第5章:2030年10月4日 金曜日 宮下タカヤ

現実パート


午後のオフィスは、いつも通りの喧騒の中に疲れた空気を漂わせていた。僕のデスクには今日も山積みの書類が無造作に置かれ、パソコンのタスクリストは溢れんばかりに膨れ上がっている。プログラマーとして雇われているはずなのに、コードを書いている時間はほとんどない。代わりに、誰かの代わりにやる雑務が次々と押し寄せてくる。


書類に目を通し、タスクリストの優先順位をつけようとしていると、背後からアベの軽い声が聞こえた。


「タカヤ君、これお願い!」


振り返ると、アベが書類の束をドンと僕のデスクに置いた。


「この間のデータ分析、こっちで使うから整理しといてくれる?」


「でも、まださっきの修正タスクが……」


「タカヤ君なら、同時進行でできるっしょ!」


軽く笑いながら、アベはそのまま立ち去っていった。ため息をつきながら、積み上げられた書類を見つめる。だが、追い打ちをかけるように今度はサトウがやってきた。


「タカヤ君、ちょっと悪いんだけど、この書類、英語の部分翻訳してくれない?俺、英語苦手でさ。」


「……それは、他の人に頼んだほうが……」


「いやいや、タカヤ君の方が得意だろ。頼むわ。」


そう言い残してサトウも去っていった。続けてミズキが現れる。彼女は手にいくつものファイルを抱えながら、笑顔で僕に話しかけた。


「タカヤ君、例のイベントの資料まとめてくれない?時間なくて手が回らないの~。」


彼女は僕の肩を軽く叩き、「いつも助かるわ~!」と言って、何の悪びれもなくファイルをデスクに置いていく。


僕は呆然と書類とファイルに埋もれたデスクを見つめた。誰も彼もが当たり前のように僕に仕事を押し付けていく。断る勇気もなければ、反論する元気もない。ただ、「やれるところまではやろう」と、自分に言い聞かせるしかなかった。


昼休み、僕はデスクに伏せたまま、とうとう寝落ちしてしまった。目覚めた時、アベが僕を見下ろしていた。


「タカヤ君、寝てる場合じゃないよ。仕事山積みじゃん?」


「すみません……」


目を擦りながら謝ると、アベは軽く肩をすくめて去っていった。だが、その背中を見送りながら、胸の奥に広がる重苦しさを振り払うことはできなかった。


残業時間が始まっても、僕のタスクリストは一向に減らない。頭の中が霞むような感覚の中で、手元が乱れ、ついにはデータ入力でミスをしてしまった。課長が通りがかりに「タカヤ君、そこミスしてるぞ」と注意してきた。


「すみません、すぐ修正します。」


僕は平静を装って返事をしたものの、胸が押しつぶされそうだった。「これ以上は無理だ」という声が頭をかすめる。けれど、それでも僕は画面に向き直り、手を動かし続けた。頑張らなければならない。悠真さんがいない今、僕が頑張らなければ。


「もう……ダメかもしれない。」


その思いは、頭の片隅で繰り返し囁かれる。でも、今さら立ち止まるわけにはいかなかった。やらなければならないタスクは山積みで、どれも放っておくわけにはいかないものばかりだ。


