第六章:2030年10月7日 月曜日 瀬川ユリ

現実パート


オフィスのドアをくぐると、いつもの喧騒が耳に飛び込んできた。電話のベル、キーボードを叩く音、同僚たちの短い会話。それらを聞きながら、私は今日のタスクを頭の中で整理する。席に着き、机の上に並べられた資料に目を通していると、上司の高槻がこちらに向かって歩いてきた。


「瀬川さん、この案件、君に任せたよ。期待してるからね。」

高槻はいつものように書類を抱えながら微笑み、私のデスクに分厚いファイルを置いて去っていった。


「期待してる」――その言葉が胸に重くのしかかる。口角を上げ、「分かりました」と返事をしたけれど、心の中ではため息が止まらなかった。席に戻り、書類を開いて内容を確認しようとするが、集中できない。


「また瀬川が全部持ってくわけね。さすが、会社の顔。」

不意に声をかけられ顔を上げると、同期の伊藤アキラが軽口を叩きながらこちらを見ていた。彼の視線にはいつもの皮肉が混じっている。


「そんなことないよ。」

私は笑顔でかわしながら、胸の内で彼の言葉が刺さるのを感じた。本当に一人で全てを抱え込むしかないのだろうか、と。


昼休み、後輩の中村リサが駆け寄ってきた。手に持った書類を震える手で差し出す。


「先輩……このデータ、分析を間違えちゃって……。」

彼女は申し訳なさそうに俯きながら声を絞り出した。その様子を見て、私は自然と笑顔を作る。


「大丈夫だよ。私もよくやったことある。」

書類を手に取りながら、彼女を落ち着かせるように言葉をかける。リサの不安げな表情が少しずつ柔らかくなるのが分かる。「先輩みたいに落ち着いて対応できるようになりたいです」と感謝の目で見つめられると、胸の奥にじわりとしたものが広がった。


でも――私もそんなに完璧じゃない。そう思いながらも、弱さを見せるわけにはいかない。ただ笑顔を浮かべ、「大丈夫だよ」と返すだけだった。


昼食後、先輩の工藤マリに呼び止められた。

「あんた、無理しすぎよ。周りをもっと頼ったら?」

その言葉に、一瞬心が揺れる。


「大丈夫です。」

反射的にそう答えると、マリは呆れたように肩をすくめた。

「またそれね。まぁ、倒れないようにね。」

彼女の視線は優しさを含んでいたけれど、私にはその余裕すらなかった。


午後の打ち合わせでは、クライアントの田所洋一からさらなる要求が出された。

「提案書は悪くないね。でも、もっとコスト削減案を入れてほしい。」

冷静に対応しながら、心の中では焦りと苛立ちが渦巻いていた。すでにスケジュールはパンパンで、これ以上の負担は耐えられそうにない。それでも、「分かりました」としか返せない自分が歯がゆかった。


仕事を終えた頃には、心も体もすっかり疲弊していた。デスクに崩れ落ちるように座り込み、ため息をつく。明日の準備をしながら、ふとVRの中でのタカコの姿が浮かんだ。


タカコさんだったら、きっと仲間に助けを求めるだろう。彼女は決して一人で全てを抱え込むことはない。だけど私は――。完璧でいなければ、自分の価値なんてないような気がしてしまう。でも、このままでは行き詰まるのは分かっている。


「やってみるしかないか。」

そう呟いて、私は意を決した。


まずは後輩のリサに声をかけた。

「リサ、このデータ整理、お願いできる?」

リサは驚いたような顔をしたが、すぐに「はい、任せてください!」と元気よく答えてくれた。その反応に、少し肩の力が抜けるのを感じた。


次にアキラの席へ向かう。

「何か用?また俺に嫌な仕事押し付けるの?」

アキラは皮肉めいた口調で言いながら私を見上げる。


「嫌な仕事かどうかは分からないけど、この資料、アキラなら上手くまとめられると思って。」

私は資料を差し出しながら言うと、彼は目を丸くして、それから小さく笑った。

「ま、たまには手伝ってやるよ。」


最後に先輩のマリに声をかけた。

「マリさん、クライアントとの交渉に同席してもらえますか?私一人ではちょっと厳しくて。」

マリはしばらくじっと私を見つめた後、口角を上げた。

「珍しいじゃない。あんたが頼ってくるなんて。……いいわ、手伝う。」

その言葉に、ようやく少しだけ安堵が広がった。


一通り依頼を終え、席に戻る。心のどこかに「これで良かったのか」という不安が残る。でも、このまま一人で抱え込むよりはずっと良いはずだ。そう自分に言い聞かせる。


「どのみち、このままじゃどん詰まりなんだから。」

深く息をつき、軽くなった心で目の前のタスクに向かう。もしかしたら、この選択が職場の関係を変える第一歩になるかもしれない――そんな小さな希望を胸に。




VRパート


ヘッドセットを装着すると、視界が一瞬暗闇に包まれた。やがて、温かな光に満ちたギルドハウスが目の前に広がる。見慣れた空間が視界に入ると、胸の奥に溜まっていた重苦しさが少しだけ薄れるのを感じた。


