第二章:2030年9月21日 土曜日 瀬川ユリ
現実パート
朝晩の空気がひんやりとし始め、秋の気配が少しずつ街を染め始めている。9月の終わりに近づき、日差しは柔らかく、風はどこか穏やかだ。窓を開けると、街路樹の葉が少しずつ色づき始めているのが見えた。黄色と赤が混じる木々を眺めながら、「私」は深く息を吸い込む。
「現実が嫌いなわけじゃない。でも、時々息が詰まる。」
つぶやく声は、自分の中の重たい気持ちに向けたものだった。最近、現実の自分と、VRの中で「ユウキ」として生きる自分との間に広がる溝を、強く意識している気がする。
平日の私は、職場で「完璧な自分」を演じている。プロジェクトの進行状況を管理し、取引先と交渉し、同僚のフォローに回る――そのどれもが評価され、「瀬川さんなら安心」と言われる。けれど、その役割をこなすたびに心の奥で感じる違和感が、私を蝕むようだった。
「この完璧さは、本当に私自身のものなんだろうか?」
そんな問いが頭に浮かぶたび、あの瞬間の記憶が蘇る。最初に「ユウキ」を作った日のこと――。
「本当の私になりたい……」
そう考えたのは、偶然目にしたVRゲームの広告がきっかけだった。「自由」「もう一人の自分」という言葉が、ずっと抑え込んでいた感情を静かに揺り動かした。
現実の私は、「瀬川ユリ」として完璧であることを求められ、誰かの期待に応える日々を送っていた。評価されるたびに胸に浮かぶのは満足感ではなく、どこか乾いた虚しさだった。誰も私自身を見ていない。ただ、「完璧な瀬川ユリ」を望んでいる。それが私の存在意義だと思い込むたび、心のどこかがすり減っていく感覚があった。
「現実じゃない場所……別の私……」
そう考えたとき、気づけば私はヘッドセットを購入し、VRの世界への扉を開けていた。そして、ログイン画面の向こうに現れたアバター作成の画面。
なぜ、あのとき「男性」を選んだのだろう?
それは、私が「瀬川ユリ」という存在から解放されるためだった。性別も、見た目も、自分とは全く異なる存在になることで、「私」を縛りつける現実の枠を超えられる気がした。長い髪も華奢な体型も捨てて、短髪で高身長の凛々しい男、ユウキというもう一人の自分を作り上げた。
画面越しに完成したユウキを見つめたとき、胸の奥で何かが弾けた。
「これが、本当の私かもしれない。」
頭を振って考えを振り払う。今日は土曜日、仕事から解放された貴重な一日だ。少しでも日常を忘れるために、郊外の静かな場所に足を向けることにした。
繁華街を抜け、人気の少ない通りに入ると、少しひんやりとした空気が頬に触れる。道端には彼岸花が揺れていて、秋が深まってきたことを知らせてくれる。
そのとき、ふと目に留まった一軒のカフェ。大きな窓から差し込む柔らかな光と、落ち着いた木のインテリアが印象的だった。まるでその空間だけが特別な時間を纏っているような感覚に、不思議と心が惹かれる。
「ここ、いいかも。」
ドアを開けると、コーヒーの香ばしい香りがふわりと漂ってきた。控えめな音楽が静かに流れ、店内には落ち着いた雰囲気が広がっている。こんな場所に足を運ぶのは久しぶりだったけれど、今日はここで何かを見つけられる気がした。
「いらっしゃいませ!初めてですか?」
レジに立っていた女性が、明るい笑顔で声をかけてくる。
「あ、はい。初めて来ました。」
そう答えると、彼女は親しげに笑った。
「嬉しいです!ここ、結構隠れ家的で落ち着けるんですよ。私、沙耶っていいます。何かおすすめ聞きたいですか?」
その親しみやすい態度に少し驚きながらも、「じゃあ、おすすめを」と答えると、彼女はラテを勧めてくれた。「ありがとうございます!きっと気に入ると思いますよ!」と元気よく言い、作業に戻っていく。
彼女の自然な明るさに惹かれながら、空いている窓際の席に座った。ラテが届くまでの間、外の景色を眺めていると、視線の先のテラス席に一人の男性が目に入った。
黒髪が少し揺れ、華奢な肩がどこか頼りなげだ。うつむき加減でノートパソコンに向かうその姿は、周囲の喧騒から切り離されたように静かで、妙に目を引いた。
「あ、タカヤさんですね。」
突然の声に振り向くと、沙耶さんが笑顔でラテを運んできた。
「タカヤさん?」
「そう。あの彼、常連さんなんです。表情がコロコロ変わるのが面白くて、見てて飽きないんですよね。」