手を動かし続けるしかない。でも、その動作一つひとつが重たく、まるで泥の中を歩いているような感覚に襲われる。気づけば、視界が少しぼやけていた。


「まだ、頑張れる……はずだ。」そう自分に言い聞かせるけれど、その言葉はどこか空虚で、ただ心の中でこだまするだけ。


その時だった。エレベーターの扉が開き、軽快な足音が響いてきた。


「おお、タカヤ、久しぶり!」


振り返ると、出張帰りの悠真がスーツ姿で颯爽とオフィスに入ってきた。その明るい声と笑顔に、オフィスの空気が一瞬で変わるのを感じた。


彼は僕の顔を見て、すぐに異変に気づいたようだった。


「あれ、お前、元気ないな?」


視線が僕のデスクに移り、山積みの書類とファイルを見て、眉をひそめた。


「お前、これ全部やってんのか?」


「いや……みんなの手伝いをしてて……。」


その言葉を聞いた途端、彼は険しい表情でアベのデスクに向かう。


「おい、アベ。これ、全部タカヤにやらせてるのか?」


「え?いや、ちょっと手伝ってもらっただけで――」


「お前さ、俺がいない間に何やってんだよ。こいつに全部押し付けるとかあり得ないだろ。」


さらにサトウに向かって言った。


「サトウ、お前の英語の翻訳くらい自分でやれよな。」


「え、だって俺苦手だし……」


「苦手でもやるんだよ。それが仕事だろ?」


ミズキに対しても容赦はなかった。


「ミズキ、お前もだよ。自分の資料くらい自分でまとめろよ。お前ら、タカヤに甘えすぎだろ。」


オフィス中が静まり返る中、彼は最後に課長に向かい、はっきりと言った。


「課長、タカヤに仕事が集中しすぎですよ。俺がいない間に、何でこんなことになってんですか?」


課長はバツが悪そうに頭を掻きながら言った。


「いや、タカヤ君が優秀だからさ……」


「優秀だからって、こいつが限界超えるまでやらせるのはおかしいでしょ!」


彼の怒声に、課長は言葉を失い、渋々「わ、わかった。そこは考慮する」と言った。


そして彼は僕の方に戻ってきて、肩を叩いた。


「ったく、お前いなかったら、このチーム、もう無理だわ。よく持ちこたえてくれたな。」


「でも……僕、そんなに……」


「そんなにじゃねえよ。お前はすげえんだよ。でも、さすがにやりすぎだ。これからは俺がいるから、もっと楽にやれ。」


彼はコーヒーの缶を差し出してにっと笑った。


「お前が倒れたら、俺が困るんだからな。」


その言葉に、僕の胸の中の重苦しさが少しだけ軽くなるのを感じた。缶を受け取り、僕は静かに微笑み返した。


「ありがとうございます……悠真さん。」


デスクに戻り、書類を整理しながら、胸の中で静かに思った。悠真がいるだけで、こんなにも安心できるなんて。僕が救われたのは、きっと彼の言葉と行動が、僕の存在をしっかりと認めてくれたからだろう。


そして、次は僕がどう動くべきなのかを考えながら、少しだけ深呼吸をした。


家に帰ると、机の上にはいつものようにVRヘッドセットが置かれていた。現実での疲れを引きずる体は重く、椅子に座るだけでも少し億劫に感じた。けれど、今日は何故かその重さが完全に僕を押しつぶすことはなかった。


悠真の声が胸に響いている。


「お前はすげえんだよ。俺がいるから、もっと楽にやれ。」


現実であの言葉を聞いた瞬間、何かが確かに軽くなった気がした。背負い込んでいたものがすべてなくなったわけではないけれど、それでも「もう少し頑張れるかもしれない」と思えた。その感覚を確かめるように、僕はヘッドセットを手に取り、ゆっくりと装着した。




VRパート


ログインすると、目の前には新しく完成したギルドハウスがそびえていた。木材と石を組み合わせた温かみのあるデザインで、屋根には紋章が刻まれている。僕たちのギルド「紡ぎの灯火」を象徴するこの場所は、どこか柔らかで、そして力強い雰囲気を持っていた。


「あ……できたんだ……。」


僕は自然と微笑んでいた。この場所が、これから僕たちの新しい物語を紡ぐ拠点になる。その事実がじんわりと心に染み込んでくる。


その時だった。


「タカコさん!大変だよ!人がいっぱい来てる!」


ギルドハウスからカナが飛び出してきた。彼女の狐耳がぴょこぴょこと揺れ、顔には興奮と驚きが入り混じっている。


「人がいっぱい……?」


僕は彼女の後ろを見た。そして、目の前に広がる光景に思わず息を飲んだ。ギルドハウスの前庭には、驚くほど多くのプレイヤーが集まっていた。色とりどりの装備に身を包んだ人々が楽しそうに笑い、こちらを見ている。


「これは……一体……?」


僕は困惑しながら呟いた。その声に応えるように、ハルがいつの間にか近くに立っていた。


「どうやら、このギルドに入りたいって連中ばかりらしい。」


ハルの冷静な声に、僕はさらに混乱した。


「でも、こんなにたくさん……。」


その時、ユウキが僕の肩にそっと手を置いた。彼は優しく微笑みながら言った。


「よく見て、タカコさん。知ってる顔が多いんじゃない?」


ユウキの言葉に、僕はもう一度集まった人々の顔を見渡した。そして気づいた。そこにいるのは、どこかで一度は顔を合わせたプレイヤーばかりだった。


「あの時の人たち……!」


橋修復のときに協力してくれた人、灯台再建で一緒に汗を流した人、農業復興プロジェクトで力を貸してくれた人……。彼らの顔が一つ一つ思い出と結びつき、胸がじんわりと温かくなっていく。


その中の一人が一歩前に出て、深く頭を下げた。


「タカコさんのギルドなら安心だって聞いて、みんなここに来ました。」


その言葉に、胸が詰まるような気持ちになった。自分がここにいることで、誰かが頼れる場所を感じてくれるなんて――そんなことがあるとは思わなかった。


「でも、私たちのギルドに入るだなんて……。」


どう答えたらいいのか分からず、言葉を詰まらせていると、カナが大きく手を振って叫んだ。


「何言ってるの!タカコさんがリーダーだから、このギルドはこんなに人気なんだよ!」


カナの明るい声に、ハルが苦笑いを浮かべながら言った。


「お前のせいでまた忙しくなるな。」


その言葉に、僕はつい微笑んでしまう。ハルの言葉には、どこか誇らしさが滲んでいるのを感じた。


「でも、どうする?全員入れるのはさすがに無理だぞ。」


ユウキの現実的な意見に、みんなの視線が僕に向けられた。一瞬、迷いが胸をよぎる。


「そうね……まずは、話を聞いてみようかしら。」


僕がそう言うと、カナが勢いよく手を挙げた。


「よーし、じゃあ私が仕切るね!みんな順番に並んでー!」


その明るさに引っ張られるように、プレイヤーたちは笑いながら列を作り始めた。僕は彼ら一人一人の話を聞きながら、胸の中にある温かいものを感じていた。


「タカコさん。」


ユウキがそっと声をかける。その優しい声に、僕は顔を上げた。


「このギルドは、みんなにとっての居場所になるよ。タカコさんがその中心にいるから。」


ユウキの言葉に、胸がぽっと温かくなった。


「そうだといいね。でも、私一人じゃ何もできない。みんながいてくれるからだよ。」


僕の言葉に、ユウキが優しく頷く。その瞬間、遠くの空が柔らかいオレンジ色に染まり始めていた。ギルドハウスの窓から漏れる灯りと、みんなの笑い声が響き合い、この場所を特別なものにしている。


