第3章:2030年9月26日 木曜日 宮下タカヤ

現実パート


朝の通勤電車はいつも通りの混雑だった。吊り革に掴まりながら、窓の外にぼんやりと目を向ける。建物の隙間から見える曇り空は、どこか薄暗く感じられた。薄曇りの隙間から青空が覗くのを見つけて、思わず小さく呟いた。


「こんな曇り空でも、青が見えるのか……。」


自分が呟いた言葉に、なんとなく驚いた。周囲を見渡すと、誰も彼もがイヤホンをつけてスマホを覗き込んでいる。その中で、自分だけがぽつんと浮いているような気がして、さらに目をそらした。


電車の窓に映る自分の顔。曖昧で頼りないその顔が、まるで別の誰かのように感じられた。


会社に着くと、同僚たちがすでに談笑していた。アベとサトウの姿が目に入る。アベは肩幅が広く、体全体が大柄で声も大きい。一方で、サトウは細身で長身。いつも皮肉混じりの冗談を言うのが癖だった。


「タカヤ君、見てよこれ!」

アベがスマホを見せながら声をかけてくる。画面には「奇跡のダイエット薬」という怪しげな広告が表示されていた。


「これ飲んだら、俺もイケメンになれるかな?」

茶化すようなその言葉に、サトウがすかさず突っ込む。

「無理だろ。それよりタカヤ君に効くんじゃない?」


「えっ、僕ですか?」

苦笑いで返すと、周囲がどっと笑った。


「いやいや、タカヤ君はそのままで十分だよなぁ。なんか、可愛いって感じで癒されるもん。」

アベがニヤリとしながら言う。


曖昧に笑うしかない。これも、いつものことだった。僕はどこにいても「和ませ役」だ。嫌じゃない。でも、本当にそう思っているのか、自分でも分からなくなる。


昼休み、社員食堂でカレーを食べていると、キラキラ系の女性社員、ミズキが近づいてきた。いつも明るくて、どこか周囲を華やかにする彼女の笑顔が目に飛び込んでくる。


「これ、新作スイーツらしいよ!」

嬉々として見せてきたのは、鮮やかなピンク色のケーキだった。

「タカヤ君にぴったりでしょ?」


「甘いもの、嫌いじゃないですけど。」

そう答えると、ミズキは満足そうに笑い、スマホを取り出した。


「じゃあ記念に撮らせてね!はい、笑って!」

戸惑う間もなくシャッター音が響く。


「やっぱりタカヤ君って、癒される顔してるよね~。」

彼女は楽しそうにスマホの画面を覗き込んでいる。その光景に、周囲の同僚たちも笑顔を見せていた。


僕は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。これが「僕の価値」だと分かっている。でも、それが心に響かない。ただ、空っぽの自分が迎合しているだけのような気がしてならなかった。


仕事を終えて、夜道を歩く。街灯がぼんやりと光を投げかける中、ふと足を止める。頭の中に、父の声が蘇る。


「あの時から、僕は変わらない……。」


中学生の頃、父が庭で手渡してきた泥だらけのスコップ。それを持つ手は震えていて、力を入れても地面を掘るのがやっとだった。


「何をしてるんだ。もっとしっかり持てよ。」

父の苛立ちが声に混じる。


「タカヤ、お前は考えすぎなんだよ。そんな細かいことより、まず手を動かせ。」

その言葉が、僕の中に重たく沈んだ。


スコップが地面に落ちる音。汗が額を伝い、手が泥で滑るたびに、父は冷たい視線を送った。


「頼りない。もっと根性を見せろ。」

そんな言葉が、僕の心に深い影を落としていった。


現実の僕は、あの時から変わっていない。頼りないまま、根性もなく、ただ周囲に迎合して「癒し」として消費されるだけ。価値なんてない自分を、誰かに認めてもらいたくて動いているだけだ。


部屋に帰ると、机の上に置いたVRヘッドセットが目に入る。それを手に取った瞬間、微かな救いの感覚が胸を満たす。VRの中では、僕は「タカコ」というもう一人の自分になれる。


「空っぽでも、ここでは……。」


装着した瞬間、視界が切り替わる。静かな草原が目の前に広がり、風が髪をなびかせる感覚が伝わる。現実の僕ではない、「タカコ」としての僕がここにいる。


「もう一人の自分」だけが、僕を救ってくれる存在だった。




VRパート


ログインすると、目の前には広大な草原が広がっていた。夜空には月が輝き、その光が草原を優しく照らしている。風が草を揺らし、そよそよと耳元で心地よい音を奏でる。その瞬間、現実で背負っていた重たい何かが、すっと薄れるような気がした。