沙耶さんはクスクスと笑いながら続けた。「正直、彼目当てで来るお客さんも結構多いんですよ。なんかこう、柔らかい雰囲気というか、癒し系というか。」
「癒し系……。」
窓の外のタカヤさんに目をやる。確かに、彼の周りだけ空気が柔らかい気がする。その静かな佇まいに、なぜか心が引き寄せられるようだった。
ふと目が合った気がしたが、彼はすぐに目をそらしてしまった。その仕草に気づいた瞬間、私も慌てて視線を外す。
「……変な感じ。」
彼の存在が頭の中を占めていくのを感じる。気づけばラテは飲み干されていた。店を出ると、秋の昼下がりの光が優しく目に染みた。
タカヤさん――その名前と、あの雰囲気が胸に引っかかる。どうしてこんなに気になるのだろう。
家に帰り、窓の外を見ると、夕焼けが街を淡く染めていた。けれど、私の頭にはカフェで見たタカヤさんの姿が繰り返し浮かぶ。
「……どうしてこんなに気になるんだろう。」
ポツリと呟き、ヘッドセットに手を伸ばす。VRの中に入れば、少しは気持ちが整理できるかもしれない。今夜も「ユウキ」として生きる自由な時間を求めてログインした。
VRパート
ログインすると、目の前には月明かりに照らされた静かな湖畔が広がっていた。水面には無数の星が揺れ、優しい風が頬を撫でるように吹き抜ける。その穏やかな光景に包まれ、私はユウキとしての自分が自然に馴染んでいくのを感じた。
「こんばんは、ユウキ!タカコもいるよ!」
軽快な声とともに、カナが草原を駆けるように現れる。狐耳がピンと立ち、ふさふさの尻尾が揺れている。その無邪気な笑顔には、いつも心を和ませる力がある。
「タカコさんも来たよ!」
振り返るカナの言葉に続いて、ふわりと羽ばたきながらタカコが湖畔に降り立った。透明な羽が月明かりを受けて輝き、幻想的な姿を際立たせる。彼女は軽く手を振り、控えめな微笑みを浮かべた。
その後ろから、長身で凛々しいエルフのハルが落ち着いた足取りで現れる。尖った耳が静寂の中に際立ち、どこか頼りがいのある雰囲気を漂わせていた。「夜遅くにどうしたんだい?」と静かに問いかける声には、いつもの落ち着きが感じられる。
「少し考えごとしててね。」
ユウキとしての声が自然と返る。
「おおっと、ユウキが考え事なんて珍しい!」
カナが大げさに手を広げて笑う。無邪気な彼女の仕草に、タカコも口元に柔らかな笑みを浮かべる。「本当だよね、なんだか不思議な感じ。」とユウキを軽くからかった。
仲間たちと湖畔を歩きながら、カナが楽しそうに新しい冒険の計画を語り始める。「次は山岳地帯の洞窟を探索するってどう?お宝が眠ってるって噂なんだよ!」
「そんな噂だけで行くのか?どうせ罠だらけだろう。」
ハルが冷静にツッコミを入れる。
「いいじゃん!罠も含めて冒険でしょ!」
カナは明るく言い返し、軽くジャンプして尻尾を揺らす。そのやり取りに、自然と笑い声が溢れた。
ふとカナが立ち止まり、「ねえ、覚えてる?」と切り出した。「最初にみんなで挑んだ迷宮のこと。」
「ああ、ミスティウッドの遺跡だな。」
ハルが静かに頷く。「右も左も分からなくて、全滅しかけたっけな。」
「そうそう!私の魔法が暴発してタカコさんに当たっちゃった時とかね!」
カナが声を弾ませると、タカコが肩をすくめて微笑む。「あれは驚いたけど、今思えば良い思い出だよ。」
「普通さ、暴発なんてする?」
カナは少しふくれっ面をして言う。「このゲーム、難しすぎるんだよ!初心者に優しくないっていうか、仕様が厳しすぎるの!」
「確かに、操作をミスるとすぐにとんでもないことになるよね。」
ユウキが優しく笑いながら同意した。
「でも、そのおかげで学べたことも多いだろう。」
ハルが真顔で言う。「タカコが罠の仕掛け方を教えてくれたおかげで、俺たちは何度も危機を乗り越えた。」
カナは湖面を見つめ、ぽつりと呟いた。「そうだよね。タカコさんのおかげで気づけたんだ。戦いばかりが全てじゃないって。」
彼女は少し恥ずかしそうに笑いながら続ける。「私、戦うのが好きだからさ、最初は敵を倒すのが冒険の全てだって思ってた。でも、最近は違うんだよね。」
狐耳をぴこぴこと動かしながら、カナは湖畔の景色に目を向けた。「作ったり、準備したり、こう何もしない時間っていうのも、ここでみんなといると気にならないって気づいたの。私って、何かしてないとウズウズしちゃうタイプだからさ。」