「ユウキさん、来た来た!」

元気な声が耳に飛び込んでくる。カナが満面の笑みでこちらに駆け寄ってきた。その無邪気な笑顔を見ると、自然と私の口元も緩む。


「遅かったな。」

壁にもたれたハルが、いつもの冷静なトーンで呟いた。表情はほとんど変わらないが、彼なりの歓迎の言葉だと分かる。こうして自分を待っていてくれる誰かがいる。それがどれほど心を軽くしてくれるか、言葉にはできなかった。


ギルドハウスの中央には、新しく加入したリオがいた。彼女は明るい声でみんなと話し、すっかりこの場所に溶け込んでいる。人懐っこく、誰とでも自然に打ち解ける彼女の姿が、どこか眩しく映った。


「ユウキさんって、本当にイケメンですよね!」

突然の言葉に、その場の空気が一瞬止まった。リオがまっすぐな瞳でこちらを見つめている。彼女の声は無邪気で、好意を隠そうともしない。


「え、俺が?」

思わず苦笑しながら肩をすくめる。どう返せばいいのか分からず、場の空気が妙な緊張感を帯びるのを感じた。


「見た目だけじゃなくて、中身も素敵ですよね。」

リオの声が軽やかに響く。その何気ない言葉に、一瞬場の空気が変わるのが分かった。


「それは……ありがたいけど、俺なんて普通だよ。」

軽く笑いながらそう答えると、リオは勢いよく首を振る。


「普通なんかじゃないです!ユウキさんって本当に頼りになるし、優しいし!」

その熱っぽい言葉に、カナがニヤッと笑って口を挟んだ。


「え、ちょっとリオ、それもう告白レベルじゃない?」

その言葉に、周りが「確かに」「言えてる」なんて声を上げる。


「そ、そんなことないですってば!」

リオが慌てた様子で否定するけれど、顔が赤くなっているのが分かる。それを見たカナは「かわいい!」と笑い転げていた。


「いやいや、俺よりハルの方がそういうの似合うだろ。」

話題をそらすために、私は隣のハルに目を向けた。


「おい、なんで俺の名前が出てくるんだよ。」

ハルが軽く肩をすくめると、カナがすかさず追い打ちをかける。


「だってハルっていつも冷静だし、頼りがいあるし、まあ確かにちょっとかっこいいよね。」

「ちょっと、な。」

ハルは冷静に返しながらも、少し照れたように視線をそらす。それを見て、みんながさらに盛り上がる。


その流れで少し空気が軽くなったと思った瞬間、リオがふっと私に近づいてきた。そして、思わず私の腕に抱きつくように絡んできた。


「でも、私はやっぱりユウキさん派!」

リオの行動に、場が一瞬ざわめく。


「ちょ、リオ!」

思わず声を上げると、ハルが眉をひそめて「落ち着け」と静かに言った。


「だって、本当にそう思ってるんですもん!」

リオは全く気にする様子もなく、笑顔を浮かべたままだ。その天真爛漫さに、誰も強く言えない雰囲気が漂う。


「まあまあ、ユウキさんもモテると大変だねぇ。」

カナが茶化すように言って、また笑い声が広がる。


「いや……大変というか、ありがたいけど、さすがにこれは……。」

苦笑いを浮かべながらも、リオが私の腕を離すのを待つしかなかった。


「ほら、リオ、やりすぎだってば。」

ハルが少し強い口調で言うと、リオはようやく手を離して「ごめんなさい」と笑った。でも、その表情からはあまり反省の色は見えない。


周りが何事もなかったかのように会話を続ける中で、リオも楽しそうに笑い出した。その無邪気な笑顔を見て、さっきまでの「ユウキ推し」の空気が少しずつ和らいでいくのを感じる。