この場所は、いつでも優しい。この世界では私は「タカコ」として存在している。それだけで、何もかもが軽くなる気がする。


「おーい、タカコさん、こっちこっち!」


カナの元気な声が風に乗って届く。草原を駆け回る彼女の狐耳がぴこぴこと動き、無邪気な笑顔が月明かりに輝いて見える。その笑顔を見るだけで、少しだけ心が温かくなる。


「また駆け回っているのか。」ハルが冷静な表情で彼女を追いかけながら、呆れたように呟く。その長身のエルフ姿が月光に照らされ、彼特有の落ち着きが際立っている。


「やっと来たね、タカコさん。」ユウキが柔らかな声でそう言いながら、私の方へ歩み寄る。いつものように優しい笑顔を浮かべ、その穏やかな瞳が私を安心させてくれる。


「うん、遅くなっちゃってごめんね。」私は小さく手を振りながら、彼らの輪に加わる。この瞬間だけは、誰かと一緒にいることが心地よいと感じられる。


カナが元気いっぱいに提案する。「今日は草原エリアを探索しようよ!新しい場所、見つけたいんだよね!」


「どうせ罠だらけだろう。少しは計画を立てたらどうだ?」ハルが冷静にツッコミを入れる。


「いいじゃん、罠も冒険の一部だよ!」カナが大きな身振りで反論する。その無邪気さに、私も思わず微笑んでしまう。


「まあ、カナがそう言うなら、付き合うしかないか。」ユウキが肩をすくめながら冗談めかし、穏やかに場を和ませる。


彼らのやり取りを見ていると、不思議と現実のモヤモヤが薄れるような気がする。それでも、胸の奥には何か重たいものが残っていた。


「……やっぱり探索やめない?」突然、カナが立ち止まり、大きな声で言った。その場の空気が一瞬止まる。


「どうしたんだ、急に。」ハルが眉をひそめる。


「なんか気乗りしないんだよね。もっと落ち着ける場所に行きたい!」カナが自信満々にそう言いながら、どこか真剣な表情を見せた。


「じゃあ、あの木の下に行こうか。」ユウキが草原の奥に見える一本の大きな木を指差す。


その木は、草原の中で孤高のように立ち、根元にはくぼみがあり隠れ家のような雰囲気を醸し出していた。月明かりが葉を透かし、地面に淡い模様を描いている。


「いいじゃん!行ってみよう!」カナが満面の笑みで走り出し、ハルが溜め息をつきながらその後を追う。


木の根元に腰を下ろし、私は静かに周囲を見渡した。木漏れ日が優しく降り注ぎ、草の揺れる音が耳に心地よい。こんな穏やかな場所が、現実にもあればいいのに――そんなことを思いながら、ふと目を閉じる。


「で、タカコさん。」カナが私の方を向き、まっすぐな目で言った。「何かあったんでしょ?」


「え……?」私は驚いて顔を上げる。


「今日は元気ないなーって思ったから、無理やりみんなここに連れてきたんだ!」カナはニコニコと笑いながら続ける。「だからさ、話してみなよ。スッキリするかもしれないし!」


「カナが気を使うなんて珍しいな。」ハルが小さく呟いた。


「うるさいなー!いいじゃん、たまには!」カナがふざけた調子で返し、再び私に向き直る。「どう?」


少し迷ったけれど、私は静かに口を開いた。


「最近ね、現実では私がどうでもいい存在なんじゃないかって思うことが多いの。」最初は途切れ途切れに話し始める。「職場でも、軽く扱われてるような気がして……。茶化されてばかりで、本当に必要とされてるわけじゃない気がして。」


「それって、タカコさんのせいじゃなくて、周りの人が悪いんだよ!」カナがきっぱりと声を上げた。その無邪気な自信が、どこか救われるようでありながら、少しだけ現実とのギャップを感じさせた。


私は少し目を伏せながら、静かに答えた。「でも、そういう扱いが続くと、いつしか自分自身の価値も分からなくなるの。誰かの役に立ってる実感がなくて……それどころか、必要とされているとも思えなくなって……。」


その言葉に、ふと場が静まり返る。風が草を揺らす音だけが耳に響き、月明かりが淡く地面を照らしている。


「価値なんて、自分で見つけるものだ。」ハルの低く落ち着いた声が、その静寂を破った。「周りがどう扱うかは関係ない。タカコ自身が、ここでどうありたいか。それを決めるのは他の誰でもない、タカコだ。」


その冷静な言葉に、一瞬息を呑む。それは厳しさを含んだ指摘でありながら、どこか救いのようにも感じられた。


「でも、それが分からないから苦しいんじゃないかな?」ユウキが柔らかく言葉を続けた。「現実での自分が見えなくなった時、ここに来て少しだけ立ち止まる。それだって、悪いことじゃないと思うよ。」


彼の声は優しく、心の奥深くに静かに響く。私の混乱した思考をそっとなだめてくれるようだった。


「ここでは、タカコさんがどうありたいかを大事にしてほしい。誰かのためじゃなくて、自分のためにね。」


その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。それは、これまで誰からも聞いたことのない優しい響きを持っていた。