「なるほどな。じゃあ、今度からカナはお留守番でいいな。」
ハルが静かに言い放つ。
「えっ、ちょっと!?やだよ!そんなの!」
カナは狐耳を揺らしながらハルに駆け寄り、ポカポカと叩き始める。「お留守番なんて絶対やだってば!なんでそうなるのよー!」
「だって、満たされてるんだろ?だったらクエストには来なくても――」
「ちょっと、ハル!ほんとにやめてよ!」
ハルは困ったような笑みを浮かべながらも、楽しそうに彼女を見下ろす。「そんなに嫌なら、もっと説得力のある理由を言ってみろよ。」
「理由なんていらないでしょ!私は戦うのが好きなんだもん!」
カナは口を尖らせながら言い返し、皆が笑い出す。
ユウキが優しい表情で言葉を添える。「カナがそうやって感じられるようになったのって、冒険を通じていろんなことに気づけたからじゃない?」
「そうなのかな……まあ、戦うのが好きなのは変わらないけどね!」
カナは少し照れ隠しのように明るく笑った。
「まあいい。お前がいないと、場が持たないしな。」
ハルが小さく笑いながら言う。
「それどういう意味!?」
カナが声を上げ、皆がまた笑い声に包まれた。
仲間たちの和やかなやり取りが湖畔に響く中、月明かりが優しくその光景を照らしていた。
ログアウトパート
ログアウトボタンを押すと、視界が暗転し、やがて現実の部屋が戻ってきた。ヘッドセットを外すと、静まり返った部屋の空気が重くのしかかってくる。机の上には明日の仕事の資料が無造作に積まれ、スマホの画面がうっすらと光を放っている。
「ふう……」
軽くため息をついて椅子に深く座り直す。
VRの中で過ごした穏やかな時間がまるで幻だったかのように感じる。湖畔の柔らかな風や仲間たちの笑い声――それらは現実の空気にはどこにもないものだった。
ふと、今日のことを思い出す。あのカフェで見かけた「タカヤさん」という男性のことが、頭の片隅に引っかかっている。
黒髪が少し乱れた頼りなげな姿、華奢で静かな佇まい――だけど、その背中には不思議な優しさのようなものが滲み出ていた。
「なんで、あの人のことがこんなに気になるんだろう……」
机の上に肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえながら、自分に問いかける。彼と会話をしたわけでもない。ただ、窓の外から何気なく見かけただけ。それなのに、その時の光景が何度も頭の中で繰り返されている。
視線が合ったような気がした瞬間、彼がすぐに目をそらした。そのさりげない仕草が胸のどこかをくすぐった。
「ただの偶然でしょ……」
自分にそう言い聞かせるものの、彼の雰囲気がどうしても忘れられない。私の中にある何か――何とも言えない虚しさや疲れのようなものが、彼の姿に触れた時に少しだけ軽くなった気がしたのだ。
けれど、それが何なのかは分からない。ただ漠然としたモヤモヤが胸の奥に広がるだけだった。
ベッドに向かい、布団を広げると、そのまま倒れ込むように横になる。天井を見つめながら、頭の中では仕事のことが渦を巻いている。職場での会話、明日こなすべきタスク、そして誰にも気を許さず「完璧な自分」を演じる自分――それらが重くのしかかる。
「……このままのペースだと、持たないかも。」
心の中でふと呟いた。仕事は嫌いじゃないし、周りの期待に応えたいと思っている。けれど、常に自分を演じ続けることが、どれだけ自分を削っているのか、最近は少しずつ分かるようになってきた。
だけど、そのことに気づいても、ペースを変える方法が分からない。
「タカヤさんも、何か抱えているのかな……」
今日、カフェで見かけた彼の表情を思い出す。ノートパソコンに向かいながらも、時折ふっと遠くを見つめるような仕草。その瞬間に浮かぶ切なさのようなもの。それが、私の中の虚しさにどこか重なった気がした。
「……なんで、こんなに気になるんだろう。」
そう呟いたところで、答えは出ない。ただ、あのカフェで見かけた彼の姿が頭を離れないまま、静かに目を閉じた。
遠くで聞こえる時計の針の音が、日常の時間を刻んでいる。けれど、私の心はあのカフェの時間と湖畔の穏やかな世界の間で揺れていた。
「また、明日……」
そう心の中で呟き、モヤモヤとした感情を抱えたまま、私は眠りに落ちていった。
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