうか。
そんな思考がふと、美知の脳裏を過った。
なぜ深山真弥なのか。
どうして今なのか、と。
それは今まで他人の思考を『模倣』してきた美知にとって、初めて何かに疑問を持った瞬間でもあった。
まるで時間が無限にあるのではないかと錯覚してしまうほど引き延ばされた時間感覚の中で、美知は考え続ける。
実際にその答えに行きつくのに、きっと数秒も掛からなかっただろう。
だが美知がそのことを知る時は、もう永遠に来ることはない。
それでも今この瞬間だけは――美知は誰の思考を借りなくても、一人の少年のことを考えていた。
「逆だ、こんな状況だからなんだ……」
それは誰にでも分かるような簡単な答えだった。
美知の頭上に浮かんでいた赤黒いキューブが、徐々に淡い桃色に染まっていく。
それは……愛情や好意といった感情を表す色であった。
きっとこんな能力さえなければ——他の誰でもない、自分の主観だけで物事を考えられたのなら……もっと早く気づくことができただろうに。
そう思いながら、美知は初めて抱くその感情を口にした。
「そっか——あたし、あの人のことが好きだったんだ……」
背後でガチャンッと、何かの金属が地面に落下する音が聞こえてきた。
まるでその答えが正解であるような、或いは時間切れであることを告げるようなその音は、扉の木製部分が全て取り込まれ、金属部分が地面に落下したこと……つまりあの泥の塊が、この部屋に侵入してきたことを意味していた。
自分の恋心に気づけた事を喜べばいいのか、それとも背後から聞こえる粘液質な音と共に近づいてくる確実な『死』に怯えるべきなのか、美知にはもう何も分からなかった。
ただ少なくとも、美知は恐怖や憎悪といった感情を全く抱いてはいなかった。
美知は自分の本質を短く、かつ的確に突いた
確かに美知の思考は他人を『模倣』しただけの偽物かもしれないが、そこにある感情は紛れもない本物だった。
だからこそ、自分の全てが――他人を『模倣』しただけの偽物であるということを、美知は認めたくなかったのだ。
だが今、この怪異以外に他の生物がいないこの瞬間だけは――間違いなくこの気持ちが本物であると断言できた。
仮にここを生き残ったとしても、明日になってまた別の人間の思考を『模倣』するようになったなら――きっと、自分で自分が何を考えていたのかを忘れてしまう。
もしこの想いを言葉にするのなら――きっとこれが、『切なさ』なのだろう。
涙を手の甲で拭い、美知は自分のオリーブ色の制服の胸部分をぎゅっと強く握りながらゆっくりと目を閉じた。
せめて最後は苦しまないようにと願いながら……そして、もし次に目を醒ますことがあれば、どうか自分だけのこの想いを失っていませんように、と。
※ ※ ※
――ああ、自分で考えることができるというのは、なんて素晴らしいことなのだろう。
燭台に灯された小さな炎に照らされた客室の一角で、その粘隗は心の底からそう思った。
まるで今までの自分は、生きながらに死んでいたとさえ錯覚するほどに。
『思考』できるということは、怪異にとってまさしく世界を一変させるモノだった。
泥の塊のような姿をしたその怪異は、窓際まで這いずって行くと、ぐにゃりとその姿を変える。
約一・五メートルほどの高さまで伸びて、彫刻を制作する動画を倍速で見ているかのように、もしくは型に石膏を流し込むかのように、一つの形を作り上げていく。
前髪を切り揃え、後ろ髪をおさげにした、何処にでも馴染んでしまえそうなほど印象の希薄な少女。
その姿は、先ほどその短い人生に幕を下ろした『日高美知』そのものである。
なんてことはない。
この泥の塊にとって、遺伝子情報を元に他人の姿を『模倣』することは、そう難しいことではなかった。
有機物であるのなら服だって完璧に再現することができるし、髪型から肌の質感まで、どれ一つとしてオリジナルと遜色ない。
それはこの怪異に元から備わっていた能力だった。
だが今まで『思考』そのものが出来なかったがために、怪異は他の生物に変身するなど考えてもみなかったのだ。
その新しく手に入れた自分の能力を試すように、少女の姿をした怪異は肘から先を、
自らの異形の手をしばらく眺め、にんまりと口角を上げると再び人間の腕に戻して、グッパーと何度も手を閉じたり、開いたりしてみせる。
少女の容姿も、記憶すら完璧に模倣したその怪異は、この喜びを言葉にするべく声帯を震わせようと試みる。
しかし出るのは掠れたような音だけで、その上喉が痛んだので、どうやら自分は発声の仕方をそもそも間違っているらしいということに怪異はすぐに気がついた。