その隙に、私はさりげなくリオから距離を取った。周りの会話に耳を傾けながら、自然と全体の輪に溶け込むように動く。


それからしばらく、ギルドハウスは笑い声に包まれていた。カナとハルが飾り付けを始めると、微笑ましいやり取りが続く。


「ハル、そっちの飾り、もっと左にずらしてよ!」

「いや、そこだと邪魔だろ。」

「えー、絶対そっちの方がいいってば!」


飾りを持ったまま迷うハルと、無邪気に主張するカナ。二人のやり取りに、周囲からも笑い声が上がる。


やがてハルが仕方なく飾りを動かしたものの、バランスを崩して装飾を落としてしまう。その瞬間、カナが腹を抱えて笑い出した。


「ハル、ほんっと不器用すぎ!センスもゼロ!」

「余計なこと言うな。」

ハルが淡々と返しつつも、少し困ったような表情を浮かべる。その様子を見て、つい私も口元が緩んだ。


ギルド全体に広がる和やかな空気。その中で、さっきまで感じていたざわつきが少しだけ薄らいでいくのを感じた。


しかし、その賑やかさの中でも、リオの言葉が頭から離れない。彼女の無邪気さの裏に何が隠れているのだろう――そんな疑問が、心の奥でざわつきを生んでいた。


ふと視線を向けると、タカコが一人静かに座っているのが目に入った。他のメンバーの賑やかさから少し距離を取るようにしている。気になって、そっと近づいた。


「タカコさん、大丈夫?」

なるべく柔らかい声で問いかける。


「何でもないです。」

タカコは微笑みながらそう答えたが、その表情には無理が見えた。


「……分かった。」

それ以上詮索するのはやめた。タカコは私に似ている。弱さを見せるのが苦手で、何でも自分で抱え込んでしまうタイプだと感じていたから。


周囲の賑やかさの中、私は一歩後ろに下がるように座り直し、ギルドの仲間たちを見渡した。この場所は確かに心の癒しをくれる。でも、それだけでは現実の問題は解決しない――そんな思いが胸に渦巻く。


「みんな、ちょっと聞いてほしいんだ。」

意を決して口を開いた。


全員の視線がこちらに集まる。胸の奥が少しだけ痛んだが、それを隠して続けた。


「これから、しばらくログインできなくなると思う。」


驚きの声が上がった。カナは目を丸くし、ハルは無言でこちらを見つめていた。


「仕事が立て込んでて、時間が取れなくなりそうなんだ。」

正直にそう伝えた。


「寂しいですけど、また戻ってきますよね?」

リオが少し寂しそうに微笑んで問いかける。


「もちろん。」

そう答えた自分の声が少しだけ震えているのを感じた。


「ユウキさん、頑張ってくださいね!」

カナが元気に声を上げ、手を振る。


「待ってるからな。」

ハルが短く言葉を添えた。


「無理しないでくださいね。」

タカコが静かにそう言った。その一言が胸に染みて、少しだけ心が軽くなった。


ギルドハウスの温かな光景を最後に目に焼き付けながら、ログアウトのボタンを押す。暗闇が視界を包み、現実の部屋に戻った。


PCの電源を落としながら、深く息をつく。


「もう少しだけ、頑張ろう。」

小さな声で自分に言い聞かせ、疲れた体を椅子に預けた。




ログアウトパート


ログアウトした瞬間、ギルドハウスの温かな光景は暗闇に飲まれ、現実の部屋が目の前に戻ってきた。

PCのモニターに映る時計を見ると、想像以上に遅い時間になっていた。


「現実って、こんなに静かなものなのね……。」

自分に言い聞かせるように呟き、椅子の背もたれに深くもたれかかった。ふと部屋を見渡すと、机の上に積み上がった書類や参考書、開きっぱなしのノートが目に入る。メモを取った痕跡の残る付箋やペンが散乱していて、決して整然とはしていない。


「普通にこれ、汚部屋よね。」

軽く鼻で笑いながら呟くが、その笑いもすぐに薄れた。

「私の心そのままだわ。」

そう続けて、ため息をひとつ吐き出した。


ソファに腰を下ろし、温かいお茶でも淹れようかと立ち上がりかけたとき、ふとタカコさんのことが頭をよぎった。

ギルドハウスの隅で一人静かに座っていたタカコさんの姿。何か話しかけようとした自分に向けられた微笑み。けれど、その笑顔にはどこか無理があるように見えた。


「何でもないです。」

そう答えたタカコさんの声が、耳の奥に引っかかる。


「……何でもない、はずよね。」

そう自分に言い聞かせてみるものの、胸の中のざわつきは収まらない。タカコさんはいつも優しく、穏やかで、どんなときでも自分を柔らかく受け止めてくれる。でも今日の彼女は、少し違って見えた。


「私の気のせいなのかもしれない……。」

そう思い込もうとするが、それでもどこかで引っかかる感情が消えない。もっと聞きたかったのか、それとも距離を保つべきだったのか――答えは出ないまま、気づけば視線が再び机に散乱した資料に向かっていた。


「このまま悩んでる時間なんてないのに……。」

資料を手に取って整理を始めるが、その手もどこか鈍い。読みかけの資料を開き直してみても、文字が頭に入ってこない。


一瞬、またヘッドセットに手を伸ばしかけたが、その手を止めた。

「しばらくはログインできないって言ったばかりだし……。」

仕事の忙しさが続く中で再びログインする余裕があるとも思えない。けれど、あの空間に戻りたいという気持ちは心の奥でくすぶり続けていた。


軽く深呼吸をして、再び机に向かう。積み上がったタスクの山を見つめながら、自分に言い聞かせる。

「私は、どこに向かってるんだろう……。」


夜の静寂が部屋全体に広がる中、ユリは静かにペンを握り直し、仕事に向き合い始めた。その手元には整理しきれない感情が、どこか残り続けていた。

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