その夜、僕は小さな希望を胸に抱いていた。現実ではまだ何も解決していないけれど、ここには確かな居場所がある。このギルドで、また新しい一歩を踏み出していこう――そう心に誓いながら、僕は夜空を見上げた。




ログアウトパート


ログアウトすると、ヘッドセットを外した僕は、自室の静けさに包まれた。さっきまであんなに賑やかだったギルドハウスの喧騒が、まるで遠い夢のように思える。机に置かれたモニターにはデスクトップの画面が映り、周囲には未処理の書類や散らかった文房具が散乱している。


ヘッドセットを机の上にそっと置いた僕は、窓の外に目を向けた。夜の街は静まり返り、点々と並ぶ街灯の光がぼんやりと浮かんでいる。冷たい風が窓の隙間から入り込み、肩を軽く撫でた。


「戻ってきた、か……。」


独り言のように呟いた言葉が、空気の中に溶けていく。現実の空気は冷たくて硬いけれど、VRの中の温かい記憶が、胸の奥にまだ少しだけ残っている。


椅子にもたれながら、僕はさっきのギルドハウスでの出来事を思い出していた。仲間たちの笑顔、みんなで作り上げたギルドハウス、そして「一緒にいたい」と言ってくれた人たちの言葉。それらがじんわりと胸を温めてくれる。


でも、目の前には山積みの資料と未処理のタスクがある。現実は変わらない。明日もまた、会社に行って終わりの見えない仕事をこなさなければならない。


ふと、悠真の言葉が頭をよぎった。


「お前がいなかったら、このチームもう無理だわ。」


あの時の悠真の声には、確かな信頼と温かさが込められていた。その言葉を思い返すと、少しだけ胸が軽くなる。


「僕は、現実でも誰かに必要とされているんだ……。」


そう思いながらも、デスクの上に散乱した書類に目をやると、自然と溜息が漏れた。だけど、僕はもう一度深呼吸をして机に向かうことにした。


書類を片付けながら、ふと引き出しの奥に目が留まった。そこには、古いノートと写真がしまい込まれていた。ノートを手に取ってみると、学生時代に書いたプログラミングのメモやアイディアがぎっしりと詰まっている。


「これ……。」


ノートには、初めてプログラムを書いたときの試行錯誤や、将来作りたいと思っていたシステムの設計図が描かれていた。あの頃の僕は、ただ楽しくて、夢中で、誰かに評価されることなんて考えずにプログラミングに取り組んでいた。


そして写真には、家族と旅行先で笑顔を見せる自分や、友人たちと肩を組んで笑い合っている姿が写っていた。今の僕とは違う、どこか無邪気で、未来に期待している自分がそこにいる。


「この頃の僕……いろんなことに夢中だったな。」


ノートのページをめくりながら、自然と笑みがこぼれる。「あの頃は、評価なんて気にせずにやりたいことをやっていた。それで十分だったんだ。」


今の自分と比べてみると、少しだけ切ない気持ちになるけれど、同時に「それでも僕はちゃんとやってこれた」と思えた。


ノートの中には、僕が初めて完成させた小さなプログラムの記録もあった。


「ああ、これ……。一人で徹夜して書き上げたんだった。」


プログラムが動いた瞬間の喜びが、鮮明に蘇る。今とは違う達成感がそこにはあった。そして写真の中、友人たちと笑顔で何かを成し遂げた瞬間も、僕の中で生きていた。


「僕だって、できることはあるんだ……。」


そう思うと、胸の中に小さな温かさが広がった。今の僕だって、誰かにとって役に立っている。悠真やギルドの仲間たちが、僕を必要としてくれるように。


ノートをそっと閉じて机の上に置く。写真も目に見える場所に飾り直した。「今までもやってきたんだから、これからもきっと大丈夫だ。」そんな小さな自信が芽生える。


机の上を片付け直し、明日の優先タスクを整理する。書類を一つ手に取るたびに、「まずは一つずつやっていこう」と心の中で言い聞かせる。


布団に横になり、目を閉じると、ギルドハウスでの仲間たちの笑顔が浮かんだ。カナの元気な声、ハルの静かな頼もしさ、ユウキの優しい言葉。それらが、今の僕を少しだけ支えてくれている。


「また……あそこに戻れる。」


静かに心の中でそう呟いて、僕は少しだけ穏やかな気持ちで眠りについた。

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