「これ絶対ユウキの出番だね!」カナが急に立ち上がり、場の雰囲気を一変させた。彼女はいつもの無邪気な笑顔を浮かべながら、ハルを引っ張るように立ち去る準備を始める。


「何を急に。」ハルが呆れた声を漏らしながらも、彼女に従って立ち上がる。


「私たちはタカコさんのこと大好きだからね!ユウキ、あとはお願い!」カナが振り返りざまに元気よく叫び、そのままハルと共に草原の向こうへ消えていった。


残されたのは、私とユウキだけだった。気まずい沈黙が少しの間流れる。私が何かを言おうとする前に、ユウキがそっと隣に腰を下ろした。


「……タカコさん、現実が辛いなら、ここで少しだけ休んでもいいんだよ。」彼の声は静かで穏やかだった。


「でも、それって……逃げてるだけなんじゃないかな……。」私は俯きながら、消え入るような声で呟いた。


ユウキはしばらく黙ったまま、夜空を見上げていた。そして、少し考え込むようにして、言葉を選ぶように語り始めた。


「たぶん、そういう風に思うのは、タカコさんが頑張りすぎてるからだよ。逃げることが悪いことだって、自分で思い込んでるんじゃないかな。」


私は顔を上げることができず、ただ彼の言葉に耳を傾けた。


「俺は、タカコさん自身に自分を大切にしてほしいと思ってる。どれだけ周りがどう思おうと、タカコさん自身が辛いと思うなら、その時は休むべきだよ。それは逃げることじゃない。ちゃんと自分を守ることなんだ。」


その言葉に、胸が締めつけられるような感覚を覚えた。目頭が熱くなり、とうとう涙が溢れて止まらなくなる。


「でも、私……どうすればいいか、分からなくて……。」


声が震えながらも、溢れる感情が止められなかった。ユウキは何も言わず、ただ静かに私が泣き止むのを待ってくれていた。


「ここでは、何も考えなくてもいい。タカコさんがここに来たいと思うなら、いつでも俺たちはいるから。」


その優しさに、私はただ頷くことしかできなかった。涙を拭いながら見上げると、ユウキの笑顔がそこにあった。


「ありがとう……。」小さく呟いたその言葉が、夜の草原にそっと溶けていった。




ログアウトパート


ログアウトすると、目の前が暗転し、次第に現実の光景が戻ってきた。自室の静かな空間。部屋の薄暗い照明が、机の上のVRヘッドセットをぼんやりと照らしている。


草原の心地よい風、月明かりに照らされた仲間たちの笑顔、そしてユウキの優しい声――その全てがまだ頭の中に鮮明に残っている。現実に戻ったはずなのに、心の一部がまだあの世界に置き去りにされているような感覚だった。


ふと、胸の奥から恥ずかしさがこみ上げてきた。思い出すのは、ユウキの前で泣いてしまった自分の姿。


「なんで、あんなに泣いちゃったんだろう……。」小さな声が自然と漏れる。両手で顔を覆い、熱くなった頬を隠そうとする。それでも、次々と押し寄せる記憶に耐えられず、ベッドに倒れ込むようにして顔を押し付けた。


「絶対ユウキさん、引いてるよね……。」そう呟くと、ますます気持ちが沈んでいく。布団の中で丸くなりながら、自分の感情がどんどん暴走していくのを止められなかった。


草原でタカコとして過ごしていた自由な時間。それは現実の自分では到底味わえないものだった。タカコは仲間たちに必要とされ、尊重されていた。でも、現実の僕は――。


「現実では、こんな風に本音を吐き出すなんて、絶対できないよ……。」布団の中で小さく呟く。けれど、ふとユウキの言葉が頭に蘇った。


「タカコさんが自分を大切にしてほしいと思ってる。」


その言葉は、優しく胸に触れるようだった。不思議と心の奥の硬い部分が少しだけ溶けるような感覚がした。


でも、それでも混乱する。ユウキは僕のことをどう思っているのだろう?あんなに泣いてしまった後、彼はどんな気持ちだったのか。胸の中に広がるモヤモヤは収まらない。恥ずかしさの中に、ほんの少しの救いのような温かさが混ざっている。それが、余計に自分を混乱させた。


机の上に目をやると、スマホが静かに置かれていた。手に取ってみるものの、通知は特にない。グループチャットを開こうか迷ったけれど、どうせカナがまたふざけたスタンプでも送っているのだろうと考え、そっとスマホを置き直した。


部屋の静けさが、草原の温かさとは対照的だった。その静けさが妙に寂しく感じられる。


「あの場所がなかったら、きっと今頃もっと辛かったかもしれない……。」


仲間たちのことを思い出しながら、自然と感謝の気持ちが湧いてきた。あの場所で、ユウキやカナ、ハルと過ごせる時間がなかったら、自分はどうなっていただろう。


やがてベッドに横たわり、目を閉じた。ユウキの言葉がまた耳に蘇る。


「タカコさんが自分を大切にしてほしい。」


その言葉を心の中で何度も繰り返す。少しずつ体の力が抜けていくのを感じながら、小さく呟いた。


「明日は……もう少しだけ、頑張ってみよう。」


そう言い聞かせながら、ゆっくりと眠りにつく。静かな寝息が部屋に響き、月明かりが机の上のVRヘッドセットを優しく照らしていた。

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