反省を生かして、今度は先ほどのように声帯を直接震わせるのではなく、息を吐くことによって声帯を震わせようと試みる。
「あ〜あっ? あ〜⁉ なるほど、人間の声帯ってこうなってるんだ!」
声を出そうと試みた当初の目的も忘れて、初めて発声できたことを、その怪異はこれ以上ないほど自然な笑顔で、誰よりも無邪気に喜んだ。
だが元になった人間よりも、偽物である怪異の方が何倍も本物らしい感情を持っているというのは……あまりにも皮肉な話であった。
その怪異はゆったりとした動作で窓際に腰掛け、透明なガラス越しに空を見上げた。
そこからは月は見えないが、宝石箱のように色とりどりの星々が敷き詰められた夜空を臨むことができた。
「ああ――すごく綺麗だ」
それは今まで感じたこともないような、初めて抱く感覚だった。
今までこの怪異の世界は、ただ本能に従って地を這うだけのものであった。
だが自分で『思考』できるようになったことで、初めて世界というものを認識し、喜怒哀楽とも違う複雑な感情を知り、そして――ようやく世界がこんなにも美しいものだということを知る。
美知という名前は怪異にとって、まるで福音のような運命的なものであった。
しかしそういうことを一つひとつ認識するごとに、今度はあの星はどこからやってきたのだろうか? どうしてあんなに輝いているのだろうか? そんな素朴な疑問が尽きることなく湧いてくる。
『日高美知』の記憶の中にその疑問の答えがあることもあった。
しかしその答えは多くの場合、上辺だけの知識であって彼女が望むような『何故?』という根本的な問いへの答えとは言い難かった。
「これがタウマゼインかぁ〜」
ギリシャ語で『驚異』を意味し、哲学の用語で知的探究の原点となる感覚を表す言葉を、彼女は感嘆のため息と共に漏らす。
そして同時に、この体の持ち主は死の間際まで一度たりとも自分でなにかを考えることができなかったなんて……なんと愚かで哀れな生き物だったのだろうと、同情せずにはいられなかった。
しかし『日高美知』にあってこの怪異には存在しない、理解できないことが一つだけある。
「――『スキ』って、どういうことなんだろ?」
もちろん、危害を加えられるのは嫌いとか、衣食住が保証される状況が好ましいといった本能的な欲求が満たされている状態を良しとする感覚は理解できる。
ただこの怪異には恋愛や愛情といった、好意という意味での『スキ』という感情が、全く理解できなかった。
しかしそのたった一つの差異は、この怪異にとって自身の存在そのものを揺るがしかねない概念だった。
自分で『思考』することのできない『日高美知』には理解できたのに、自由に思考する事ができる自分には理解できない。
それはつまり、どれほど精巧に遺伝子情報を『模倣』しようと、自分は本物たりえないということを意味していた。
自分は何者でもないというその状況に、怪異は焦燥感を覚える。
『日高美知』以外の一切の記憶を持ち合わせていない。
にもかかわらず、自分は本物の『日高美知』たりえない。
「あたしは……誰?」
自分の方が、他人の思考でしか考えられない『日高美知』よりも本物らしいはずなのに、いま思考している自分は紛れもなく本物の自分であるはずなのに……。
それでも自分は何者でもないという、自我同一性を揺るがすその事実に怪異は恐怖した。
もはや自分は怪異でもなく、『日高美知』本人でもない。
その事実が恐ろしくて、唐突に襲ってきた虚無感から、怪異は自らの体を抱き寄せる。
彼女は軽く頭を振って、自身のアイデンティティ問題を頭の片隅に追いやり、また別の事を考えることにした。
『日高美知』の記憶を持っているのなら、この怪異にも当然深山真弥についての記憶があるわけだ。
「彼なら答えてくれるのかな? 『スキ』っていうのがどういうことなのかとか、この不思議な感覚の名前とか……」
少女の記憶や容姿を模倣したからといって、この怪異が『日高美知』になったわけではない。
にもかかわらず、自分の原型になった少女が最後まで想い続けていたという『彼』のことを思うと、怪異は胸の辺りがどこか温かくて、くすぐったいような不思議な感覚を覚える。
今までに感じたことがないような感覚に戸惑いながらも、その怪異はなんの根拠もなく、それはきっと素晴らしいことに違いないと考えた。
何故なら――今この瞬間も、自分の知らないことがあるということにこんなにもワクワクしているのだから。
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